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ブラジル金閣寺を見守って (2026/09/10)
日本移民への供養思い仏門に 大畑天昇さん
サンパウロ州イタペセリカ・ダ・セーラ市にあるブラジル金閣寺文化協会。その敷地内にある円光寺の主任を務め、曹洞禅宗の僧侶である大畑天昇(てんしょう)さん(静岡)は、95歳になった(2013年)現在でも週末に同寺で読経を行うなど、活動的だ。イタリア系財閥マタラーゾ家の土地を管理した後、文協会長や初代県連会長等を歴任した故・中尾熊喜氏経営の肥料会社で約30年間働いた経験を持ちながら、営業で地方を回った時に日本移民たちの供養をしたいとの思いが募り、仏門に入った。
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大畑さんは、静岡県の殖民学校に入っていた兄がブラジルに行くことを決めていたため、一緒に渡伯することを決心。「大きなファゼンデイロ(大牧場主)になりたい」との夢を持ち、サンパウロ州ソカバナ線のパラグアスー・パウリスタに住んでいた知り合いの呼び寄せにより、1936年に「まにら丸」で兄、兄嫁と大畑さんの3人で渡伯したのが16歳の時だった。しかし、日本に残った両親からは大反対され、結局は生き別れになってしまった。 同地で綿の栽培を行い、その後綿の生産地だったアバレーで日本人家族に雇われた。2年目に独立して綿作りを自分でも行うようになり、大畑さんはマラリアの被害で日本人が誰も入らなかったタクアリツーバに転住した。そのきっかけは良い土地を探して同地に行った際、そこの市長と出会い、入植を勧められたことだった。 市長から融資を受け、大畑さんは土地を増やし、綿作りに励んだ。21歳の時に同地で結婚もした。しかし、「調子に乗って綿を増やした」(大畑さん)ある年、綿を植え付けたが雨が降らず、借金を抱えて途方に暮れた。 当時、一緒に渡伯した兄はコチア産業組合職員としてジャカレイ倉庫の主任を任されていたが、大畑さんは家族を抱えてどうにもならずに落ち込み、兄の家で1カ月間、寝込んだという。その後、借金を返済するために土地の整理をしようとタクアリツーバに戻り、何とか借金は返せたものの先立つものがない。 そうしたところ、兄の紹介でアチバイアにあったマタラーゾ財閥の農場の管理人になることになった。「運が良かった」と当時を振り返る大畑さんは45年から8年間、同農場で過ごした。 フランシスコ・マタラーゾの孫に当たる経営者から信頼された大畑さんは、肉牛の牧畜だけでなく交配種の育成も行った。そのほか、自身は全くの下戸であるにもかかわらず、多い時で1日に6000リットルも生産するピンガ作りも手がけた。 しかし、当初は大畑さんが任されていた事務経営を、ブラジル人にも任せたことで金銭的なトラブルが発生。意見が合わずに結局は農場を出ることになった。 サンパウロ市に出てきた大畑さんは知り合いの誘いにより、後に文協会長や初代県連会長等を歴任し、当時ブタンタン区で「ジャグアレー肥料工業株式会社」を経営していた中尾熊喜氏の下で働くことになった。 「中尾さんはまじめな人で、私がそのころ午前7時に出社すると、その前にはもう会社に来ていましたね。仕事では地方の代理店を回って歩くことが多かったのですが、中尾さんは『家は大丈夫か。必要な金を取りに来るように奥さんに言いなさい』などと何かと気遣っていただきました」と中尾氏の人柄を思い出す。 結局、同社で定年まで約30年間働いた大畑さんだが、地方を回っていた40代のころに得意先で世話になっている人が亡くなる光景を目の当たりにしてきた。奥地では寺などないところも多く、そうした時にいつも「自分でお経をあげることができたら」との思いを持ち続けてきた。 戦後、日本に居た弟をブラジルに呼び寄せた際、両親の遺骨も持参していた。59年ごろ、当時からリベルダーデ区サンジョアキン街にあった仏心寺の納骨堂に収めたことをきっかけに同寺と懇意になり、日本から派遣されていた曹洞宗総監の新宮良範(しんぐう・りょうはん)氏から「僧侶になるための講習会に来てみたら」と勧められた。 大畑さんは、石川県金沢市の大乗寺で3カ月間修行し、現在、国際布教師の免許を所持している。その後、修行などのために20回以上にわたって日本とブラジルを行き来し、今も約2年ごとに訪日している。
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檀家たちの集まる場所を確保 2001年に念願の「円光寺」建立
イタペセリカ・ダ・セーラ市にある「金閣寺」は1974年に建造され、敷地面積は4万2000平方メートルある。日本の金閣寺にできる限り近い形で建立されたため、さすがに外壁に金箔(きんぱく)は張っていないが本物の金閣寺とほぼ同じ大きさに造られているという。また、寺の周辺には川をせき止めて造った人工湖があり、錦鯉が泳いでいるのが見える。さらに、自然に囲まれた静けさの中で、水鳥が水面を泳いでいるなど都会の喧騒を忘れさせてくれる場所だ。 金閣寺建立の経緯について大畑さんに話を聞いたところによると当時、日本で約15年間暮らしていた1人のアメリカ人が訪ねて来て、「日本と同じような金閣寺を造りたい」と言ってきたという。そのアメリカ人は特に仏教徒でもなかったが、金閣寺を建てるための土地を同市から購入。資金の工面などについては不明だが、アメリカ人が納骨堂の販売員として15人、多い時で30人を雇い入れ、完成する前から納骨堂の予約販売を行っていたようだ。また、そのころ日本人の宮大工がブラジルに居たことから建設が進められ、約8年かけて完成させたそうだ。 完成した当初は話題を呼び、「ブラジルの金閣寺」として人気を集めた。しかしその後、今から5年程前にアメリカ人は故国に帰り、その後ブラジル人が金閣寺の経営権を買い取った。 現在、金閣寺内部(地下から2階部分まで)には日本人・日系人だけで約5000体の遺骨が収められているという。永代供養を含めた納骨堂の管理料は、安価なもので2000~3000レアル、高価なもので8000レアルが見積もられていた。 しかし、金閣寺の納骨堂は今後は「メモリアル・パーク」としてブラジル人経営者が進める方針で、大畑さんには何の連絡も無い状態が続いており、「今後のことは何も分からない」という。 大畑さんは2001年、金閣寺の敷地内にかねてからの念願だった「円光寺(えんこうじ)」を建立した。90年代初頭から約10年かけて完成させたが、当時、大畑さんの別の師匠である僧侶が日本の曹洞宗からブラジルを視察訪問。円光寺建立資金の足しにと、500万円の寄付を出してくれた。 また、大畑さんが働いていた肥料会社時代の退職金もあり、金閣寺の檀家たちから寄付を募るなどし、円光寺の建立を実現させることができた。円光寺を建てた理由について大畑さんは、金閣寺の内部は納骨堂があるだけで、檀家たちが各種法要のために集まるには場所が狭すぎることを挙げた。 同寺内両側は約50~60㎝の高さの座禅台になっており、その上で座禅が組めるように細長の畳が敷かれている。座禅に慣れない非日系人や初心者にも簡単にできるようにと円形の黒い座布団が置かれていた。檀家には非日系人も多く、熱心に座禅を組む人も少ないないという。 大畑さんは現在、サンパウロ市内モルンビー区に住み、週末だけ円光寺に「お勤め」に来ている。毎月第2日曜には金閣寺での法要があるほか、年間を通じて「母の日」「父の日」や11月の「お盆」には欠かさず法要を実施している。 07年に夫人が亡くなり、その後2年ほどは1人で寺の運営を行っていたが、現在は檀家の日系女性が「付き添い」の形で身の回りの世話を行っている。大畑さんの子供たちは誰も寺を継ぐ者はおらず、大畑さんが後継者として期待をかけているのは、ルイスさん(43)という非日系の僧侶だ。日本語も話し、「自分の後を継いでもらうことになりそう」と大畑さんは目を細める。寺内の事務所内には、大畑さんとルイスさんが袈裟(けさ)姿で一緒に写っている写真が飾られてあった。 今後の抱負として大畑さんは、金閣寺と円光寺と三角形を結ぶ地点に「六角堂」を建立する計画も立てており、今年中に着工する考えだ。完成は3~4年後をめどにしており、「完成するまでは、まだ死ねない」と笑う。 敷地内には、大畑さんの家族の遺骨が収められている高さ5~6メートルほどの「三重の塔」が墓碑として建立されている。「ブラジルでは他人とけんかしないようにすることを心掛けてきました」と語る大畑さん。「いずれは私もあそこに入ります」と「三重の塔」を指差しながら、柔和な表情を見せた。(おわり)
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