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日本語教育機関の模索2

日本語教育機関の模索2 (2001/07/17) コペラチーバ学校と同市文協日本語学校
―バルゼン・グランデ・パウリスタ市―

 バルゼン・グランデ・パウリスタ市は、一九八三年の郡制度改正により、サンロッケ郡とコチア郡の境界地域から独立した地域。元コチア組合のお膝元でもあり、一九三五年に、コチア産業組合の地方倉庫第一号(当初は出張所)が設立された場所としても知られている。同市では、三三年から日本人会が結成され、三四年には日本語学校も開校している。戦争中は日本語学校も一時中断されていたが、戦後、寄宿舎も建てられ、生徒が百五十人以上も学んでいた時期もあった。現在、同市文化協会に加入している日系人は約百五十家族。
 同文協日本語学校には、約四十人(五歳から十五歳)の生徒が学んでおり、日本語教師が二人で助手が三人、週五日制で、午前一クラス、午後三クラス。
 四年前、この日本語学校の建て直しを図るために、「コペラチーバ校への転換」が提案された。同コペラチーバ校は元文協会長夫人の海老名エレーナさんを含む、州教師として二十年以上もの経験がある日系の先生三人が中心となって発案、同市文協に提案した。しかし、同役員一同の承認を得ることができず、結局、三人が中心となって発足させたのだ。
 このうちの古川ローザ先生は、「子供たちの将来を考えると、誰かが始めなければならない」と州の学校を担任していたときから、痛感していたという。基本方針を「きめ細かな教育」「社会道徳の重視」「低コスト」に置き、行き届いた教育を実施するためにも一クラス十五人ぐらいの生徒を理想としている。
 教師を集めるのも、「昔の仲間だった先生の中で、良い人を選んで連れてきた」という。開校当初は、「寄付を募る紙を配り歩いて、机や椅子などの設備を集めるだけでも苦労した」と振り返っているが、翌年「特に、宣伝はしなかったのに、父兄の口コミだけで、生徒が急増した」と言う。十九人で始めた学校であるが、今年度は二百人近い生徒数となり、収容生徒数を超え「バーガ(空席)がなく、断っている」という盛況ぶり。
 また、現在の所、運営が成功している理由の一つとして「経営と教育を分離させてはいけない」と指摘している。サンパウロ州には約六十のコペラチーバ方式学校が設立されているが、同校だけが、経営も教師が担当している特殊なケース。「安い授業料で、質の高い教育、健全な経営を行えば、自然と生徒は集まってくる」と説明していた。
 日本語のコースについては、同市文協日本語学校と競合する可能性もあるため、「現在のところ開設しない」としていた。
 しかし、同日本語学校のベテラン教師によれば、「競合というのではなく、むしろ同コペラチーバ校に日本語クラスを開設してもらいたい」との意見。「日本語学習者の裾野を広げることで、基本をコペラチーバ校が受け持ち、レベルの高い生徒を同日本語学校が担当すれば、生徒も増加していくのでは。共存共栄ができるはず」と語っていた。
 結果論からすれば、同日本語学校をコペラチーバ校に転換した方が、経営的には安定したのかもしれない。しかし、「わしら日本人が、苦労して築き上げてきた学校を…」という感情的な部分が同文協内で反対論として挙がったのだろう。転換しなかったことが、良かったか悪かったかは別として、そういった感情的な部分こそが、これまで文協や日本語学校を支えてきた原動力でもあったことは確かだろう。(つづく・紺谷充彦記者)


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