コロニアおばあちゃんの知恵5 (2002/01/09)
日系人と野菜
「生野菜を食べなくちゃ。一日に二十種類以上の野菜を採らなければいけないのよ」と、食卓で指折り数えるのが山ノ神の日課である。 それにしても、この「生野菜を…」、これまで何度耳にしただろうか? 確か、職業婦人だった母親も、食前のお祈りのように、毎日唱え、その度に父親は「ウサギみたいに食べれるか」と嘆いていた。 とにかく、生野菜、生野菜と騒ぎ立てるが、日本でもコロニアでもサラダを食べる習慣は戦後になってから。もともと、肉食を中心とする欧米人の習慣で、サラダという言葉もラテン語の塩(SAL)から派生したサレール(SALER・塩で味付けする)が語源。 明治維新後、肉食と共にサラダも持ちこまれたが、日本人は煮物や漬物、魚などを多く採ることによって栄養バランスのとれた食事をしていたため一般には普及しなかった。
【雑草を野菜として】 「ブラジルに野菜を持ち込み普及させた」と言われている日系人ですら、移民初期は、「ブラジル人は野菜を生で食べるそうだ」と評判しあう程度だった。ただ、野菜の摂取は必要であった。ブラジル米とフェジョン、干し肉といった単調な食事に耐え切れず、漬け物、煮物、揚げ物、味噌汁の具に野菜が使われ、栄養的にも郷土を偲ぶ精神的な意味でも日系人の慰めになった。 さらに、初期移民は、まだまだ出稼ぎ気分であったため、腰を据えて菜園を作るよりも、雑草などを野菜の代わりに食べていた。 ブラジルの生活の歴史(半田智雄著)によれば、「はやく金をもうけたい。否、もっともうかるようなところへ移りたい、という気持ちがあるので、ゆっくり野菜を作り食生活を豊かにしようというなどという考えはなかった」とも記載されており同時に、「野菜は不足がちで、食生活には栄養のないものばかり。暑い気候と過労のため、わずかな病魔にも打ち勝つ力を持たなかった」と説明している。 日本人は移民船で、行李の底に種子を入れ、様々な野菜を持ってきた。一九二〇年代から三〇年代にかけて、こうした野菜が植えられた。ブラジルに普及したものもあれば、自家菜園だけに止まっているものもある。多かれ少なかれ、自家菜園や野生の草を食べていたのだ。 特に野草は、「食べれる」「これは美味しくない」などと淘汰され、口伝えに広がっていったのかもしれない。 では、「どんな草をたべていたのか?」 「大体、馬が食べている草ならば、人間も食べれる。豚は頭が悪いからよく変な物を食べて食中毒を起こしていたから、豚が食べる雑草はダメ」 老移民が、そんな話をしてくれた。 代表的な代用野菜としては、◎ピコン(コセンダングサ)「ブラジルに来た日本移民は、開拓の初期、野菜に困り、ブラジル人からこの野菜を教わって利用した。若草の時に食用となり、浸し物にしたり、天ぷらにしたりした」。◎カルルー(ヒユ科、ヤマゴボウ科、カタバミ科に付けられた通称名)「ブラジル全土に分布する雑草だが、日系人は、若い茎や葉をゆでて、浸し物、和え物、揚げ物にした」。◎セハーリャ(ノゲシ)「これも、普通の雑草、水に浸して苦味を抜いてから、味噌汁の具、煮物、揚げ物にした」。(ブラジルの野菜・橋本梧郎著から抜粋) 「日本式の野菜ができてからは、こんなものは、ものめずらしさで、ときどき味わう程度になってしまったけど、当時は美味しかった」と老移民は振り返っていた。
【日系人が野菜を普及】 日系人が組織したコチア産業組合に蔬菜部が設立されたのが一九三三年。その頃からトマト栽培を中心に近郊園芸が始まり、キャベツ、ニンジンなども栽培していった。当時はまだ市場も限られた範囲だったが、サンパウロで野菜を主とする中央市場(セアザ)を建設、一九六〇年代には大量に流通させ、広く一般家庭にも普及させた。(終わり・紺谷充彦記者)
|