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マツモトコージ苑
     2009年  (最終更新日 : 2026/06/27)
「女剣劇旅役者」丹下セツ子さん

「女剣劇旅役者」丹下セツ子さん (2026/06/27)  「舞台に上がる以上、お客さんに喜んでもらえなければ意味がない」―。こう語るのは、「女剣劇旅役者」としてブラジル全国を回った経験を持ち、渡伯して今年(2009年)で四十五年になるという丹下セツ子さん(六九、東京都出身)。昨年(08年)は、「丹下セツ子太鼓道場」創設三十周年の節目の年を迎え、若い世代の成長を期待しながらも、常に客の立場を考えた舞台構成を行なう必要性を説き、門下生たちを叱咤激励する。今年からは自身で三味線を始めるなど、まだまだ新しい芸事への挑戦は尽きない。丹下さんの活動を振り返る。

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 セツ子さんの母親は、日劇ダンシングチームに所属し、水の江瀧子氏、宮城千賀子氏とともに「初代三人娘」と言われた故・丹下キヨ子さん。歌手・女優でもあり、NHKの第一回紅白歌合戦の初代司会者を務めたことなどでも有名だ。
 その芸能人だった母親よりも、「娘義太夫」になりたかったという祖母の影響を受けたセツ子さん。自然と芸事にも興味を持ち、「子供の頃は『弱きを助け、強きをくじく女ヤクザ』になりたくて、そのことを先生に話したら、廊下に立たされたよ」と笑う。
 その後、「女が男どもをバッタバッタとなぎ倒す」『女剣劇士』に憧れ、その道の草分けである不二洋子(ふじ・ようこ)氏に師事。「日本で大衆劇団をつくり、その座長になりたい」との夢を抱いた。しかし、一九六〇年代当時、大衆劇団をつくるのには百万円の大金が必要だった。
 その間、母親のキヨ子さんは当時の南米銀行創立十五周年記念イベントとしてブラジルでのショー出演に招待され、全伯各地を訪問して周った。キヨ子さんはブラジルが気に入り、家族を呼寄せた。
 長女のセツ子さんはその頃、大衆演劇に夢中で「とても海外など行く気にはなれなかった」という。しかし、キヨ子さんが、「ブラジルに来て一年もやれば、(大衆劇団をつくる資金の)百万円くらい出すことはできるわよ」と言われ、その気になった。
 当初、移民船の「さくら丸」で来る準備を整えていたが、カルナバル時期でキヨ子さんの配慮もあり、結局は一九六五年に飛行機でブラジル入り。キヨ子さんはその頃、「パール」という店をサンパウロ市のアウグスタ街で経営。店の舞台でキヨ子さんが司会し、セツ子さんが出演するという「日本でも滅多に見られない舞台」(セツ子さん)を行なったりもした。
 その後、一年ほどしてキヨ子さんと四歳違いの妹が「日本に帰りたい」と言い出し、店を継ぐ意思も無いセツ子さんは困惑した。その時に世話になったのが、現在のボサノバ歌手の第一人者である小野リサさんの両親だったという。
 当時、「一番」という店を持っていた小野さんの下で働いていた日本人の板前氏が、丹下さんたちに「一緒に店を開けましょうよ」と誘ってくれ、ブリガデイロに開けたのが「左膳(さぜん)」という日本食レストランだった。
 すぐにでも日本に帰りたいという妹たちをセツ子さんは「一年経ったら、(自分が貯めて持って帰るはずだった)百万円をあげるから、それまで辛抱しておくれ」と説得した。
 結局、キヨ子さんと妹たちは日本に帰り、思いがけず自分だけがブラジルに残ることになったセツ子さんは、「旅役者」として仲間とともにブラジル各地を飛び歩くことになる。

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 「ブラジルに来て一年目から旅回りは、やっていた」というセツ子さんだが、「丹下セツ子劇団」を正式に立ち上げたのは、渡伯十年目のこと。音楽家の島田正市氏、司会者、着付け師など八人ほどでメンバーを組み、全伯各地の日本人移住地を中心に「来てほしいと言われたところには、どこにでも行った」という。
 「自分の足で旅回りをしてみて、『ブラジルにはこんなに日本人が居るのか』って改めて思ったね。『死ぬ前に、こんなに良い舞台が見られるとは思ってもいなかった』と抱きついて来る人や、私の手を握って自分のはめていた指輪を握らせる女性なんかもいてね。『よし、ブラジルの日本人のいる場所を全部周ってから日本に帰ろう』と思ったけれど、ブラジルは広いから、なかなか帰れない訳よ」とセツ子さんは、ブラジルに留まることになった理由をこう説明する。
 旅回りの中でもセツ子さんが特に印象に残っているのが、北伯ベレンとトメアスーを訪問した時のことだ。
 スポンサーが付いてくれ、初めてアマゾン地域に行く念願がようやく叶ったが、劇団員一行がベレンに着いて数日経った時、八〇年代後半当時のタンクレード・ネーベス大統領が死ぬか死なないかの瀬戸際という情報が舞い込んだ。
 「せっかく実現した公演が、大統領が死んじゃったんじゃあ、できなくなる。トメアスーまでの道をベレンからバスで行くんだけど、その頃はまだ道が悪くて振動がすごくてね。その影響で劇団員の一人が脳卒中で倒れちゃって、バスの後ろから救急車が来たりして。『(大統領も劇団員も)二人とも死ぬなよー』なんて祈りながら、何とか無事終えて。ほんと、一生忘れられないよ」
 そうした旅回りの活動の中で、七八年に創設されたのが、現在の「丹下セツ子太鼓道場」だ。
 八人ほどのメンバーで旅回りを続けていた当時、移住地などには必ずと言って良いほど和太鼓が飾られてあった。その地の関係者に聞いてみると、県人会や県庁などから立派な太鼓が贈られてきても、正式に叩く人がおらず、わずかに盆踊りなどで使用するぐらいだったという。
 ある時、セツ子さんが団員とともに舞台の中でアレンジして現地にある太鼓を叩いた時、観客からは「故郷の太鼓の音を久しぶりに聴いて、涙が出た」と大きな反響を呼んだ。
 その後、サンパウロではリベルダーデ区にある土産店「美仁着物(みにきもの)」の主人から「子供たちに太鼓を教えてやってほしい」との依頼もあり、創設当初は「丹下セツ子青年太鼓隊」と称し、四、五人の子供たちから太鼓二台だけの設備で始まったという。
 当初の太鼓メンバーは十歳前後の子供たち。現在は、彼らも四十歳代と働き盛りの世代となり、若手メンバーに任せつつも事あるごとに次世代の指導を行なうなど、「縁の下の力持ち」的存在として協力している。

(3)

 昨年(2008年)九月二十八日にサンパウロ市リベルダーデ区の文協記念講堂で開催された「丹下セツ子太鼓道場三十周年記念公演」は、立ち見客も出るほどの超満員となり、盛況を博した。 太鼓を行うようになった子供たちの親からは、日本語が判るようになったことに加えて「性格が優しくなった」と言われるという。
 丹下さんが常日頃から門下生たちに厳しく諭しているのが、人に対する挨拶と、約束した時間を守るという行儀作法だ。
 「日本のものを学ぶなら『ここはブラジルだから』なんて言葉は通用しないよ」
 その一方で、「私は踊りや太鼓の先生じゃあない。芸人なんだよ」と言い切るセツ子さん。「どうやれば、お客さんに喜んでもらえるか、一回一回が勝負さ。太鼓道場の生徒たちにも『あとは、あんたたちの力次第。客の前に出るなら、それなりの覚悟で出ろ』とは言っているね。自分たちが主役ではなくて、お客さんが一番なんだと」と、プロ意識の大切さを強調する。
 今でも毎年十二月に日本で行われる大衆演劇の全国座長大会には必ず出席しているセツ子さんは、「コロニアの人たちに、いつかは本物の大衆演劇を見せてやりたい」との思いから、日本の大衆演劇の大御所である沢竜二(さわ・りゅうじ)さんを二十年ほど前に初めて招待。二〇〇二年には、沢さんをはじめ座長十数人を招待し、文協記念講堂での大舞台を成功させた。
 「一回の舞台に日本から十数人も芸人を呼んで、赤字覚悟でなけりゃ、やれないよ。自分が本当に好きだからやっている。ボランティアじゃ、できないよ」
 母親のキヨ子さんが九八年に亡くなって今年(2009年)で十一年が経つ。そのキヨ子さんから生前、「いくらお金がかかっても私が出すから、日本で『丹下セツ子ショー』をやってみないかい」と言われたことがあるという。
 その時セツ子さんは「おっ母さん、私はブラジルで本当に可愛がってもらったから、そんな必要は無いよ」と、母の気持ちを有難く受けとめながらも、やんわりと断った。
 当初は日本の大衆演劇の座長として舞台に立つことを夢見たセツ子さんだが、ブラジルに滞在して三十年ほど経った頃から「芸人なんて、どこで花が咲いたって同じ。『セッちゃんが出るから見に行きたい』なんてお客さんが言ってくれる。ブラジルで伝説の人になろうと思ってきた」という。
 旅回りについては、NHK国際衛生放送がコロニアでも視聴できるようになった頃から、「(日本の本物の芸を見せたいという)私の役目は終った」と感じた。
 大衆演劇を行う一方で、日本食レストラン経営も『左膳(さぜん)』『孝橋(こうはし)』『雅(みやび)』と店の名前は自体は変遷してきたものの、トータルで四十三年にわたり現在も継続。「店をやり、協力してくれた人たちが居たからこそ、今の私がある」とセツ子さんは、共に支え合ってきた人々への感謝を忘れない。
 今年になってセツ子さんは、改めて三味線を習い始めた。「頭で判ってても、身体がついていかないよ」と苦笑しながらも、「今でも夢はあるよ。まだまだ良い舞台にも出たいし、今までとは変わったものをやりたいね」との意気込みを示す。 「次に生まれ変わっても芸人になりたいよね」 芸一筋のセツ子さんの熱い思いが、キラリと輝いた。(おわり) 
 


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