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紺谷君の伯剌西爾ぶらぶら
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日系社会の天皇観③

日系社会の天皇観③ (1997/04/25) 元臣道聯盟員「サントスの戦後はまだ続いている」

 サントスといえば、戦後、日本の軍艦が迎えに来るという噂が流れ、地方の人が土地を引き払ってサントスで軍艦を待っていた。いわいる『勝組』の人たちが集まったはず。記者がサントスを訪れた理由はそんなところにもあった。
 「サントスの戦後はまだ続いている」。同日本人会館が、まだ返還されていないことについて、サントス日本人会の上新会長(七五)は、そう語る。上さんは福岡県出身、三三年に渡伯し平野植民地に配耕された。その後バストスに入植、そこで臣道聯盟青年会の副会長を務め、修身や日本語を教えていたという。その当時から、「自分自身は、陛下に対する尊敬の念は変わっていない」と上さんは言う。しかし、天皇観の変遷については「生活そのものも変化しているし、子供の親に対する考え方自体が変わってきている。当時なら厚生ホームに両親を入れるなど考えられなかった。孝の精神は『天皇観』にも繋がってくるはず」。
 もう一人、サントスで、臣道聯盟の幹部を親に持つという高橋さん(八六・仮名)を紹介された。「子供の時から叩き込まれた、天皇陛下に対する精神は変わるものではない」そう断言する。戦後の混乱期について尋ねたとき、「特攻隊の連中が家に集まってきて迷惑した。自分は巻き込まれただけ」そんな返事をしている。四六年、警察は徹底的に取り締まりを強化し、約二百人の臣道聯盟員は数回に分けてアンシエッタ島に送られた。高橋さんも父親と一緒に、島送りの車に乗せられたという。しかし知人の人がワイロを払っていたおかげで、高橋さんは助かった。「その時、どこに連れていかれるかも分からなかったし、ワイロのことも知らなかったので、突然に山の中で車を止めて、自分だけが降ろされた」と言う。警察幹部に払われたワイロは三コント、娘三コントといわれた時代である。その後、父親から「アンシエッタ島では食べ物が酷い」という手紙が来たので、とりあえずメリケン粉を積めて「仲間とともに差し入れに行った」と当時の思い出を語っている。
 高橋さんは、若者の天皇、祖国、国旗に対する意識が低下していることを嘆いている。「高校野球のビデオを見ていた時、国旗が掲揚されるにもかかわらず、応援の学生たちは帽子も取らずにいた。これが日本の学生かと思うと、悲しくなった。ブラジル人の労働者ですら国家が流れると胸に手を当てるのに」。
 また、印象に残っていることとして、サントスに日本の練習艦隊が入港したとき、日本の船員だけが岸壁を清掃した。さらに出港のときに、誰かが艦隊に「日本のことは頼んだぞ!」と叫んだのが心に残っているという。
 陛下が過去にご来伯なさったときは、仕事が忙しく式典に行けなかった。今回も脚が悪いため参加できなく残念だと高橋さんは話している。(紺谷充彦記者・つづく)


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