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日本語教育機関の模索3

日本語教育機関の模索3 (2001/07/19) なんとか日本語学校を維持
―サンミゲール・アルカンジョ―

 サンミゲール・アルカンジョ日本語学校のグランドが紅く染まるころ―。
 「今年、幼稚園に入学した五歳の男の子は、授業が終わると、いつも教室を飛び出していき、校庭にあるパルキンニョ(遊び場)で、友達と遊んでいる。決まって、非日系のお父さんが迎えに来て、『バモ、ミノル』『テンケ・コメー、ゴハン』『バモ、サヨナラ』と言いながら連れて帰る」……。
   ◎   ◎
 今回は、厳しい状況にありながらも、なんとか日本語学校を維持しているサンミゲール・アルカンジョ日本語学校を取り上げてみたい。地方の日本語学校の状況は、地理的な条件や歴史的な背景と共に、当地の文化協会との関係、日本語教師の資質、授業方法などにより、変わってくるであろう。
 まず、サンミゲール・アルカンジョ市は、サンパウロから南西約二百キロに位置し、ブドウ作りの町として知られている。人口約四万人。同市内の「福井村」とも呼ばれるコロニア・ピニュールとは異なり、組織的な日本人の移住が実施されたわけではない。日系人数は約三百家族、同市文協の会員は百六十家族。
 現在、同校の生徒数は四十五人、先生三人。日本語のレベル別に十段階ぐらいにクラス分けし、週五日制で授業が行われている。ここ数年、同地域(聖南西地区)でも、出稼ぎで次々と日系人が現地を離れており、生徒数は減少の一途を辿っているが、同校の生徒数は、なんとか横ばい状態を保っている。
 同日本語学校は、一九五七年に、日系子弟のブラジル学校通学の便を計るため寄宿舎が開設され、同時に日本語の教育を行ったのが始まり。当時、寄宿生六人、通学生八人であった。七〇年代初頭には、バタタなどの好景気によって、生徒数も増加、新校舎や寄宿舎の増改築、運動場の拡張なども行われ、七五年には百二十人の生徒が同校で学んでいた。
 しかし、八〇年代後半になると、ブラジル経済の悪化が目立ち始め、同市からも日本へ出稼ぎに行く人が増加、家庭の少子化もあり、生徒数が減少していったのだ。ここ数年間は五十人弱の生徒数を維持している。
 同校の日本語教師によれば、「数年前から、国語教育では状況に合わなくなり、外国語としての日本語教育を模索している。家庭内言語が日本語の生徒は、すでにいない状態。四十五人中、四人が非日系人で、十数人がメスチッソ(混血)、十数年後には、純日系人の数が少数派になるのは確実」とのこと。また、学校の特色として、工作や音楽などの情操教育や任意参加の体育授業も取り入れている。さらに、非日系人にも分け隔てなく門戸を開いていることが特徴。
 「子供の場合は学習動機が弱いため、『この学校に来れば、なにか楽しいことがある』と生徒が感じることができるような学校を目指している」と地元の教師は語る。
 同校の経営母体でもある同文協は、コチア青年や学生移住連盟の入植者が中心となっていたが、世代交代も進み、九十年代初めには、日本語学校の方針は完全に教師に任せるといった姿勢ができていた。同文協が設立されたのは一九六二年、この当時から二世会長が選出されている(同地区では、定款で会長を二世に定めていた)。また、父母会でも、八〇年代半ばから、会議はポ語となっている。父母会は、毎年、「フェスタ・ジュニーナ」「焼そば」などを企画して同校の運営費などを捻出。文協が維持費、父母会が運営費、授業料で先生の給料が支払われており、同校の経営は、なんとかやりくりできる状態。
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 ―「以前、ミノル君のお父さんは、授業が終わる時間に合わせて迎えに来ていたため、ミノルは悲しそうに手を引かれて帰っていった。しかし、『授業だけではなく、子供同士で遊ぶことも重要』との先生の話で、お父さんは、三十分遅く来るようになった。それ以来、ミノルは、楽しそうに友達とジャングルジムに登っている」。(紺谷充彦記者・つづく)


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