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ドミニカを行く、第40回ふるさと巡り3 (2026/10/16)
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4日目の10月20日午前7時半、北西に約140㎞、1283メートルの標高地にあるコンスタンサ移住地に向かうべくホテルを出発。日曜日とあって道は空いている。 途中、前日と同じ場所でトイレ休憩すると、地元のドミニカ人が各地に遊びに行くためか、にぎわっていた。 サント・ドミンゴ市から約2時間走ったラ・ベガ市からは山道へと入り、前日よりもさらに急勾配の坂道をバスはエンジン音をうならせて上っていく。午前10時ごろ、峠付近に来た時に記者を乗せた1号車がオーバーヒートし、車体後部から白い煙を吹いて止まった。 コンスタンサでは移住地の人々が待っている。取材のため仕方なく、記者たち数人が2号車に便乗させてもらい、先に現地へと向かった。 山道を下っていくと、視界が開けた。山間に囲まれた平野部に野菜畑と思われる緑が広がる。日本の信州のような懐かしい風景だ。午前11時過ぎにコンスタンサ日系クラブ会館に到着。快晴の青い空の下に映える会館の白さが目にまぶしい。 会館前では、脇輝亀(わき・てるき)会長(58、鹿児島)を先頭に単位家族7家族約30人の会員が出迎えてくれた。脇会長によると、同移住地ではトルコ桔梗(ききょう)、ベニバナなどの花卉(かき)栽培や野菜作りが盛んで、日系子弟は農業に従事している人が多いという。同地への日本人の入植は1956年10月の第1陣に始まり、59年6月までの第4陣まで計35家族220人が入植した。 「順子です。村田順子です」―。サンパウロ市リベルダーデ区の日本食レストラン「千代(せんだい)」のママである大村順子さん(63、鹿児島、旧姓村田)が有山ムツ子さん(86、鹿児島)に呼び掛けた。有山さんは「うれしい。本当、涙が出る」と村田さんとの51年ぶりの再会を喜んだ。 有山さんの実弟である神前亨(とおる)さん(76、鹿児島)は、男性ではもはや長老格になるという。56年12月30日、第2陣で同地へ。「19歳で入植したころの(コンスタンサの)人口は3000人ぐらいでしたが、今は8万人が住んでいますよ」と、その発展ぶりを話してくれた。 午前11時40分ごろ、オーバーヒートした1号車も無事到着。会館内に入ると天井が高く、天井からぶら下がった扇風機の風が心地良い。正面の舞台上には富士山と桜の絵が描いてあるのが、いかにも日本人の会館という雰囲気を醸し出している。 舞台下では、「日本ドミニカ友の会」の西尾孝志会長の親戚に当たるという西尾蓉子さん(72、福島)が先亡者たちの遺影を前にして慰霊法要を行い、読経の合間に脇会長、本橋幹久団長らが代表して焼香した。 小学校時代に日本で暮らした経験のあるコンスタンサ日系クラブの佐藤康樹(こうき)副会長(49、2世)が、流暢(りゅうちょう)な日本語で移住地の説明を行う。それによると、同地は前述のように標高が高く気候が良いことから農業に適しており、入植当初は水不足などに悩まされたもののニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、にんにくなどの野菜類を栽培し、現在は北米や欧州にピーマン、キュウリ、トマトなども輸入しているという。 佐藤副会長自身は現在、サント・ドミンゴ市内などでガソリンスタンドを4軒共同経営しており、両親がコンスタンサで農業を行っているそうだ。コンスタンサで生まれた佐藤副会長は8歳から13歳まで日本で過ごし、高校はドミニカ、大学時代は米国に滞在した後、コンスタンサでリンゴ栽培を手掛けたが「気候が温暖過ぎた」ために途中で断念。無農薬栽培も行ったが、「ドミニカはメンタリティー(知性)が遅れている」とし、13年前に農業に見切りを付けた。その間、日本で研修した時に、サンパウロ市近郊のモジ・ダス・クルーゼス市出身の日系女性と結婚。現在、ドミニカで一緒に暮らしている。
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本橋幹久団長が、脇輝亀会長、佐藤康樹副会長に県連のDVDなどを手渡した後、脇会長の音頭で乾杯が行われ、一行は同地婦人たちが前日から準備したという手作り料理を含めた昼食を呼ばれる。 その間、会館の壁に張られていたドミニカに渡る前に神戸市で撮影した当時の写真を熱心に見つめていたのは、1956年当時4歳で入植し、9歳までコンスタンサ移住地で暮らした経験を持つサンパウロ市在住の山上桃代さん(60、鹿児島)。「小さいころは大きなユーカリの木が並んでいたのを覚えているのですが、今は少し風景が変わったみたい」と51年ぶりに訪問したコンスタンサの印象を話した。 取材が一段落して、昼食を取りに一行の列に並ぶと、玉子焼き、赤飯やおにぎりなどの手作り料理が机いっぱいに並べられた部屋では婦人たちがユーカリの小枝を手にハエを追い払ってくれていたのには頭が下がった。この時期は季節の移り変わり目で、今年は特にハエが多いという。 昼食を食べ終え、地元の人たちが用意してくれたドミニカ産のビール「プレジデンテ」を飲みながら一息付いていると、コンスタンサ市役所で環境教育を行っているというJICA派遣青年海外協力隊の横竹歩(よこたけ・あゆみ)さん(27、広島)を紹介された。 元々は広島市の高校で英語の非常勤講師をしていたという横竹さんは、同市役所に派遣されてまだ約3カ月。同市のコミュニティーや小学校などを対象に新聞紙のリサイクルや生ごみからコンポスト(堆肥)を作る指導などを行っているという。 午後2時20分、一行は恒例の「ふるさと」を合唱後、会館前で全員で記念撮影を行った。その後、会館から約200~300メートルのところに入植当時の家屋が残っているとして、一行は会館前の土道を全員でてくてく歩いていった。 既にドミニカ人が住んでいる入植当時の家屋は壁も屋根もスレートの波板で覆われており、奥行きが長くどことなくトレーラー・ハウスのように見える。 「私、まさにこの家に住んでいたんですよ」と懐かしそうに話すのは前出の大村順子さん(63、鹿児島)だ。土道を右折し奥まった場所にある家屋は同じくスレートの波板に白いペンキが塗られ、現在は誰も住んでいないのか、扉は閉め切られてあった。 「7年間、ここに住みましたが、当時から電気は入っていましたね」 51年ぶりに同地を訪問した大村さんだが、8年前に84歳で亡くなった父親の村田哲(とおる)さんたち両親はブラジルに再移住してからも「ここが第2の古里」として過去に2回訪問していたという。 一行はコンスタンサ移住地の人々に別れを告げ、午後3時に移住地を出発。再び急斜面を上り下りし、サント・ドミンゴ市市内へと向かった。
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コンスタンサ移住地からサント・ドミンゴ市内に戻った一行は、またもや中華レストランで夕食を取ることに。料理はバイキング方式で、アルコール類以外のソフトドリンクとともに自由にお代わりできるのがうれしい。 一緒のテーブルになった浜口洋さん(69、三重)は、ふるさと巡り旅行に既に十数回以上参加しているというベテラン。工業移住者としてブラジルの通信関係会社などで働いてきた同氏は、「今までブラジル社会にずっと居たので、コロニア(日系社会)のことを知りたいと思った」と、そのきっかけを話す。 また、コチア青年1次15回の神林義明さん(77、長野)は趣味で短歌を行っており、コンスタンサ移住地で同じく歌を作っている有山ムツ子さん(86、鹿児島)に出会えたことが一番の収穫だったという。 「有山さんには、一人で寂しいならいくつでもいいから(ブラジル短歌同人誌の)『椰子樹』に送ってほしいと言いました」と国は違っても同じ文芸仲間であることを喜んでいた。 ◎ ◎ 5日目、4日間泊まったサント・ドミンゴ市内の「バルセロ・サント・ドミンゴ」ホテルをチェックアウトして、午前8時に出発。同市内にある日本人開拓者が眠る慰霊碑を参拝することに。 午前9時、「クリスト・レデントール」という大型バスごと乗り入れることができるほどの大きな墓地に到着。慰霊碑参拝は、ドミニカ日系人協会が主催し、嶽釜徹会長らが一行を迎えてくれたほか、2日目のサント・ドミンゴ市での夕食懇談会に出席できなかった佐藤宗一日本国大使が朝からの炎天下で汗がしたたり落ちる暑さの中、黒い背広を着て出席した。 2010年10月に着任して既に3年がたつという佐藤大使は一行に気さくに声を掛け、聞けば前日の夜に日本から戻ってきたばかりだという。 真っ白な慰霊碑には、「慰霊碑」と書かれた塔の左横に日本海外移住家族会連合会会長で文部大臣だった田中龍夫氏(故人)の名前も記されている。また、その中には、人が10人ほど入れる礼拝堂があり、1956年からの物故者の名碑が霊前に置かれていた。 嶽釜会長と本橋幹久団長が霊前に合掌し、続いて参加者が焼香した。 嶽釜会長は慰霊祭のあいさつで、同慰霊碑が80年代後半に建立されたことを説明。慰霊碑には現在、167人に移住者と6人のJICA関係者を合わせた計173人の御霊(みたま)が眠っているという。 慰霊祭は当初、7月29日の第1回移民入植記念日に合わせて法要が行われる予定だったが、ブラジルと同じ11月2日の「死者の日(お盆)」に合わせて慰霊祭を実施しているとし、その際はドミニカ全国の日本人及び日系人たちが一堂に会する。今回、ふるさと巡り一行が訪問したため、特別にこの日に慰霊祭のスケジュールを入れてもらったそうだ。 嶽釜会長は「今日は暑い中、皆様にご焼香いただき、亡くなった方々も草葉の陰で喜ばれていると思います」と感謝した。 佐藤大使は「遠いところを来ていただき、ありがとうございます。これをきっかけにドミニカで日本人・日系人が頑張っておられることを知っていただき、ブラジルとドミニカで交流が促進されることを期待しております」とあいさつした。 慰霊碑参拝を終えた一行は、カリブ海沿岸のリゾートホテルを目指し、バスに乗った。
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ドミニカでの公式行事を終えた一行は、リラックス気分でサント・ドミンゴ市から東に約50㎞の地点にあるカリブ海沿岸のリゾート地ボッカ・チッカにある「HAMACA」ホテルに到着。 同ホテル内では、客であることを示す黄色いバンドを手首に巻いてもらうと、ソフトドリンクだけでなくアルコール類も飲み放題のシステムとなっていたのがうれしかった。 早速、ホテル内のレストランで昼食を取った後、ホテルに面するカリブの海岸を見て回る。透き通った海の色がリゾート気分を盛り立てる。暑い日差しの中でホテルのプールに入りながら、ビールを飲むことができる幸せをかみ締めた。 今回の旅の感想などを参加者に聞いてみる。 ミナス・ジェライス州でのコーヒー生産販売で有名な下坂匡(ただし)さん(76、福島)は、ドミニカに移住する予定だったという。 下坂さんの父親は戦中、軍隊で中国に4年間滞在し、日本に帰国後は福島県の開拓団に入った。その後、相馬市内の農村品評会の養豚の部で農林水産大臣賞を受賞したことが改めて海外に目を向けるきっかけになった。 「その時に父親は、『自分一代でこれほどまでになったんだから、どうせなら日本人の居ない所で農業をやりたい』と、1955年にドミニカ移民の第1次募集に応募したのです。しかし、そのころは募集者が多く福島県庁からは『ドミニカに行くには数年後になります。ブラジルだったらすぐに行けますよ』と言われて55年12月30日に『あめりか丸』で神戸港を出港しました」と当時18歳だった下坂さんは、家族ら8人でブラジルに渡った経緯を教えてくれた。 「本当は(アグアネグラ移住地で1人で農業を続けている)田畑(初)さんに会いたかったんですよ」と語る下坂さんは、今回のドミニカ旅行について「日本人の移住地によって条件の良い所と悪い所が甚だしく、ドミニカ移住の条件が厳しいことを知りました。また、現在のドミニカの日系社会が裁判問題などで二つに分かれていることも聞かされましたが、ブラジルの(戦後の)『勝ち負け抗争』のように感じますね」と話す。 また、ミナス・ジェライス州サンゴタルド市から夫婦で参加したコチア青年2次10回生の田中義文さん(73、島根)は、「ドミニカの移住のシステムがブラジルとは違い、荒地に入植して残った皆さんが努力されていることには感心しました。しかし、小さな日系社会でバラバラになっているのは、もったいない気がします」と率直な感想を語る。 この日の夜、ホテルで夕食を取っていると、ハラバコア移住地に住む日高武昭さんの長女である日高恵美子さん(41、2世)が本橋幹久団長を訪ねて来た。恵美子さんは現在、サント・ドミンゴ市内にあるドミニカ中央銀行に勤めており、本橋さんの子息の健さん(39)とは95年から2年間、JICA研修で日本に行った時の同期だという。 恵美子さんにドミニカの日系社会が分裂していることについて聞いたところ、「親たちは一生懸命にやってきたし、それぞれの時代を生きてきた人たちの思いを私たちがどうのこうのとは言えない。しかし、自分たちの時代には一つにまとまりたい」との答えが返ってきた。 翌日、一行はドミニカでのそれぞれの思いを胸に、ブラジルへと戻った。(おわり)
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