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伯国東京農大会
     ブラジルの農大生  (最終更新日 : 2009/12/21)
ブラジル東京農大移住史抄

ブラジル東京農大移住史抄 (2004/10/26)
伯国東京農大会篇
戦前の移住者

 ブラジルへの農大卒業生の在勤や移住について明治・大正期の資料が無いが、昭和初期になってから卒業生たちが二~三人ずつ連絡を取り始め、互いに校友を結ぶようになっていった。
 昭和3年に着伯、南部パラナ州の水野農場で麦作りの改良に従事した佐藤貫一氏(大正3年卒、後サンパウロ大学水泳コーチ)、昭和4年組の伝田寛一郎氏(ブラジル拓殖会社アリアンサ植民地支配人)、同じく支配人をしていた井久保治氏、貿易業を営んだ大竹丑夫氏、昭和6年に45歳で移住、ブラジル拓殖チエテ植民地で綿作指導に当った加藤耕治氏(明治45年卒)、続いて、務台一郎氏(貿易と養鶏)、久万敏夫氏(昭和6年卒、肥料メーカーエレケイロス化学工業役員)、富田陽三氏、アマゾンで農業気象台長をした後、サンパウロ市に出てきた安東美代次郎氏、坂東喜内氏(苗木生産)という人たちが集まって、母校の消息や情報を交換したりしていた。
 第二次大戦の戦中・戦後の一時期は、他の日系移住者一般と同じく言語に絶するような困難な時代で、その上、農業指導者であるのに活動すべき農地を失ってしまった。このように彼等先輩たちは大変苦労された。厳しい条件の下で妻子を抱えて生活を維持するためには、不慣れな武士の商法なども余儀なくされ、伝田氏をチーフとしてサンパウロ市のジャバクヮラ区で農大OB共同経営のエンポリオ(食料品店)も開かれた。これには務台氏も加わり、苦しいながらも互いに励ましあって苦難に耐えていたと、残されたご家族からお聞きした。伝田氏47歳、井久保氏50歳の若さで早世されたのを見ても、想像を越える苦しい生活であったことが思われる。お二方とも実力のある優秀な方たちで、部下の職員からも慕われ、拓殖会社内で将来を約束されていたことから、今日在りせば、この会社の後身である南米銀行グループのトップとして活躍されているだろうと惜しまれる。

農大村六一農場の成立

 東京農大は1892年(明治25年)、榎本武揚によって創設されて以来、海外雄飛の学風をもったユニークな大学である。1950年の後半、学長に千葉三郎を迎え、海外で活躍する農業者を養成するための農業拓殖学科を増設、初代学科長に満蒙開拓のブレーンであった杉野忠夫を招聘するなど学内はまさに海外拓殖の気運に満ち満ちていた。
 195?年には学長自ら音頭をとって、ブラジル移民の募集が行われた。当初百数十人に上る希望者が殺到したという。しかし、この計画は後に移住者と家族の問題、受け入れ側の事情等のために頓挫し、やがて立ち消えとなり、最終的に船に乗ったのは僅か七人であった。この七人の名は、北原穣、佐々木恂、坂口陞、常光憲文、木村弘三、大塚三平、谷本修であった。言うならば、この七人は戦後農大移民の草分けともいえる先発隊的な役割も同時に備えていた。
 この中で北原穣は、イタケーラの山岸養鶏場で一年間勤め、翌年、同農場の次女と結婚し、独立した。佐々木恂は、モジの長尾養鶏場で就労、二年後にアルジャで独立し養鶏を営む。北原は、経営基盤を築いたこともあり、後輩の農大生の面倒をよく見た。多くの戦後移民がそうだったように、配耕先のパトロンとの折り合いがつかず飛び出した農大卒が数人居候。また、新しい農大卒移住者のサントスでの出迎え、パトロンへの引渡しから結婚の世話までした。週末になると北原の家にはそうした農大生が集まった。佐々木もアルジャから駆けつけた。ピンガを飲みながら誰ともなく仕事の話を始め、それがパトロンへの不満や批判になる。そんな後輩たちの不安と焦りが身にしみて分かった。そして夜遅くなって佐々木が北原に「共同農場、農大生の共同農場を作ろう」と言った。
 最初に参加の意思表示をしたのは広沢茂だった。広沢は農学科卒業で、特に養鶏に明るかった。続いて、田中武美、寺本輝夫、大仁田広志が名乗り出て、後日、一明次男が加わった。提案者の北原、佐々木をいれて計七人となる。
 建設用地は、当時イタケーラのコチア青年独立計画がジャカレイ郊外に進められていた事に目をつけた北原が、その計画に農大生を組み入れてくれるように頼み込む。北原と佐々木が自ら手持ちの2000ドルを出して、最初の資金を作り、土地購入資金として移住事業団へ2400コントの融資を申請。その承認が下りたのは、北原と佐々木が草案を作った夜から五ヵ月後であった。かくして、1961年(昭和36年)6月2日、借金だらけではあったが、農大生の共同農場が誕生する。
 農場は61年の入植を記念し「六一農場」と命名された。総面積40ヘクタールで、なだらかな傾斜を描く二つの山あいに位置していた。五人が入植し、北原と佐々木は各々イタケーラとアルジャで従来どおり養鶏を続けながらその利益を農場に投入した。
 経営は株式組織とし、六一農事株式会社の看板を掲げた。出資については、現金出資の出来ない者は、労力による出資という形を取り、報酬は給料制、利益配当も株によって配当する仕組みになっていた。農場を軌道に乗せたら第二第三の農場を建設し、皆がそれぞれ農場主となり、それを又後続の農大生の基地にすることが皆の夢だった。
(2002年5月 伯国東京農大会 会報36号)


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