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     エッセイや翻訳記事  (最終更新日 : 2005/06/26)
アテネ五輪金メダル候補、ダイアーネ選手 [画像を表示]

アテネ五輪金メダル候補、ダイアーネ選手 (2004/04/12) 国際大会を総なめ、ブラジル体操界だけでなく世界の体操界で最も注目されているダイアーネ・ドス・サントス(21)選手


【4月6日グローボ局ニュース】ダイアーネ・ドス・サントスは不可能を可能にした。
ダイアーネ.jpg

 しかし、それは一朝一夕に成し遂げられたわけではない。
 母親のマグダさんは、「3才のときから逆立ちや側転、ブリッジをしてたのよ。みんな、あの子は『なんて身体が柔らかいの』と言っていたわ」と語る。
 マグダさんは、ポルト・アレグレ市の保健局で働いており、父親のモアシールさんは少年保護基金の監視員である。ブラジルの一般的な家庭であり、ダニー(ダイアーネの愛称)は、4人兄弟の2番目。
 ダイナーネの体操への道のりは、広場で遊んでいたところから始まった。
「私は、広場で友達と遊んでいたの。その子は体操をやっていたわ。その子のコーチが、ジャングルジムで遊ぶ私を見て、体操を勧めたの」
 そうダイアーネは振り返っている。
 彼女は、11才の時から身長は145センチ。21才になっている現在でも身長はほとんど変わっていないし、見かけは子供のようである。
「みんな私を、12~13才ぐらいだと思うわ。『まあ、なんて可愛いの! なんて小さいの!』、わたしの頬を触りながらそんなふうに言うわ」

 才能に恵まれていたダイアーネは、ポルト・アレグレ市の実家を出て、ブラジル体操代表選手のトレーニングセンターのあるクリチーバ市に住む。そこで、メダリストとして知られるウクライナ人コーチのオレグ・ステペンコ氏の指導を受けた。
 こうして、アメリカでの世界大会(2003年8月)で、金メダルを獲得するに至るのだが、それは平坦な道のりではなかった。アメリカ大会の前年、サント・ドミンゴで開催された汎アメリカ大会の20日前、彼女は右膝を手術しなければならなかった。
 まだトップ選手ではなかったその時、彼女は「体操は個人競技ではない」ということに気づいたという。
「一緒にトレーニングしている仲間は、ライバルであると同時に友人でもあったの。膝を手術して一番苦しかった時、彼女たちは一緒にいて励ましてくれた。それは兄弟以上だったわ。仲間がいなかったら、ここまで来ることは出来なかった」
 ダイナーネは、いまでも少女の時からの夢を実現しようとしている。その夢とは、「飛ぶこと」。
「何千分の1秒だけ、私は飛ぶことが出来るわ。でも、ほんのちょっとだけね」
 そうダイアーネは笑う。
   ◎  ◎
 ダイアーネ選手は、アメリカ・アナハイムで開催された世界大会(2003年8月)とドイツ・シュツットゥガルトでの大会(2003年11月)、ドイツ・コトブスでの国際大会(2004年3月)の3大会で、金メダルを獲得。2004年3月14日のフランス大会では、床運動で金、跳馬で銀メダルを獲得。4月4日の地元ブラジルで行われた世界大会でも床運動で優勝している。


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