|
ピラール・ド・スールの草分け (2026/09/02)
2013年6月9日に創立60周年記念式典を開催したピラール・ド・スール日伯文化体育協会(南満会長)。1945年に鹿児島県出身の3家族が入植して始まった同地の日系社会は、日本語教育に力を注ぎ、(13年)現在も40代前後の若手農業者が果物栽培を中心に生産活動を行うなど、先人たちの思いを継承している。節目の年を記念して、草分けの子弟や文協創立会員夫人たちに、入植当時のことなどを振り返ってもらった。 (1)
創立60周年記念式典では、文協創立会員夫人5人に記念品が贈呈されたが、既に創立当時会員だった家長は皆、鬼籍に入っている。 創立会員夫人の一人である河津夏子さん(82、2世)はサンパウロ州ドゥアルチーナで生まれ、16歳の時に家族とともにピラール管内のバーラ地区に入植した。 夏子さんの父・牛嶋分(うしじま・わかつ)さんは、戦前ドゥアルチーナに親戚が居たことから、それを頼って1920年代前後に渡伯したとみられる。母親は夏子さんが7歳の時に同地で亡くなり、「カフェザルで働いていては良くない」との判断からサンミゲル・パウリスタやイタペチニンガなどを転々とした。後妻を娶(めと)った分さんは47年、ピラール管内のバーラ地区の土地40アルケールを購入して入植し、同地区の草分けとなった。当時、牛嶋家族はバタタ生産などを行っていたが、親分肌の性格だった分さんはドゥアルチーナ時代に世話になった人から「仕込んでやってほしい」と依頼を受けた日本人青年や他地域から同地に入植してきた人々の面倒をみた。その一人が河津寅男さん(熊本県出身、故人)で、後の夏子さんの夫になる人だった。 六女だった夏子さんだが、当時姉妹の中でも体格が良く、父から「お前がしっかりやってくれ」と家族としての期待を受けていた。その後、夏子さんは河津さんと恋愛関係となり19歳で結婚。同地区で河津さんは独立し、現在も夏子さんは同地に住み続けている。 結婚前、夏子さんは「日本の人は厳しいと聞いていた。私は(国籍は)ブラジレイラ(ブラジル人)だから、日本人との結婚はちょっと難しいと思った。でも父から『何とかしてくれ』と言われて、結婚する気になった」と河津さんとの恋愛結婚ながら、当時のことをそう振り返る。 実家の隣接地で独立してからの夏子さんの生活は、午前4時に起床して家族の弁当作りから始まり、夫と一緒に農作業を行う毎日。そのころはバタタ(ジャガイモ)、トマト作りが主流で、果物栽培に転換したのは60年代初頭だったというが、「畑が家の近くにあっても、日中は家には帰ったことがなかった」ほど働いた。 現在一緒に暮らすバーラ地区生まれの次男・ショウジさん(58、3世)は現在、ブドウと柿を中心にビワやポンカン等を栽培している。2011年3月に86歳で寅男さんを亡くした夏子さんは現在、ショウジさんの妻である正子夫人(48、3世)と孫たちに囲まれながら幸せな日々を送る。 「今でこそ、息子が(農業生産を)やってくれるので隠居ができ、のんきな生活を送ることができます」と語る夏子さん。現在も趣味で自分の畑で小豆、フェイジョン、そばなどを植えており、「この前も自分でそばを作って食べましたよ」と、そばがらを見せてくれた。 嫁の正子さんの「今でも婆ちゃん(夏子さん)が大将です」と笑う顔に、夏子さんの家庭の温かさを感じた。
(2)
故・河津寅男さんの妹に当たる佐々木すえのさん(82、熊本県出身)は、河津夏子さんと同じ文協創立会員夫人の一人として現在も、バーラ地区で暮らしている。 「小学校4年生だった」というすえのさんは1941年、「ぶえのすあいれす丸」で家族と共に渡伯。サンパウロ州ドゥアルチーナに入植し、家族はカフェ栽培に従事した。 ドゥアルチーナ時代は「戦争でひどい状態」(すえのさん)で、日本語を話したと言ってはブラジル人から非難され、「近くのパイナップル畑に逃げ込んだこともあった」という。 兄たちと一緒にピラール管内のバーラ地区に転住したのが49年ごろ。同地の草分けでパトロンだった故・牛嶋分(わかつ)氏の耕地に入植した。 「12~13歳ごろからカマラーダ(日雇い労働者)のように働いてきましたが、バーラ地区に来ても道づくりのために泥などを運ぶ仕事を牛嶋さんから言われてやりました。そのころは男も女も関係なく、できない仕事でも何でもやらされました、牛嶋さんは頑固な人でしたけれど、あの人が居たから今までやって来れたと思います」と、すえのさんは、同地で長年にわたって働いてきたことを思い出す。 「まだ空が薄暗いうちから起きて仕事をしてきたが、一つももうけになりませんでした。朝ご飯を食べたら雨でも何でも仕事をし、当時は楽しみなどほとんど無かった。牛嶋さんの倉庫にシネマ屋が来ていたことがあったけど、(独身時代は)ナモーラ(恋愛)などする暇も無かったね」と、すえのさん。その牛嶋さんの世話で同地に住んでいた佐々木家の次男だった隆一(たかいち)さんと23歳で結婚。一男一女をもうけたが、隆一さんは心臓まひにより35歳の若さで急死。その後、すえのさんは佐々木家次男の正一さんと再婚したが、正一さんも1979年に70歳で他界し、2人の夫を亡くしている。 そうした過酷な生活の中でも「日本に帰りたいと思ったことはなかった」というすえのさん。1990年に渡伯後初めて日本に戻り、古里の熊本県を訪ねたが「昔知っていた人は誰もおらず、思い出はあっても知らない土地になっていた」とし、「もう日本には行こうと思わない」と話す。 2人の夫を失ったすえのさんだが、それぞれの息子たちが共同で農地を経営し、現在、ブドウ、アテモヤ栽培やユーカリ樹の植林なども手掛けている。 「今はたまに(ピラール・ド・スール日伯文化体育協会の)会館に行って、のど自慢を聴きに行ったりしています」と楽しみを話すすえのさんは、「体は元気で、毎朝農場の中を2㎞ぐらい歩いていますよ」と目を細めた。
(3)
「『悪いことをするな。日本人の顔を守れ』と、よく父親から言われましたよ」―。 こう語るのは、1980年代後半から90年代半ばまでピラール・ド・スール市議会議員を2期務めた経験を持つ長浜広海(ひろみ)さん(71、2世)だ。1945年に同地に入植した草分けの故・長浜栄蔵氏(鹿児島県出身)の五男で、当時のことを父親から見聞きしてきた。 長浜家族は、漁師だった栄蔵氏を家長に、妻・フデさん、栄蔵氏の弟、長男・久(ひさし)氏の4人で構成家族をつくり、「りおでじゃねいろ丸」に乗船して1930年7月22日にサントス港に到着した。 当時のサンパウロ市近郊サント・アマーロで41年12月に生まれた広海さんは、同地での思い出はほとんど覚えていない。広海さんが栄蔵さんから伝え聞いた話では、「ブラジルでもうけて、すぐに日本に戻るつもり」だったという。そのため、第二次世界大戦が始まる前に長男の久さんを親戚と一緒に日本の古里(鹿児島県坊津)に戻した。「後からパパイ(父)たちも帰るから」と言っていたが、戦争による国交断絶で長男以外は日本に戻ることができず、結局生き別れとなった。 久さんはその後、坊津で小学校の教師となり、60年代半ばにブラジルにようやく来ることができ、約20年ぶりに母親とも再会することができた。しかし、生活拠点を坊津に置き、その後数回ブラジルを訪れたが、住むことはなかった。 サント・アマーロでもバタタ(ジャガイモ)生産などをしていたが、日本に帰れないことを悟った栄蔵さんは、より良い土地を探しにピラールに視察に来たのが44年。サンパウロよりも平らな土地に魅了され、現在のピラールのセントロからピエダーデ方面に約3㎞離れたドイス・ポルトンの土地27アルケール(約65ヘクタール)を購入して45年に入植。これが同地の日本人の始まりとなった。 栄蔵さんがセントロに程近い場所に土地を購入したのは、子供たちの学校教育を考慮してのことだった。 兄弟たちと家族を支え、農業生産活動を長年にわたって行ってきた広海さんは、「政治家になれば、村のためになる」との思いにより、周りからも推されて1989年のピラール市議選に日系議員として立候補。川畑幸一氏とともに当選し、日中は従来通り農業生産を行い、夜は市議会に通う日々が続いた。結局、広海さんは96年までの2期市議を務め、農村問題や教育問題に力を注いだが、特に教育問題については父親から受けた影響が大きかったという。 農業面では、60年代末から70年代にかけてそれまでのバタタ、トマト生産から果樹栽培に切り替え、現在のピラールではブドウ、柿を中心にアテモヤ、ポンカンなど収穫時期を考慮し、ほぼ一年中、出荷が可能となっている。 「ピラールからも日本に出稼ぎに行く青年たちは多かったが、農業をやることを目標に稼いで帰って来た。彼らの父親の世代が日本教育を行ってきたことが、実っている。ピラールでも医者や議員、弁護士になる若者もいるが、新しい果物などへの切り替えによってまだまだ農業でやっていけると思っている」と広海さんは、次世代への期待感を示す。 「厳しい父でしたが、今から思えばいつも子供のことや学校教育、ピラールのことを考えてくれていた」 広海さんは、亡き父への思いを今も持ち続けている。
(4)
6月9日に開催されたピラール・ド・スール日伯文化体育協会創立60周年記念式典の副実行委員長を務め、1995年の入植50周年の時に会長も歴任したことのある伊藤正男さん(72、2世)。父親で大工だった勝之助さん(福島県出身、故人)は日本に居た当時、仕事が有り余る程で、経済的には困っていなかったが、地元でブラジル日本移民の成功物語の映画を見せられて、「2~3年働いてすぐ帰るつもり」(正男さん)でブラジル行きを決めたという。 勝之助さんは1934年、兄、妻と長男の4人の構成家族を作って「ありぞな丸」で渡伯し、サンパウロ州パラグアスー・パウリスタのコーヒー農園に入植した。 正男さんは10人兄弟の次男として同地で生まれ、「(家族が)コーヒーや綿作りをしていた記憶が少しはある」とし、1948年に8歳でピラール管内のセルトン分譲地に入植するまで近場で4回引っ越ししたことを覚えている。 「昔は子供でも、6歳か7歳ぐらいで農業の手伝いをやらされ、(セルトン分譲地では)バタタ、トマト、トウモロコシなどを植えていたが、遊び半分でハッカの苗作りをしていたよ」と当時を振り返る。 勝之助さんがセルトン分譲地に転住したのは、「久保」という日本人が同地の宣伝にパラグアスー・パウリスタに来たことがきっかけだという。 「ピラールはサンパウロ市の郊外で桜の花が満開になると聞いていたが、実際に来てみたら桜の花なんてどこにもなく、ワラビやサマンバイアが3メートルくらいの高さまで茂っていた。まあ、それでもセルトン地区は町の近郊よりも場所が良かったので、40アルケールを父親が購入したが、母や兄は『何でこんな土地を買ったのか』と文句を言っていた」 ブラジル学校には縁の無かった正男さんは、セルトン入植後すぐに同地の日本語学校に入学し、生徒7人で2年ぐらい勉強したという。 その後、農業生産の合間に青年会活動にも参加し、そこで知り合ったサンミゲル・アルカンジョ生まれの2世である恵美子さん(70)と69年に結婚。長兄の勝男さん(故人)が南伯農協の組合員になっていたことから、自身も同組合員として生産物を出荷してきた。 農業一筋の生活を送って来た正男さんだが、現在、農業は長男と次男が継ぎ、昨年でやめたブドウに代わり、今では柿、デコポン、ネクタリーナ(油桃)やアメイシャ(スモモ)などを生産し、APPC(パウリスタ柿生産者組合)の会員にもなっている。 「ピラールは、息子たちが農業を継いでくれる人が多く、協力してくれるのがありがたい」と正男さん。2015年の入植70周年にはピラールがどういう方向に進むかを聞いたところ「さあ、どうなっているかね」と笑いながらも、後継者の多い同地の将来に期待感を示していた。
(5)
第61代文協会長として創立60周年記念式典を指揮した南満さん(75、福岡県出身)は、東京農大拓殖学科を卒業後、農業実習生としてブラジルに渡って来た。 実家が造園業を行っていたという南家では、長男が家業を引き継いでいた。1950年代当時の福岡は炭鉱のストが多く、三男の南さんは高校時代から「海外に出たい」との希望を持っていた。 高校卒業後、「地方組織が強かった」という農大に入学し、神奈川県横浜市から東京の農大まで歩いて通う日々を続けた南さん。農大在学中に応援団長を務め、「(東京都の)新宿や渋谷でもどこでも(名物の)『大根踊り』を踊りましたよ」と笑う。当時の農大では、3年間で単位を全部取り、4年は農業実習が義務付けられていた。60年、22歳の時にオランダ船「テゲルベルグ号」に約20人の同級生とともに乗船し、海を渡った。 南さんが実習先として入ったのは、サンパウロ(聖)市近郊ピッコ・デ・ジャラグア山麓の起伏の激しい土地に住んでいた同じ福岡県人の国武(くにたけ)というエメボイ実習生出身の日本人の農地だった。 「厳しい人で褒められたことはなかったですが、理解があって本当に良くしてもらいました」と南さん。国武氏は既に他界しているものの、国武夫人とは現在も付き合いが続いているという。 実習中は月1回のレポートを東京農大に提出し、年間の集大成である論文も担当教師に提出して卒業が認められたが、南さんは「当時はカマラーダ(日雇い労働者)のような生活で、とても日本に戻れるような状態じゃなかった」とし、卒業式にも出席せずにそのまま国武氏の下で10年間働いた。 「ほかの実習生からは『お前は10年もパトロンの下で働いて馬鹿だ』と言われましたが、国武さんからは仕事は任せてもらっていましたね」と南さんは、実直だった下積み時代を振り返る。 27歳の時に夏子夫人と結婚してからも国武氏の下で農業生産を行っていた南さんだったが、当時、ピラール管内の東山植民地の土地を売り込むに来る日本人がいた。独立を考えていた南さんは同地を視察し、その土地を買いたいと思っていた。 しかし、国武氏からは「インフレがひどいから、土地を買うのはもう少し我慢しろ」と言われて従った。その後、「上の子供が3歳になったころに『今、移らないと』と思っていたら、パトロンが東山植民地の土地を買ってくれた」という。長年、下積みで耐えてきたことに対するパトロンからの祝いのプレゼントだった。 こうして69年に独立し、東山植民地に入植した南さんはトマトを中心に、バタタ、ナスビなどを生産してきた。「ジャラグアから比べると土地が平坦で本当にほれ込みましたよ」と同地への愛着を示す南さん。特にトマト生産には定評があり、当時ピラール管内の「サンパウロ中央会」農協の会員になっていたが、高品質でよく売れたという。 しかし、その後にサンパウロ中央会がつぶれ、約10年間トマト作りをしていた南さんは南伯農協へと移り、遅まきながら果樹栽培に移行。当初は洋ナシ作りに励んだ。 現在は、長男の勇一さん(45、2世)が果樹栽培を継いでおり、柿、アテモヤ、アメイシャや桃などを生産している。特に桃は、7種類を栽培しており、「9月終りから1月半ばにかけて、(収穫を)切らさずにやっていけるようにしています」と工夫している。また、生産物はCEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター)に出荷しなくても、サンパウロ州内をはじめ、パラナ州やミナス・ジェライス州からも直接買い付けに来るほどとなっている。 ピラールで農業生産を引き継いでいる2世には、聖州ポンペイアにあった西村農工の卒業生やブラジルの農業大学を卒業して技師の資格を持つ人材も少なくない。南さんは、試行錯誤しながらも「果物の里」としての地位を築き上げている、若い世代の今後の活動に期待している。(おわり)
|