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マツモトコージ苑
     2013年  (最終更新日 : 2026/09/29)
ドミニカを行く、第40回ふるさと巡り2

ドミニカを行く、第40回ふるさと巡り2 (2026/09/29) (6)

 2日目(2013年10月18日)の夜は今回初めての公式行事となる、現地の日本人及び日系人との夕食懇談会が開かれた。
 サント・ドミンゴ市内の中華レストランが会場となり、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹(たけがま・とおる)会長(75、鹿児島)、日本ドミニカ友の会の西尾孝志会長(71、広島)、日本に一時帰国中の佐藤宗一在ドミニカ日本国大使館特命全権大使の代理として植松聡領事夫妻、JICAドミニカ支所長代理の鈴木央(ひさし)事務所員をはじめ、サント・ドミンゴ市に在住する日本人及び日系人約20人が出席。ふるさと巡り一行76人と合わせて約100人が一堂に会した。
 在サンパウロ総領事館首席領事や在クリチバ総領事などを歴任し、約20年間ブラジルで勤務して親しまれた佐藤大使は当初、ブラジルからの一行がドミニカを訪問するに際し、大使公邸での懇親会を予定していたという。しかし、日本に一時帰国することになり、この日の懇親会には出席できなかったが、「うまく時間が都合できれば、(後日の)慰霊碑参拝には佐藤大使が出席できるかもしれない」との話だった。
 同地日系団体及び大使館代表者などのあいさつの後、本橋幹久団長がふるさと巡りと日本祭りなど県連の活動を説明。本橋団長から嶽釜会長に県連日本祭りのDVDや報告書などが記念品として贈呈された。
 「日本とドミニカには移住協定がなく、我々は国(日本政府)から捨てられた棄民だった」―。あいさつの中で、とうとうと熱弁を振るったのは会員数約135家族を指揮するドミニカ日系人協会会長で、1956年7月にドミニカ移民第1陣としてダハボンに18歳で入植した嶽釜氏だった。
 「ドミニカに残った我々移住者は、日本の国策の失敗が誰の責任だったのかどうしても納得できなかった」と同会長は2000年に日本政府を相手取って起こした裁判について説明。当時の小泉純一郎首相の和解案に「日に日に寄せる移住者の高齢化の波に苦渋の選択の末に和解案を受けた」としながらも、「まだ移住問題が解決したわけではない」と語気を強めた。
 提訴する前の1998年ごろに嶽釜会長は日本の外務省を訪問し、日本人移住地で石が多くて耕作どころではなかったネイバの石と、土地から噴き出すドベルヘの塩を持参して「入植して40年以上たってもこういう状況だ」と訴えたという。「『祖国は自国民をだまして苦しめ、殺すんですか』と聞いた。簡単に言えば詐欺だったんですよ」と嶽釜会長たちの怒りは今も収まっていない。
 97年には嶽釜会長をはじめ、ドミニカ側で「移住問題解決促進委員会」が8人で発足し、裁判への足掛かりとなった。委員会のメンバーで残っているのは現在5人のみ。嶽釜会長は「我々1世が死んだら(日本政府と交渉する)後継者はいなくなる。その前に土地問題を解決しないとと焦っている」と現状を吐露する。
 そうした中、国策問題の一環として日本政府に交渉して造らせたのが、今年(2013年)1月に建立された「ドミニカ共和国国策ドミニカ日本人農業移住記念碑」だという。「本当は昨年(2012年)の7月29日の(同地の)『移民の日』までに建立したかったのですが、今年(2013年)1月17日に落成式を行いました。今年8月25日には、記念碑横に移民の家族の名前を刻んだ記念プレートも造ってもらいました」と嶽釜会長。しかし、裁判を起こした移民たちが本当に求めているのはあくまでも、「耕作できる自分たちの土地だ」と強調する。

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 サント・ドミンゴ市内中華レストランでの夕食懇談会でスペイン語で司会役を務めた上之(うえの)賢三さん(56)は ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長の実弟に当たり、ドミニカ初の2世になるという。
 記者たちの質問に日本語で答えてくれた上之さんは、15歳の時に日本で自動車整備士としての研修を受け、「日本で日本語を覚えた」と話す。その一方で「父親は苦労してこの地で亡くなった。大使館やJICAは信用できなかった」とも。
 ドミニカ移民の苦労を切々と聞かされた感じの懇親会だったが、ここでも50年ぶりの再会があった。サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市から息子と参加した八巻タツさん(87、福島)と笠原ハルエさん(78、福島)は、第1次、第2次の違いはあれど同じダハボン入植者。「まさか、会えると思っていなかったので、夢みたい」と笠原さんは感激していた。
 ダハボンに約10年住んだ後、ドミニカ国内を転々とし、72年に子供を置いて1人で日本に出稼ぎに行った経験があるという笠原さん。実家の福島や東京などで民宿の仲居(なかい)として働いた。「日本に住みたいと思ったこともありましたが、子供のためにドミニカに戻りました」と語り、サント・ドミンゴ市に娘と住んで22年になるという。
 懇親会の最後は県連事務局の伊東信比古氏のハーモニカの伴奏で参加者全員が恒例の「ふるさと」を合唱。本橋幹久団長は「別れは再会の始まりです。また会いましょう」とあいさつし、お開きとなった。
 午後9時45分にホテルの到着すると、コロンビアのボゴタ市に置き去りになっていた約10人分の荷物がようやく届いたとの連絡があった。
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 3日目(2013年10月19日)、一行はサント・ドミンゴ市から北西に約140㎞離れた日本人移住地ハラバコアへ。同地は標高524メートル。ドミニカ国内の避暑地として有名だという。
 この日も快晴で午前7時半にホテルを2台の大型バスで出発した一行だったが、1号車の乗客が1人、バスに乗り遅れるというハプニングが発生。現地ガイドの内藤さんが急きょホテルに戻ってその人をピックアップし、地元の車をヒッチハイクするなどして昼食時間にはハラバコアに到着するという「離れ業」で事無きを得たことを後で聞かされた。
 ビルが建ち並ぶ市内を外れ有料の高速道路に乗ると、バスの車窓からの景色は緑が多くなった。熱帯地域らしく椰子の木が多いが、柑橘類が植えられているところもある。また、ところどころで日本のような水田風景も広がるが、椰子の木と水田とのコントラストが面白い。
 午前9時、中間地点のボナオ市でトイレ休憩。 簡易レストランや土産物屋もあり、地元の買物を楽しむ人も。
 休憩後、バスは国道から山道へと入り、急勾配を上っていく。
 午前10時半、ハラバコア市に到着。同地の日本人移民たちが最初に入ったという場所は現在、日本庭園になっており、赤い鳥居が立っていた。

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 ハラバコアの日本庭園で一行を出迎えてくれたのは、日高武昭さん(70、鹿児島)。2000年に日本政府を相手取って裁判を起こした原告側の一人で、ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長とともに1997年に立ち上げた「移住問題解決促進委員会」のメンバーでもある。
 日高さんの説明によると、現在の庭園は1958年1月24日に日本移民13家族が入った場所で、当時は移民たちの家があったという。
 「ハラバコアに当初、日本移民が入植したのは13家族だったのですが、他の7移住地は耕作不能で『ハラバコアは良い所』と聞き付けた移民たちが殺到し、多い時で87家族が入植したのですが土地が無くて大変でした」と当時のことを説明する。
 庭園は2008年、ハラバコアのドミニカ日本人移住50周年を記念して建立。朱色に塗られた約4メートルの小さな太鼓橋が架かる人口池の中に13家族の家長の名前が刻まれた石碑が建っていた。
 一行はバスですぐ近くの「ハラバコア友好会館」に移動。会館前で同地の日本人たちが歓迎してくれ、一人一人と握手を交わす。
 「懐かしいですね。面影ありますよ。何歳で入植したんですか」などと日高さんから質問されていたのは、サンパウロ市ジャルジン・パウリスタ区在住でハラバコアに6歳から11歳まで居たという野副(のぞえ)美夜子さん(63、北海道、旧姓・富樫)。日高夫人のミヨコさん(67)、幼なじみでミヨコさんの妹の浜田京子さん(64)たちと51年ぶりの再会を喜んでいた。
 「あの辺りに私の家があったのですが、今はもうあのころの家はないですね」と会館から山手方面を感慨深げに見渡していた野副さんは、同地を離れてブラジルに再移住し、サンパウロ州ブラガンサ・パウリスタやバルゼン・グランデなどを転々としたとし、「日本人子弟の寄宿舎の賄いなどをしましたが、ブラジルに行った当初は人間扱いされなかったですね」と振り返った。
 会館内では日高さんが改めてあいさつし、「これだけたくさんのお客さんは珍しいです。私も70歳になりましたが、皆さんお元気ですね。ブラジルは広大な土地で思う存分農業ができたので、皆さんは長生きなんですね」と話したが、それはドミニカで十分な耕地が取得できなかった日本政府への反感の思いも込められていたように聞こえた。
 ふるさと巡りの本橋幹久団長は「ドミニカ移民の皆さんもさまざまな問題があり苦労されてきたでしょうが、今では立派に定住されておられます。同じ移民として、中米と南米の距離の違いはありますが、今後の交流をお願いします」と述べ、県連日本祭りのDVDなどを寄贈した。

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 ドミニカ鹿児島県人会会長でもある日高武昭さん(70、鹿児島)がハラバコア日本人会の星川和之会長(66、山形)をはじめ、同地在住の日本人家族を1人ずつ紹介してくれた。
 同地在住の日本人は単位家族で5家族21人。「少ない人数なので、皆親戚です」と日高さん。まだ新しい「ハラバコア友好会館」は2007年に建てられたという。
 移住地の説明をする日高さんの声が次第に熱を帯びだした。
 日高さんの家族は1958年1月24日に他の12家族とともにハラバコアに入植したが、武昭さんは当時中学3年で進学を控え、「10年たったら日本に戻ってくる」との父親の言葉を信じ、自ら日本に残ることにした。
 しかし、両親がいないために学費が払えず、進学を断念。大阪の鉄工所で働きながら通信教育を受けたが、1年間で退職した。その間、ハラバコアにいる母親に1度も手紙を書かなかったことから心配され、迷った挙句に姉の許嫁と一緒にドミニカへの最終移民船「あめりか丸」に乗り、59年9月、家族たちより約1年半遅れて16歳でハラバコアに移住した。
 しかし、日本の募集の際に約束された100タレア(約6ヘクタール)の土地は実際には半分しかなく、湿地や石が転がる粗悪なものだった。それでも他の日本人移住地に比べてまだ気候が良いほうで、「こんなところで泣いていても仕方がない」と借地して野菜などを生産したが、約10年間は野菜の販売力も無かったという。
 また、日本政府の募集要項には「自由開拓」と書いてあったそうだが、独裁政治の国とは知らされず、ドミニカ政府の管理人の許可が無いと移住地から出られなかった。サント・ドミンゴ市の日本大使館に行く際も途中で検問があり、許可証が無いと捕まってサトウキビ畑で強制労働させられるような状態だった。
 61年には当時独裁者と言われたラファエル・トルヒーヨ大統領が暗殺され、以前に同大統領から強制的に没収されたという地主らが各日本人移住地の「土地を返せ」という騒動も発生。そうしたことがドミニカ移民たちが日本に帰国したり、ブラジルなどの南米諸国に再移住する結果にもつながった。
 日高さんは移住後、日本への出稼ぎで30年ぶりに日本に一時帰国し、現在、日本庭園近くで自動車などの中古品輸入業を行っている。
 日本政府を相手取り、2000年から6年にわたって行われた裁判については「自分たちは金が目当てではないです。最初の募集要項に沿った土地をもらいだけ。日本政府がどう対応してくれるのか今でもそれを待っている」と語る日高さん。「自分としてはドミニカに来る気はありませんでしたが、親に従うつもりで来ました。当時はまさか、祖国が我々移民をだますとは思ってもいませんでした」と話しながら時折、悔しさで感極まり、言葉が出てこなかった。
 日高さんの力説を聞き終えた一行は、会館前で記念撮影を行い、昼食を取るためにハラバコア市内にあるリゾート・ホテルへと向かった。

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 会館を出てリゾート・ホテルへと向かう途中、日本移民たちが眠る墓地を訪問する予定だったが、墓地前の道路は車通りが激しく一行が下車して道を渡ると危ないということで、車窓から墓地の入り口を拝むだけにとどまった。
 一行が到着したのは、「ホテル・グラン・イメノア」と呼ばれる自然溢れるハラバコアでも有数のリゾート地で、ホテル内に川が流れている。その川を長さ約30メートルのつり橋を渡って橋向こうに行くと、一行の昼食席が準備されていた。
 かんかん照りの暑さの中で、雄大な川の流れと景観が涼しさを与えてくれる。
 昼食には、ハラバコア移住地の日本人たちと友情関係のある同市のピエダーデ・ケサラ・デ・ドミンゴス女性市長も出席し、一行を歓迎。広島市からゴミ収集車4台の寄贈を受けるなど日本との交流に感謝していると述べ、「神様は世界中にいますが、夜はハラバコアで過ごします。皆さん、次回もハラバコアにぜひ戻ってきてください」とあいさつし、一行をねぎらった。
 日高夫人のミヨコさん(67、鹿児島)によると、入植当初は日本語学校も無かったが、入植1周年の時に道路で運動会が行われ、大人と一緒に二人三脚で走ったことを覚えていた。「気候は良いのでトマト、キャベツ、ナスビなどの野菜を作って売りましたが、買ってくれる人は少なかったですね」と振り返る。
 乾杯の音頭を取った日高武昭さんは、サンパウロ州アチバイア市で心霊治療を行う弘田智康氏と同年齢の親友だとし、今年(2013年)9月には弘田氏がブラジルから花柳流舞踊関係者を連れてハラバコアを訪問。JICAの青年ボランティアの女性たちもサント・ドミンゴ市から加わり、盛大な盆踊り大会を開催したという。
 日高さんたちが移住地での苦労と日本政府にだまされたことなどを説明する一方で、ドミニカ在住の日本人の3分の1が裁判問題に反対し、残りの3分の1は良くも悪くも思っていない「レロレロ派」であることも聞かされ、狭いドミニカの移民社会の中でも複雑な関係があることを知った。
 昼食を取った一行は元来たつり橋を渡った広場に集まり、歓迎してくれたハラバコア移住地の人々とともに、恒例の「ふるさと」を合唱。一人一人と握手を交わして、サント・ドミンゴ市に向けて出発した。
 その日の夜は、ドミニカ料理の「サンコーチョ」を食べに市内のレストランへ。サンコーチョは、ドミニカでは日曜などに家族で食べる家庭料理で、マンジョカ芋、ニンジンなどの野菜と鶏肉や牛肉を混ぜて煮込んだスープ。見た目はブラジルの「カルド・デ・モコト」に似ている。
 そのサンコーチョを飯にかけてブラジルの「フェイジョアーダ」のようにして食べるのだが、一行が座ったテーブルによってはサンコーチョだけが先に出されて飯が遅れ、スープを飲み干した後で飯が出されるなどし、「たったこれだけの料理なのか」と苦情の声も一部から聞かれた。
 レストランでは、ドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」の衣装を着て給仕をする若い男女が中央の踊り場でダンスショーも披露。特に、1本のラム酒のビンの上でつま先立ちとなり、クルクルと踊る光景は圧巻だった。
 一行はそれぞれの思いを胸にホテルに戻った。(つづく)


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