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日系社会の天皇観①
(1997年4月)

日系社会の天皇観①(1997年4月) (1997/04/22) 藤井卓治さん

 日本移民の節目である、移民五〇年祭から八〇年祭にかけて皇族のご来伯が続いた。五八年には三笠宮さま、六七年、七八年には皇太子殿下。そして、今回移民九〇年目を迎えようとして、ようやく日系人の念願であった両陛下の、お姿に接することができる。在伯同胞としての意識を持っていた戦前の一世や、日本式教育を受けた二世などは、時の流れとともにどのように意識が移り変わって来ているのか?また、そういった人たちは、『天皇』について、子弟に何をどう伝え、どのように受け止めているのか?世代を代表するコロニアの有識者に『天皇観』について尋ね、意識の変遷や、こんど来伯される天皇の印象についての意見を聞いてみた。(紺谷充彦記者)

 藤井卓治さん(八六)、明治四十四年生まれ、昭和五年に「りお・で・じゃねいろ丸」で渡伯、新聞記者などを経て日本ブラジル文化協会設立時(五五年)から八〇年まで文協の事務局長を務め、協栄生命役員、県人会連合会会長など歴任。コロニアの生き字引とも言われている。
 現在の藤井さんは、病院通いで、食欲もないと話しているが、まだまだ昔とった杵柄(きねずか)は衰えてはいない。毎日、ブラジル新聞、邦字新聞、テレビニュースなどに目を通して、ブラジルや日本の情報を分析、研究をしており、共同通信社の通信員として日本のマスコミに情報を提供している。漢詩や詩吟を趣味としており、達筆な漢詩が幾つも家の中に飾られている。庭には黒竹や松、梅が植えられてあり明媚な庭が造られている。
 藤井さんが、天皇にお会いできたのは四回。二度ご来伯あった皇太子時代と、六六年と七七年に外務省研修生の団長として訪日したとき。特に二度目の七八年、ブラジルに来られたとき藤井さんは県連会長として先没者慰霊碑前で挨拶しており、また日系団体の代表者として謁見している。「陛下は質問はなさるが、こちらの質問にはお答えにならない。侍従がいて『殿下は質問には回答できません』との返事だけ。皇室には、どこか解らない幕があって外部には開かれていないような感じがした」と語る。通常、皇室関係の方には質問をしてはいけないことになっており、新聞記者にも会見の前には注意を受ける。この謁見の規定時間は二十分間だけだったのに、藤井さんは、コロニアについて移民について必死に語り、五十分間続いた。「時間を越えたからといって牢屋に連れられることはないだろう。とにかく少しでもコロニアについて理解してもらおうと、侍従が遮るのも無視して喋り続けた」と当時を振り返る。「訪日したときにもお言葉を掛けられたし、四度もお会いしているので、どこか親しみまで感じる」と現在の心境をかたる。
 藤井さんは渡伯前、攻玉社中学校に在学していた時に、昭和天皇に謁見し神々しさを感じている。同中学校の卒業生は殆どが海軍に進むという学校。昭和三年、軍事教練の観閲式で、藤井さんは初めて陛下を拝んだ。一都八県から集まった学生が、八列横隊で並んでいたため、お顔を眺めることが出来たのは前の列だけ。幸運にも藤井さんは見ることができた。「本当にありがたかった。神様のような天皇陛下に、生涯会うことが出来ないと思っていたのに」。当時の教育を受けた藤井さんにとって天皇陛下は神様であったのだろう。
 天皇陛下の詠まれた歌を、藤井さんが毛筆で書いて部屋に掛けられてあった。「この水の流れる先はアマゾン河口てをひたしみるにほのひややけし」。六七年に陛下が訪問なさった時、ブラジリアでアマゾン源流まで足を運ばれ、川水に手を入れられた当時の思い出を詠んだもので、翌年の歌始の儀(お題=川)で発表された。藤井さんは、陛下に対し尊敬と親しみを感じているからこそ書き写し飾ったと話す。他にも六八年の歌始で詠まれた皇后陛下の「赤色土(テラ・ロッシャ)つづける果ての愛(かな)しもよアマゾンは流れ同胞(はらから)の棲む」という歌も書き写したとのこと。
 短歌誌『椰子樹』代表の清谷益次さんは「両陛下の歌は、率直に詠まれた歌で共感できる。その当時の感じが伝わってくるよう。藤井さんが親しみを感じるのは理解できる」と話している。また、陛下のブラジルに関する歌には、七十年祭式典を題材にした「外国に血を分けし人と寄り集ひ共に顧みる七十年の流れ」と七八年末にお詠みになっている。陛下の歌を前にして「両陛下がブラジルに関する歌を詠んでおられるのは、日系社会に熱い想いを持っておられる証拠で、嬉しい限りだ」と、藤井さんは目を細めていた。
 藤井さんには、こんなエピソードがある。文協事務局長の頃、当時の山本喜誉司会長に、日本から取り寄せた『中央公論』『改造』などの一流の雑誌を無理矢理に読ませ、「戦後移民の連中と論議し理論武装するには、彼らの思考を知らなければならない」と啓蒙活動をした。今の時代で言えば、さしずめ昭和一桁の人が「コンピューターを使えなければ、付いていけない」と懸命に勉強するようなものか。戦前の価値観から、新しい時代の思想に切り替えようとし、それを実践している。天皇観に関しても同様だった。神様から象徴へ、新しい感覚を吸収していこうとする藤井さんにとって、天皇を象徴とする必要があった。
 戦前の教育を受けた人が、五十年以上の歳月を経て、現在の「天皇観」はどう変わってるのか? ますます天皇に対する尊敬の念が深まっているのか、それとも時代の流れとともに「象徴」となっているのか。記者はその二つの回答で分けようとしていたが、白か黒というように簡単に分けれるものではないと気付いた。藤井さんの場合、個人の経験や思想の中で、天皇は複雑に絡み合い、意識の奥底に沈殿しているのではないか。
 今回、ご来伯の歓迎のために用意されているのはイビラプエーラ体育館、収容人数は一万五千人前後。六七年にはパカインブー競技場で七万人以上が集まった。競技場に入れなかった人は路上で土下座して出迎えたという。「戦前教育を受けた一世は、どんどん亡くなって、人は集まらない」のでは。藤井さん自身も、陛下に対する尊敬の念は今も昔も変わっていないが、病気のため歓迎式典にでられなくて残念だと話している。(つづく・紺谷充彦記者)
 


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