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伯国東京農大会
     随 筆  (最終更新日 : 2007/05/21)
杉野先生の思い出

杉野先生の思い出 (2004/10/26)
在グヮタパラ全拓連駐伯理事 近藤安雄
 そのかみの杉野先生は白哲、豊頬の貴公子であった。京都大学の新進の経済学徒で助教授であったと思う。
 京大は、河上肇教授を中心とする社会主義経済学のメッカで、当時の学生は皆、社会科学研究会に入って資本論や唯物弁証法を勉強したものであった。私共東大には、大内兵衛教授を中心とするグループがあり、佐多忠隆(後の社会党の国際部長)、美濃部亮吉(後の東京都知事)氏らもまだ学生であった。向坂逸郎、大森義太郎氏ら助教授・助手の雰囲気は明朗そのもので、真理を探究する学問をすることは如何に楽しいものかということを教えられたものであった。
 社会科学研究会は、東大は村山藤四郎、京大は山名義鶴が輝けるリーダーであった。村山氏は後に満拓の理事、終戦後は茨城の開拓者で開拓者連盟の委員長もした。西の山名氏は後に、満州移住協会の総務部長となった。杉野忠夫氏も当時の学生にとっては輝ける存在であった。
 私が杉野先生にお会いしたのは、昭和11年、満州移住協会に入った年で、杉野先生は参与、私は参事であった。
 杉野先生がどうして京大を辞め、野に下って満州移住協会に入り、義勇軍運動に挺身されるようになったのか、その理由は直接に聞いたことはなかったが、当時、軍の思想統制が激しく、日本の経済は不況のどん底で、農村の窮乏は娘を娼婦に売る迄の極貧状態であった為、社会改造を志す若い情熱は農村更生協会や満州移住に身を挺するようになっていたからではなかったろうか。
 杉野先生は名文家で「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」がその代表的な文書である。満州開拓史に「この建白書の草案は、杉野忠夫氏の執筆にかかり言々句々憂国の文学ならぬはなく、当時の社会情勢をよく把握したものとして記録に止めるべきである。」と特記されている。建白書の一端を摘記すると、「およそ皇国の真の国難は外敵の如何にあらずして国民思想の健否の存す。政府の国民精神総動員を提唱するゆえんまたこれに外ならざるべし。然るに今日の国内情勢は、青少年の精神を鍛錬陶冶し、その士気をいよいよ旺盛ならしむべき環境に乏しく、銃後においても動もすれば第二義的活動に心身を消耗せむとする実情にあり、青少年、義勇軍はかかる危機を転じて、真に国民精神を作興する一大国民運動ならずんばあらず。」として義勇軍即行の必要とその経費、饒河伊拉哈の先遣隊の成績、応募の見込みを説いて、緻密に計画を述べ間然する所がなかった。
 この建白書は、石黒忠篤、大花公望、橋本伝左衛門、那須皓、加藤完治、香坂昌康の六氏によって昭和12年10月3日近衛首相以下各閣僚、並びに全内閣参議に提出されたが、杉野先生の隠れたる功績は大きく、同月30日には早くも閣議決定を見、12月22日には募集要項が決定、12、13年度の追加予算が計上され、13年度中に3万人送出の計画で2月締切の第一期には9950人の応募があった。
 私も12年8月伊拉哈少年隊を引率して渡満、一ヶ月の義勇軍の草分けに携った後、13年10月には満拓内に設けられた訓練部に出向で渡満した。
 杉野先生はその後、学生義勇軍を創設されて、京大の学生を中心に義勇軍の幹部養成と将来の指導陣容の確立に努力され、学生義勇軍には鏘々たる気骨のある大学生が多数参加してハルピンで幹部訓練所を組織した。
 在満中、杉野先生にはあまりお会いすることはなかった。お互いに忙しく、杉野先生は内地の増産隊の仕事や学生義勇軍の広汎な運動に忙殺されていたのであろうと思われる。
 以来八年、終戦時の義勇軍は86530人に及んだ。
 終戦の一年前位に杉野先生からの手紙で内地の増産隊の仕事に帰ってはどうかと言ってこられたが、訓練本部長の井上正吉中将は阿南陸相の同期生で空席にして三重の聯隊区司令官に帰っていたし、私が一緒に渡満した加藤先生の右腕の野々山彦鎰氏訓練も内地に呼び戻されていたが、父兄から預かってきた義勇軍の生徒を辺境に置き去りにして帰国することは出来ないので、これは断った。
 終戦後、一年の抑留を経て21年末に帰国した時、杉野先生は石川県七尾の農民道場長であったが、私に道場長を引き受けないかとの勧めがあった。この時の杉野先生は痩せて真っ黒になって居られた。そして全国の農民道場は皆赤字で山口だけが美田を沢山持っていて黒字であったので、杉野先生は水田の開拓に努力をして黒字にしたと言って居られたが、私はとても杉野先生の後は勤まらないと辞退した。
 私達が国際農友会を組織し、それまで禁じられていた移民の門戸を開くため、アメリカの民主主義を日本の農村に導入するためという理由で、派米実習生制度を始め、その第二回目の引率を杉野先生に委嘱、昭和28年に渡米してもらった。全国から優秀な農村青年が選ばれたので、アメリカで大変な評価を得、「草の芽大使」とまで称賛された。(第一回団長は吉崎千秋氏)
 第二回生の中には、私共神奈川県の農友会で選んだ、小田原市栢山の今尊徳と言われる程に優秀な小沢豊氏があったが、杉野先生も惚れ込んで、帰国後、愛娘を嫁がせられた。
 東京農大の拓殖学部長としての杉野先生のことは、皆様がよく知っておられることなので私から言うまでもないが、私との関係では「子供の一人は拓殖学科に入れて海外に出してはどうか」と勧められ、三男雄三が横浜工大に合格していたが、工場経営科というので将来労組との折衝で神経を消耗するよりはと、千葉県茂原の分校に入れ、拓殖の五回生として64年卒業後渡伯、グヮタパラ移住地に入植して、現在コチア傘下の養鶏の養鶏組合長として目下の飼料高・卵価安に苦しめられている。
 私は、杉野先生の一生を通じての念願は自分のことより将来の社会の幸福を求めることにあったと思う。そのために粉骨砕身され続けた。社会主義経済理論の研究に没頭されたことも、安定した京大の教職を放棄されたことも、農村更生運動や義勇軍運動に挺身されたことも、一貫してこの理想追及の念願から出たことで、誠に闘士としての男らしい生活を貫かれたことが、理想に燃える多くの青年をひきつけた要因であろうと思われる。
(1987年12月1日 伯国東京農大会 会報9号)


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