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ブラジル日系社会に残る教育勅語奉読 [全画像を表示]

ブラジル日系社会に残る教育勅語奉読 (2005/01/02) ――東方遥拝。
 奉安殿の御真影に最敬礼、教育勅語を奉読。
 日本の学校教育ではもはや忘れ去られている行事が、ブラジルの日系社会では、いまだ残っている。
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2005年元旦の拝賀式

 サンパウロ中心部から西へ約四十キロ、イタペセリカ・ダ・セーハ市の日本語学校では、新年に奉安殿を開いて拝賀式を行っている。同校は今年で、創立70年目を迎えるが、新年の拝賀式を一度も欠かしたことはないという。
 2005年元旦、同校講堂で行われた拝賀式には、関係者ら約50人が出席、日伯の国歌斉唱で始められ、東方遥拝、先没者への黙祷、続いて教育勅語奉読が行われた。
 勅語奉読は、舞台正面に納められている奉安殿を背にして同校役員の谷川さんが行った。御真影に最敬礼、桐の箱から恭しく勅語を取り出して高々と読み上げた。


 戦前、ブラジルに来た日本人は、錦衣帰郷を夢見て出稼ぎのつもりで移民したため、子弟には尋常小学校教科書を与え日本式の教育を施した。しかし、太平洋戦争が勃発したことで、連合軍側についたブラジルは日本人を弾圧、外国語教育を禁止した。
 こうした中、ほとんどの日本語学校は閉鎖されたが、イタペセリカ日本語学校(旧名・日伯小学校)では、組織的な日本語教育が隠れて続けられていた。
 谷川さんは、「井戸に似せた洞穴を掘り、そこに日本語の教科書や書物を隠していて、そこで授業も受けましたよ。それから炭小屋の中でも隠れて勉強していましたね」と、当時を振りかえっていた。
 イタペセリカは、昭和初期の日本式教育が中断されなかったことで、日本の敗戦を信じない人、いわゆる「勝組み」が圧倒的に多い村となった。戦争終結から15年経った1960年代になってから、やっと敗戦を認めたという男性もいた。こうしたことから、同学校では東方遥拝や教育勅語奉読が綿々と続く結果になった。
創立1周年.jpg
日伯小学校創立1周年の記念写真

 戦後日本語教育が再開されてから50年代に同校に通っていた60代のある女性は、
「毎朝学校に着くと、当時グランドにあった奉安殿に最敬礼してから遊んだものです。そして、なにかイタズラをしたら、罰として奉安殿に閉じ込められたのです。中は真っ暗で、とても怖かったのを憶えています」
「ある日、友達が閉じ込められていたとき、怖くて奉安殿の中でオシッコをもらしたのです。その日以来、折檻場所は、奉安殿から倉庫になりましたけどね」
 そう苦笑していた。
 70年代中頃には、グランドの拡張工事のため奉安殿を講堂に移転したが、それでもまだまだ、新年拝賀式には講堂に入り切れないほどの日本人が参加していたという。
 しかし、90年代になって、ブラジル経済の慢性的悪化と出稼ぎブームで、日系人の半数近くが日本へ働きに行ってしまった。参加者は年を追うごとに減少、今年の拝賀式には用意した椅子の半分も埋まっていなかった。重ねたままになった椅子が三百脚以上あり、その数が全盛期を偲ばせていた。
 拝賀式の準備を手伝っていた三世・四世の青年たちは、講堂の二階席にまで椅子を並べたが、結局そこには誰も座らなかった。それでも青年たちは黙々と椅子を片付けていた。


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