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【活躍する新日系農協1】 (2002年2月)

【活躍する新日系農協1】 (2002年2月) (2002/02/25) コチア崩壊を乗り越えて
 ―インテグラーダ農協―

 コチア、南伯組合中央会が解散してから八年、当時、日系農家は大打撃を受け、コロニアが誇る農業は大きく後退してしまった。しかし、その間に新しい日系農協の萌芽が出現し、ここにきて徐々にではあるが、各農協が活気を取り戻し、中央会組織結成への動きまでも見せ始めている。こうした背景の中、日系農業者に活力を与えようと「JICA日系農業活性化セミナー」が、十八日から二十三日の日程で開催された。ブラジルだけでなく、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイからも参加、経営的に成功している十五農協が一同に会した。同セミナーに関係した新しい日系農協を取り上げることで、日系農業の明るい兆しをレポートする。(紺谷充彦記者)


 パラナ州ロンドリーナ市に本部を持つインテグラーダ農業協同組合(村手良夫カルロス理事長)は、日系農協では最大規模、ブラジル農協全体で三十番目の売上高を誇っている。
 大豆を中心に、綿花、とうもろこし、コーヒー、果樹、小麦などを取り扱っていると同時に、魚・犬用の飼料工場、とうもろこし処理工場、種子工場、綿花製糸工場も経営している。アサイ、ウライ、マウア、バンデイランテス、マリンガ、ウビラタンなど同州二十四都市に同施設を所有。二〇〇一年度の売上高は、三億一千万レアル、利益が三百万レアル。組合員二千六百人、職員一千人が勤務している。
 まさに、躍進する新しい日系農協である。
 南米最大規模を誇ったコチア産業組合中央会が崩壊したのが、九四年九月。この直後に、同地域では、コチア事業を引き継いだ単協が設立された。しかし、依然、旧体制のままだったため、九五年十二月、上口ミノル氏の呼びかけによって、このインテグラーダ農協が設立されたのだ。同州十四地域から農業者リーダー各二人が集まり、計二十四人が出資者となった。
 設立当時は、二転三転する農協の変化に組合員は戸惑い、農協自体の信用も失っていた。特に、北パラナでは、戦前から組合の盛衰が激しく(一九三〇年代前半に数十の日系組合が結成されたが、戦後ほとんどが経営破綻で消滅している)そのつど多くの農業者が拠り所を失ったため、組合に対する不信感も根強かった。
 同職員の給料も、農協の名称が変わるごとに下がり、コチア時代の半額となっていた。同役員は、自分自身の財産を担保に入れ、資金を借りる状態だったという。
 同農協の村手理事長は、「資金もなく、組合員に提供できるものもない。もちろん信用もない状態だった」と振り返る。日系農業者からは、「コチアに預けた金を返してもらっていないのに、同じような組合に加入できるか」と非難された。
 それでも「組合ではなく我々人間自身を信用してもらえないのか」と組合員に説いて回り、少しずつ信用を取り戻していったという。
 九六年、同農協初の決算報告がなされた。組合員数一千二百八十一人、職員七百二十一人、総売上高が九千七百万レアル、利益五十六万レアルと黒字スタート。その後、組合員数、売上高、利益と順調に数字を伸ばし、九七年には植林事業を開始、九八年からは魚・犬用の飼料工場を操業などと多角化経営。九八年末からは利益の五〇%を出資者への還元金、半分を投資基金として積み立て始めた。
 村手理事長は今後の目標について、「やっと、基礎固めが出来たところ、これからは設備をもっと充実させ、果樹加工工場なども設立する」と意気込む。
 同農協は、設立六年で組合員数を約二倍、売上・利益が約三倍と急成長を遂げている。村手理事長をはじめ、日系役員らは全て二・三世。新しい世代の合理的な農協で、情熱と自信が伝わってきた。
 ただ、ある古参の日系組合員の言葉が耳に残っている。「昔から、南伯系農協はコツコツと地味な経営で、コチア系農協は、どんどん投資、設備を増し派手な経営。これが単協になっても体質は変わっていない。コチアの轍を踏まないように、良いときこそ足元を固めて欲しい。老婆心かもしれないが・・・・」(つづく・紺谷充彦記者)


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