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日本語教育機関の模索4

日本語教育機関の模索4 (2001/07/23) 土井晩翠が校歌を作詞
―赤間学院―

 「荒城の月」で知られる土井晩翠が、赤間学院の校歌を作詞している。同校創立者の赤間みちへさん(九七)は、仙台市出身、同郷の土井晩翠に作詞を頼んだのだ。
 現在、同校入り口付近には同歌詞を刻んだ石碑が建てられている。「東海遠きおほやまと、国の尊き魂を、ここ南米の空の下、移し植えたるサンポーロ、聖なる美なるサンポーロ…」(※サンパウロをサンポーロとしている)。
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 日本語教育の方向性を考察するにあたって、サンパウロ市内で成功している日本語学校がどのような経緯を辿ったのか。ブラジルの公的な教育課程を備えた日系学校として、最も歴史の古い赤間学院ピオネイロ校を取り上げてみる。
 同校は、一九三三年に、洋裁学校及び日本語学校として、生徒数五人から設立。その後、初の日系子女教育機関としてコロニアで注目を浴び、五八年に財団法人赤間学院を創立。「嫁を貰うなら赤間学院の卒業生を」と言われるまでになり、サンパウロ総領事館の現地女性職員はすべて赤間学院の卒業生だったという時期もあった。
 家庭科、師範科、専攻科などを設置しながら女学校として発展し、六〇年代半ばには二百人の生徒を数えた。しかし、その後は移住者が減少したり、各地方都市に教育機関が設立され、同学院まで来る必要がなくなったりして生徒数が減る一方になったことから、七一年にブラジル政府公認の私立学校「セントロ・エドゥカシオナル・ピオネイロ校」として再スタートした。
 同校が、七一年にピオネイロ校としてブラジル学校法人を設立した当初、生徒数は、たったの八人、教師より生徒が多い状態も起こった。それが、現在、幼稚園、小・中学校、今年度から高校まで始め、全校生徒八百人以上(九三%日系子弟)、有名高校のバンデイランテ校やエタパ校から勧誘が殺到する、一流私立校に成長している。
 同ピオネイロ校開設当初のことを、赤間アントニオ第一副理事長は「学校経営はようやく採算ベースに乗るまで、十年ほどかかった。当時、借金の申し込みに南米銀行に出向いて、何度も頭を下げた」と振り返っている。
 では、どういった理由で、八人から八百人へと日系子弟が集まってきたのか―。
 教育の特徴について、同校校長を務める赤間エウザさんは、生徒たちに教室の掃除をさせること、四年生以上は、週二~三回、全日制としたことなど「父兄も説得して、日本の学校教育で、良いと思ったことを、どんどんと導入していった」と説明している。「子供を、教師の立場としてだけではなく、親の立場としても扱い、細かいことまで気を使った」と話していた。
 さらに、エウザさんは、州の数学教師であったこともあり、数学の時間を独創的なものにした。フランス式の授業方式を取り入れたのだ。数学といえば、日本でもブラジルでも、最初に公式を憶えさせ、計算をさせるのだが、同校方式では「考える数学」に重点を置いたという。生徒が自分自身で考え、様々な方法で答えを導き出す。「三・四年生に『好きな科目は』とアンケートを取ったところ、体育の時間よりも数学の方が多かった」とエウザさんが言う。
 同校の生徒は、毎年サンパウロ州数学オリンピックで入賞しており、一昨年度同大会(一万六千人参加)では八年生の部と六年生の部で金メダルを獲得している。
 また、日本語の授業については、財団法人赤間学院が維持している日本語コースを随意科目として選択することができ、他校の生徒でも同コースだけを学ぶことができる。各クラスは週四時間となっており、コースは六つのレベルに分かれている。日本語能力試験が目標。現在、日本語授業を選択している生徒は百四十六人(他校からの生徒五人)いる。
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 「その学校に朝夕に、学ぶやまとの種の子よ、紅染むる頬の色、紅き心の筋に、望み豊かにああ励め」(昭和十二年十二月三十一日、日本仙台、土井晩翠)(つづく・紺谷充彦記者)


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