「KOJO ある考古学者の死と生」資料 (2006/07/15)
故・古城泰さんの兄、隆さんの書かれた泰さんについての思い出の文章をご紹介いたします。 この文章に大いに力を得て、作品の取材を突き進めることができました。
追悼のお礼に代えて
あれから半年以上が過ぎました。もう長い間、お互いそれぞれ独立した生活をしてきていましたから彼がいなくなったことでわたしの実質的な生活にそれほどの影響も無いはずなのに、心の中に大きな隙間ができてしまったのは自分でも驚くほどでした。典型的な長男としてあまりたいした冒険もせず平凡なサラリーマン人生を歩んできたわたしにとっては、典型的な次男として自分の信じるところどこまでも貫き通し思う通りに実行してきた泰の存在は、お互い離れて生活していても私にとって自分の夢をどこかでかなえてくれている存在でもあったと言うことを強く思い知らされました。
その後、日本とカンボジアの多くの泰にゆかりの方々のお話しを聞かせていただいたり文章を読ませていただきました。その中で、そういう彼の人生がわたしだけでなく人生の時々に出会った方々に強い印象を与え、今も心の中で生きていることを知りました。自分の片割れがそういう生き方で皆様の心の中で生きているということで自分の心の隙間も少し埋められてきたように感じ、ようやく私も少しずつ兄弟として色々行動をともにしたころの彼との思い出をすこし冷静に思い出すことができるようになってきました。この文章はそうした皆様のお心遣いに対して何もできない私からのせめてものお礼のつもり、そして兄として何もできなかった弟への送りの言葉として書かせていただきました。なにぶん素人の文章で、皆様を退屈させてしまうだけかと思いますがよろしくお受け取りください。
わたしどもは男三人兄弟でしたが、長男の私と彼は一つ違い、下はさらに三年ほど離れていることもあり、小さいころは兄弟の中でも特にわたしと遊ぶことが多く良くケンカもする典型的な兄弟だったと思います。もし、小学校、中学校の頃の友達、先生方にその頃の彼のことを聞いたら、多分だれもが真っ先に、絵の得意な子供だったことをあげるのではないでしょうか。そのころの絵のいくつかは今も実家にかざってありますが、彼の見た印象そのままを描いた独特の画風で、当時は「ピカソみたいな」と言って家族で良く笑っていました。これは普通へたくそな絵を褒める時の言葉なのでしょうが、兄の口から言うのも何ですが、彼の場合、本当に独特の雰囲気をかもしだしたすばらしい絵を描いていました。彼の実力がどれほどだったか言うのは難しいですが、クラスの中でとっても絵の上手い子というようなレベルよりはかなり図抜けていたように思います。小学校低学年のころ兄弟で通った近所の絵画教室の先生、小学校の図工の先生、中学校の美術の先生皆が彼の絵を絶賛し、卒業してずっとたってからも良く覚えておられました。ずっと後に母がそういう先生方にご挨拶をした時には、彼が芸術の道には進まなかったと聞いて非常に残念がっておられたそうです。
そういう彼が突然、芸術ではないものにのめり込んでいったのは小学校5年の時でした。わたしは小さいころからエンジニアリング的なものに興味をもって自分で部品を買ってラジオなどを組みたてたりしていたのですが、その延長で、二人ともアマチュア無線というものに興味を持ち始めたのです。当時は今と違い携帯電話も無く、国際電話も普通の人には遠い存在でしたから、自分の無線機で世界の友達と自由に交信ができる、というのは少年の夢を少なからずかきたてる世界だったのです。それに、電波を送信するのにはアマチュアであっても国家試験にパスし、免許をもらわなければいけないというのも挑戦心といくらかのエリート意識を与えてくれました。
そんなある日、彼は近所のある先輩アマチュア無線家のところに、試験のこと、その後の免許のための手続きなど色々教えてもらいにいったのです。ところが、夕方帰って来た彼は口の中で何やらもごもご同じ事をつぶやいています。良く聞くと「電信級、電信級、…」と言いつづけているのです。電信というのは、例のモールス符号というトン・ツーの符号を使った通信のことです。どうやらその先輩は、無線をやるなら音声による通信より電信の方が面白いよ、というようなことをアドバイスしてくれたようなのです。アマチュアのやる無線通信はプロのものと違い弱い電波でぎりぎり聞こえるか聞こえないかというようなレベルで通信するので、音声よりも単純なモールス符号による通信の方がずっと遠くまで届き、音声ではできないような遠い地域と交信ができるのです。しかし、電信のための免許を取るには通常の法規や工学以外にモールス符号の送信と受信の実技試験にもパスしなければならないので、普通はその必要のない音声通信だけのやさしい電話級から順に試験を受けるのです。そもそも、当時は小学生がこの種の試験を受け免許を取るというだけでもあまり例も無く、わたしを含めて事情を知っている者にはこれはかなり無謀なことのように思えました。
ところが、彼は次の日から早速、モールス符号を覚えはじめ、瞬く間に合格基準の1分間25文字の速度での送受信ができるようになってしまいました。もともと彼は、幼稚園の頃は自動車の種類をすべからく記憶していて家の前を通る車の車種を言い当てて遊んでいたのを手始めに、小さい時から記憶力が抜群でした。彼にとってみればアルファベットと数字に対応した符号を覚えるくらいはわけのないことだったようです。程なく確か彼が6年生になるときには目標通り電信級の試験に合格しアマチュア無線を始めることになったのです。当時、電信級の合格者としては日本で最年少だったと思います。しかし、それはほんのはじまりにすぎませんでした。
免許を得て、実際に無線で色々な相手と交信の経験をつむにつれ彼の電信を打つ速さはどんどん速くなり、中学生になったころにはいつも相手が聞き取れるぎりぎりの速さで打つという状態になっていました。昔どこかの本で、エジソンが若い頃電信技士として働いていて、相手のついて行けないほどのスピードで送信して困らせたという逸話を読んだことがありますが、彼の電信もそんな感じでした。もともと、電信の通信にはお互いに技を競うようなところがあるので、お互いに意地で自分のできるかぎりの速度で通信しようとします。それがどんどんエスカレートしてくるのです。実際彼が最高どの程度の速度だったのか客観的記録は残っていませんが、上級の試験の基準が1分間60文字、通常早い人で80文字程度のところ彼は100文字を優に超えるスピードで送受するのです。我々の所属していた無線のクラブにはプロの通信士として活躍していた人もいたのですが、その人も彼には太刀打ちできませんでした。後になって上級の試験を受けたときは、実技の試験では試験官に「速過ぎて器械が記録できないので、もう少しゆっくり打つように」と言われたと自慢げに語っていたこともありました。
ところで、わたしのアマチュア無線に対する興味は工学的なもので、送信機や受信機の動作原理を勉強し設計し秋葉原で部品を買ってきては組みたて、思い通りに動くとおしまい、という感じでした。これに対して、彼の興味はもっぱら、無線を使って世界中と交信することにありました。最初のうちは近所の相手と交信して喜んでいたのが、瞬く間に、日本中の相手と交信し、世界中の珍しい相手を探すようになりました。アマチュア無線では、交信するとその日時や周波数帯を証明するQSLカードという葉書大の交信証を交換するのですが、当時の彼の机の引出しや空き缶の中にはこのQSLカードが山のように詰め込まれていました。
色々な団体がアワードと称して色々な賞状を発行していました。例えば、日本国内の全県の相手と交信したとか、何百の市の相手と交信したとか。また、世界の6大陸の相手と交信したとか、100カ国の相手と交信したとか。程なくそうしたアワードの主だったものは全部制覇してしまいました。
通信技術を競うコンテストが国内のメジャーなものだけで年に数回開かれていました。ルールはそれぞれ多少違いますが、一定時間にどれだけ多くの相手、またどれだけ多くの地域(都市や県など)と交信できるかというようなことを点数で競います。時間はたいてい土曜日の夜9時から日曜の夜9時までというような24時間程度ですので、徹夜の体力勝負になります。電波は高い見晴らしの良いところの方が良く飛ぶので、コンテストの時には地域のクラブの仲間数人と近所の小高い岡の公園にテントや無線機、アンテナなどの機材を持ちこんで良くキャンプをしたものです。土曜日の午後から出かけて、テントやアンテナの設営が終わり、9時丁度になると皆一斉に交信開始です。無線機は使用する周波数帯毎に何台か持っていくのですが、無線機の数より人数の方が多いので最初は器械の奪い合いになります。彼は一人電信の方からスタートします。電信のオペレートの出きる人間は少なかったので電信専用のものはあまり取り合いにならなかったのです。コンテスト開始2、3時間もすると、別のテントで酒を飲み始める年長組、早々と寝てしまう者と、だんだんに真面目にオペレートするものは減ってきます。そのころ彼はおもむろに先ほどまで奪い合いになっていた無線機の方に移るのです。そして、ほとんどのものが寝静まってしまう明け方も、翌朝も休むことなく続け、夕刻にはふたたび器械の奪い合いになる最後の大詰めを迎えるのですが、その頃には24時間休むことなく頑張ってきた彼を押しのけるものはいませんでした。
コンテストに勝つためには、そういう長時間の緊張を耐え抜く強靭な精神力とともに、当然、高い通信技術も必要としました。単に高速に電信が送信受信できるだけではありません。彼はノイズすれすれに聞こえる私や仲間達にはほとんど信号とも聞こえないようなモールス信号を聞き取り通信していました。また、コンテストのような多くの無線局が一斉に電波を出すときには大変な混信で、いっぺんにたくさんの信号が聞こえてしまいます。高級な受信器は性能の良いフィルターを備えていて、この混信がずっと軽減されるのですが、我々のような中学高校生が持っていたのは一番安い受信機ですぐに混信を起こします。しかし、彼は普通の耳では聞き分けられないようなたくさんの混信の中から目的の信号だけを聞きとる術を身に付けていて、自分でこれを「耳フィルター」と称していました。確かに精神を集中して聞くようにずっと訓練を続けていると、普通の人間でも多少は他の信号が気にならなくなり、目的の信号だけが少し浮かびあがったように聞こえてくるのです。しかし、彼ほど長い時間精神を集中させ続け、クリアにそのようなことができる者は他にいませんでした。
アマチュア無線の世界にはエクスペディションと称して、世界の珍しい地域に無線機を担いで遠征をする人達がいます。当時は発展途上国を中心に、アマチュア無線が一般には許可されていない国や許可はされてもアマチュアで無線を運用するような人が居ない国がたくさんありました。発行されているアワードの中にはそういう国や地域とたくさん交信することで貰えるものが色々あります。エクスペディションが行われるという情報が入ると、その日、予定時刻が近づく頃、それが深夜だろうが早朝だろうが必ず無線機にかじり付いて、何時間もノイズの中でいち早く目的の信号を捕らえようと耳をすまし続けるのです。だいたい、そういうエクスペディションは行くだけで大変な場所が多いですから、実際の運用開始の時刻や周波数は事前に知らされたものとは大きくずれることもしばしばです。結局、運用できない場合や、上空の電離層の状態で日本には電波が届かないことだってかなり多いのです。一方、世界中でそのエクスペディションと交信しようと必死で待ち構えている人達が大勢いるのですから、いったん誰かが見つけて交信が始まったらパイルアップと呼ばれる大変な混信状態になります。だから、そうなる前に誰よりも真っ先に信号を捕らえて交信しようと、いつくるかわからない信号を必死で待ち構えます。そして最後、守備良く獲物を捕らえた時は、後から獲物に群がって呼び出している他の人達のパイルアップを聞き余韻を楽しみ、上機嫌で床に入るのです。
もちろん、そういう彼の努力が常に報われていつも一番に獲物を捕らえていたわけではありませんが、彼に先を越されて悔しい思いをする人達は大勢いました。あの頃は「どんなリグ(無線機やアンテナの事)を使っているのか」と良く聞かれたものです。一口に無線機と言っても非常にパワーのある高価な器械や地上高何十メートルというようなものすごいアンテナなどから我々の使っていたような中学生のお小遣いでなんとかなるような非常に貧弱なものまで色々です。当然ながらお金のかかったものの方が送信する電波も何十倍何百倍も強く、受信感度も大変良いのです。だから、いつも彼に先を越されてしまう人達は彼がどんなすごい無線機を使っているのだろうと想像して聞くわけですが、実際は彼が使っていた送信器は自作の入門レベルのパワーしか出ないものでした。受信機も彼が小学校の頃の誕生日プレゼントに父から買ってもらったものでした。小学生の誕生日プレゼントですからアマチュア無線用としても一番の廉価の物でした。聞いた人は、その成績がひたすら彼の腕前によるものだと知って一様にびっくりしていました。
コンテストの成績も常に優勝とは行きませんでしたが、上位入賞はしばしばでしたし、全国優勝したことも何度もありました。こうしたコンテストに入賞を狙うような人はたいていそれなりにお金を使って良いリグをそろえています。使っているものの貧弱さを割り引けば、彼の通信技術と長時間にわたる精神力は既に中学生のころ日本でもトップレベルだったのだろうと思っています。実際、中学2、3年のころには既に、世界を相手に大人顔負けに電信を操る中学生として、その世界では知る人ぞ知る存在になっていました。
彼が考古学をやるようになってからは、わたしには専門外ですのであまり詳しいことや正確なことはわかりませんが、彼のやり方の話しを聞いていると、徹底して自分の手と足を使い、そして感覚を研ぎ澄ますことで研究を進めようとしていたように思います。実際、私と話している中で直接、アメリカ人のハイテク信仰を強く批判したこともありましたし、自分はローテク・アプローチが好きだというようなことを言っていたこともありました。今、こうして昔のことを思い出してみると、そういう彼のポリシーは「どんな器械を使っていても、それを使う人間の技量、感覚が最終的な成果を決める」というこの頃の経験と強い自信から出ている面もあるのかとも思えます。
彼が高校に入ってからのある日、突然、「アンテナ用の鉄塔を立てたい」と言い始めました。微弱な電波をうまく受信し、また弱い電波を遠くまで飛ばすにはアンテナが非常に重要な働きをするのです。そのために、プロ・アマを問わず色々なアンテナが試行され、実用化されて来ています。それまでも彼はどこからかこういうアンテナが良いと聞き付けたり、雑誌で見付けたりすると竹竿や銅線を買ってきては試していました。最初は庭の両端に立てた2本の竹ざおの間に銅線を張った一番基本のダイポール型からスタートして、キャビカル・クワッド、八木型やその変形等など。そうしたアンテナを支えるために木製の梯子を自分で組みたてて立てたりもしていました。
しかし、アンテナは基本的には地上から高ければ高いほど良く電波も飛び、受信もできます。木製の梯子では高さに限度があります。何とかもっとアンテナを高くしたいということで鉄塔ということになったのは至極当然の思考です。しかし、当然ながら鉄塔となれば非常に高価なものになります。その当時もアマチュア無線用の鉄塔は売られてはいましたが当時で10万円以上はする高価なもので、とても高校生の我々が買えるようには思えませんでしたし、仮に材料が揃ってもかなりの土木工事も伴います。それに、わたしの方は興味がエンジニアリング的な方ばかりに行っていましたから、鉄塔のように構造が簡単で原理が明確なものにはあまり興味がわかなかったので、乗り気ではありませんでした。
ところがある日、彼は「近所のジャンク屋で鉄塔が置いてあるのを見付けた」と言うのです。ジャンク屋というのは、アマチュア無線仲間では中古の無線機や部品を売っている店のことです。そのジャンク屋は鉄くずみたいなものも扱っていたので、その関係で何処かで使っていた広告塔の支柱か何かの取り壊したものが置いてあったのでしょう。あまり乗り気ではない私も彼があまり言うので見に行きました。幅30cmくらいの3本の平行の鉄棒ででき三角柱のものです。長さは10m。確かに、アマチュア無線の鉄塔にするには丁度良いくらいの鉄塔です。もう値段は正確には覚えていませんが、確か鉄くずとたいして変わらない値段で、高校生にも充分買えそうです。
しかし、それからが大変です。普通のアンテナ用の鉄塔は鉄パイプでできているのですが、この鉄塔は中身の詰まったむくの鉄棒でできていて大変な重さです。幸い、長さ10mのが2本ともう一本短い5mくらいのものがあったので、これを山分けしようともう一人の友達を仲間に誘いこみました。学校の用務員さんにリヤカーを借りて、近所とは行っても2、3キロ離れたジャンク屋から1本づつ仲間にした彼のうちと我が家に世田谷の狭い路地を運んだのです。途中途中で住人の注目をあつめ、狭くて道を曲れなくて困っているところを通り掛かりの土建屋風のおじさんに助けられたりしながら、やっとのことで運び終えました。
しかし、プロジェクトはまだまだこれからです。短い一本を二つに切断し、長い方のそれぞれに溶接する必要があります。近所の鉄工所のおじさんに来てもらいました。相手が高校生だし、めずらしさも手伝ったのでしょう。溶接1箇所100円でやってくれましたので、3箇所で300円ですみました。こうしてまず長さ約12.5mの鉄塔ができあがりました。
次に、鉄塔の先端の方にはローターと言って、上に取り付けたアンテナを交信する相手によって適当に回転させるためのモータが必要です。これを後で取りつけられるように台を作ります。鉄塔を立てる場所には2m近い深さの穴を掘り、コンクリートのヒューム管を立てにして埋めておき、あとで鉄塔をこのヒューム管に差し込んですぐにコンクリートで固めることができるようにしておきます。しかし、これだけの土台では高さ12.5mの鉄塔とその上に乗せる大きなアンテナを支えるのには充分ではありません。台風の強風で倒れるようなことがあったら大変なことになります。重さで家が壊れかねません。庭のすみの方3箇所にこれまた深い穴を掘って、鉄塔の先端からこの3方向にステー(ワイヤーによる支え)を張る必要があります。そのステ―にはおおきなアンカー(ステ―を地中に止めておくコンクリートの塊)を作って穴に埋めておきます。我々二人でようやく持てるくらいの重たいアンカーだったので、掘っておいた穴に落としこんだときには穴の底にたまっていた地下水で背丈以上の水飛沫があがりました。
こうして下準備が整ったある日曜日、いよいよその鉄塔を建てる日がきました。その日は朝から十何人もの友達が我が家に集まりました。そのころには我が家の鉄塔プロジェクトは仲間内では相当に有名になっていましたから、特別頼みこんだわけでもないのに普段そんなに付き合いの無い仲間まで珍しいもの見たさでたくさん集まったのです。しかし、最終的にはこれが幸いしました。昼過ぎにはすっかり下準備も整い、さていよいよ鉄塔を持ち上げようと言う段になったのですが、さっぱりうまく立ちあがらないのです。鉄塔の下の端をヒューム管で作った土台のところに持っていき、反対の端を何人もで持ち上げるのですが、先端を2,3mくらいに持ち上げるのがやっとです。何しろ、この鉄塔はむくの鉄棒で出来ていますから大変な重さです。普通は鉄塔というのは短い鉄塔を下から一本建てては次を吊り上げて継ぎ足すと言う風に立てるのですが、我々の場合は最初から12.5mの長さの一本です。人間の背丈に比べてずっと長く重たいので、竹ざおを立てるようなわけには行かないのです。
最初は回りで見物していた仲間も手の届く限り手を貸しますが、だめです。先端にロープをつけて反対からもひっぱってもだめ。家の屋根に何人か登りそこからもひっぱりますがまだ上がりません。とうとうやや離れた2階の屋根にも何人も登りそこからも引っ張って全員総がかり。それでも体制を崩し横倒しになりそうになり何度もやりなおし。何度目かのトライでようやくヒューム管の土台に差込むことに成功した時にはもうあたりが薄暗くなり始めていました。ここまで出来た時には、全員やんやの大喝采。まだ、下の土台のコンクリートを流しこんでいるうちから鉄塔に登ろうとする者、3本のロープのステ―がまだたるんでいるというのに安全ベルトも付けづに一番てっぺんまで登ってタバコをふかして良い気分になっている者まで出る始末でした。
今、こうして彼の企画したりやったりしたことを思い出してみると、いつも彼の考えることは中学、高校生としては抜きん出ていたように思います。それは、多分彼がつねに常識にとらわれない思考をしはっきりした強い目的を持ちそれを完遂するために手段を選択していたからだと思います。まわりに居る我々にとって見ると、彼にとっての手段の一つ一つが目的のように見えて、何か突拍子も無いことのように感じられたのでしょう。彼はあの頃から自ら仲間を作るようなことはほとんどしませんでしたが、そういう彼の行動を面白いと感じる仲間がいつも集まって思春期という人生の準備期間に我々も非常に貴重な刺激を受けていたように思います。
仲間への刺激という点ではこんなこともありました。アマチュア無線を始めるようになって程なく、我々は地域の無線クラブに入会したのですが、いつからか何人かの仲間とそのクラブの会報作りを担当するようになっていました。毎月のミーティングの前日、学校が終わると我が家や誰かの家に集合して、集まった原稿や自分たちの書いた原稿で会報の印刷をするのです。中学、高校生が集まるわけですからあれやこれやお喋りをしながらたいてい深夜までの作業になります。
ある月の会報の表紙に彼がメンバーの一人の似顔絵を描いたところ、これがメンバーの間で大変な評判でした。前にも書いたように彼は学校でも大変絵が上手かったのですが、ガリ版印刷の原紙に点描画で書いた似顔絵は、例によって写実というよりその人の特徴を非常に良くあらわした一種独特のものでした。その絵にまた彼が何か一言コメントを添えるのです。それがかなり辛らつなユーモアだったり、痛烈な皮肉だったりなのですが、あまりに愉快だったり、真実を言い当てていたりで、読む会員はもちろん大喜びだし、書かれた当人も怒り出すより、むしろ一緒になって来月は誰が槍玉にあがるのだろうと楽しみにしていました。
そのシリーズは1年以上も続き、とうとうあまり取り上げるべきメンバーがいなくなってしまって、実はその最後のターゲットに選ばれたのは私でした。その時のわたしの似顔絵に対するコメントは「ついに成功!あまりに平凡、なんの特徴も無い顔で、誰もが成功しないと信じていたこの顔」というような感じのものだったと記憶しています。このコメントは兄弟だからといって他より特に辛らつというわけでもありませんでしたから、他のものがだいたいどんな感じだったか想像できるかと思います。当の私も当時は「兄弟で、生まれた時から見続けている顔だから、特徴を感じないのはあたりまえ」くらいに思っていました。(今、人生の折返し点もだいぶん過ぎ、自分の平凡なサラリーマン人生を振り返ると、彼のコメントの辛らつさが別の意味で改めて伝わってきますが。)いずれにしても、当時のこのクラブ仲間では別に彼だけがそうであったわけではなく、言いたい事を言い合うという意味では皆同じようでしたから、彼がこのシリーズのおかげで何か特別な反発を受けるというわけでもありませんでした。それどころかシリーズを続けるうちに、何となくこのシリーズに取り上げられることイコール正会員として認められることみたいな雰囲気さえ出てきていたように思います。
さて、そんなこんなで彼の思春期の大半を費やしたアマチュア無線でしたが、彼が高校3年になる頃には受験勉強のために急激に遠ざかることになりました。しかし、これも彼にとっては周囲が勉強するからとか、親や先生に言われたからというものでは無かったように思います。もともと、彼は周囲に流されるような性格では絶対に無かったですし、我が家では私も誰も受験勉強に関してさえ一度も勉強しろというようなことを言われた覚えがありません。アマチュア無線という趣味もそれなりの深さを持った趣味ではあるのですが、彼にとってみればもうその頃にはこの世界ではほとんど自分のやりたいことはやり尽くしたという感じになっていたのではないかと思います。次なる探求の場を求める時期と大学受験期が丁度重なっただけだったのでしょう。
こうして、次の春には彼の次の活躍の場である探検部が待ち構えている早稲田大学に無事合格しました。それとともに、彼がアマチュア無線の世界に戻ることは二度とありませんでした。探検部でもそれまでに培った強靭な精神力と集中力をベースにいくつものさらにずっと面白い経験をし、また、伊豆大島三原山の御神火すくい、カナダのイヌイット村での越冬など専門家からも多少の注目を集めるようなこともやったようです。しかし、これについては私は行動をともにする仲間としてではなく、単なる一家族として後から土産話を聞くだけの立場でした。当時の仲間の方々の方がずっと良く本当の彼の姿を捉えておられるものと思います。後からこうして振りかえってこの頃について一言だけ付け加えるとすれば、この期間に彼はさらにだれにも負けない野生的な面を身につけ、いよいよ人生の本番である考古学への道を歩みはじめたのだと思います。
考古学を始めてからの彼は、わたしの方が結婚して実家から離れたり、彼がアメリカに長く留学していたり、カンボジアでの滞在が長かったり、また、最近はわたしの方がアメリカに転勤になったりで、残念ながらほとんどの実質的な会話は電話でということになっていました。わたしが聞いた考古学の話は彼がやっていたことの中ではほんの一部にすぎないのだろうと思いますし、それすら素人の私が正しく理解もできていないのだろうと思います。
ある時電話で話していて、「俺は地味な考古学の中でもまた地味な年代記というものをやっている」、とちょっと自嘲気味に言うので、「その年代記とはどんなものなのか?」と聞いたらそこから延々1時間以上の年輪年代記の講義が始まってしまったことがありました。多分、皆様は良くご存知なのでしょうが、年輪に刻みこまれたC14の放射性同位体の年毎に変化するレベルのパタンを見ることで飛躍的に正確に年代が計測できるというような話だったと理解しています。電話で言葉だけの説明ですから説明は面倒だったと思うのですが、非常に丁寧にわたしのような素人でも良くわかる説明で、しかも、自分が非常に興味をもってやっているのが良く伝わってくるのです。
余談ですが、自然の世界のアナログ信号をコンピュータや通信で取り扱えるデジタル信号に変換するのに、時間的に変化する電圧なり電流なりの信号を一定の周期でサンプリングしてその値をデジタル数値化するというデジタル信号処理のもっとも基礎になる技術があります。これは今や電話やパソコンの音声、放送機器などありとあらゆるエレクトロニクス機器で使われています。こういう技術は昔誰か偉い技術者が独自の想像力で発明したものなのでしょうが、かたや何万分の1秒に1回という超高速なのに対してかたや1年に1回という超低速という違いだけで、実は人間の叡智がそういうものを発明する何万年、何億年も前から自然は年輪の中にまったく同じような事をやっていたと知って大変感銘したので、この年輪年代記の話は特に良く覚えています。
彼は自分の興味の趣く所、何でも手を出していたのではないでしょうか。ある時は、「調査旅行にしばらくでかけていた」というので、どこに行っていたのかと聞くと「米国東部のLake Champainという湖だ」と言います。「そんなところに古い遺跡でもあるのか?」と聞いたら、「恐竜の目撃談が多い。ネス湖のアメリカ版みたいなものだ」とのこと。自分でも恐竜の出そうなところで見張っていたのだそうです。
また、別のある時は、いきなり「ビッグフットとかイエッティって知ってるか?」と聞かれたこともありました。アメリカ版雪男のことだそうで、細かいことはもうすっかり忘れてしまいまいしたが、目撃ビデオの話や自分で山にこもって調査した話などたくさん聞かせてくれました。遺品を整理していたら、その種の目撃ビデオも出てきましたし、その後も米国からビデオが送られてきたりもしましたので、多分最近までそういう領域にも興味があったのでしょう。
彼は自分で自分のことを「こういうのは正統派の研究者とはみなされないのだ」と言いながら、「この種の調査をしている連中は、ちゃんとした方法論を持っていないで闇雲に信じてやっているだけだからだめだ。」と例の調子で痛烈に批判していました。Lake Champainの調査に関しては後日、私も彼の書いた論文を送ってもらったりもして読ませてもらいました。目撃談の頻度などを客観的統計的に解析した上で、単なる誤報や虚偽の報告の積み重ねとは考えにくいとし、何らかの「現象」が存在する可能性が高い、というような落ち付いた書き方で結論していたのが印象に残っています。何らかの「動物」とは書かないあたりで彼としては、このきわどい領域との関わりを彼なりにマネージしていたのかもしれません。
統計的手法という意味では、遺稿となってしまった「縄文時代の交換組織」(小川先生の編集による「交流の考古学」に収録)も縄文遺跡のデータを統計解析し論旨を組みたてたもので、考古学の用語の意味や詳細についてはわかりませんんが、基本的な論旨はわたしのようなものにも非常にわかりやすいものでした。
実を言うと昔の彼は数学はどちらかと言うと苦手科目だったはずで、将来、こうした数学を駆使した論文を書くようになるというのはあんまりイメージできませんでした。子供の頃のアマチュア無線の試験でも内容を理解するよりも強力な暗記力に頼る傾向がありました。試験は法規、工学、それに実技があるのですが、法規は当然として彼は工学もまったくの暗記です。これは後に上級の試験を受けた時もそうでした。上級の工学の試験内容となるとさすがにただの丸暗記では記憶すべき量が膨大になってしまいます。結局、立ち行かないだろうと思ってわたしはあきれて見ていたのですが、彼は持ち前の抜群の暗記力で買って来た参考書を何冊も丸暗記してついに合格してしまいました。恐らく彼から見れば資格試験は一つの手段にすぎず、内容を理解するに値するほど興味がわかなかったのでしょう。そういう彼の姿を見ていたので、後に数学を駆使するような論文を書くようになるとは兄の私としてはあんまり予想していませんでした。しかし、考えてみれば、自分の目的を達成するのに必要とあらば、人生のどこかで数学の一分野やそこらを自分の道具として身につけることくらい彼のようなクリアな目的意識と集中力を持ってすればわけの無いことだったのでしょう。
しかし、そういう彼も長い米国留学生活の中では挫折も経験しました。その節には、米国で、また日本で回りにおられて彼を支えていただいた皆様には本当にお世話になりました。「一旦帰って、しばらく休んだら?」「そうすることにした。」と電話では話したものの、どうなるか自信がなく、母と二人出迎えに行った成田の税関から彼が実際に出てくる姿を見た時は本当にほっとしました。
彼からカンボジアに行くことになったという話を聞いたときにも多少はびっくりもしました。我々家族の乏しい知識では当時カンボジアと言えばポルポト、内戦、地雷といったような物騒な言葉しか連想できませんでしたから、一応内戦はおさまっているとは聞いていても心配が無いわけでもありません。しかし、アメリカ留学から帰ってからあまり楽しそうな話を聞く機会が少なかったので、こういうことでまた何かに出会うことができればそれもまた良いのではないかと両親と話していました。それでも、「連絡先の住所を教えておいてくれ」と聞くと、「そもそも郵便配達が無いから、そういうものを知っていても無駄だ」というような調子で、出発前に彼から色々聞いた話は母には全部は話すことはできませんでした。彼が置いて行った唯一の連絡先の電話番号は幸い一度も使う必要はありませんでしたが、当時いざと言う時本当にこれで連絡がついたのかどうか今となっては良くわかりません。
1回目のカンボジアから帰って来た時も、「大学で教えることになったけど、カリキュラムも無いし、先生も生徒も都合の良い時に集まるだけ。」と言うような話で、わたしなどの想像できないような環境だったようです。しかし、話す様子は非常に楽しそうそうだったので、いずれにしても行って良かったのだろうと喜んでいました。そういうわけで、今回現地の大学や関係者、発掘にたずさわる方々にお会いしお話をお聞きして、彼がどれだけこの国に惚れこんでいたのか改めて具体的に感じることができた次第です。彼がこの国で多くのすばらしい方々とお会いできたことを深く感謝しています。
今から思い返すと彼とわたしは興味や専門も異なり、地理的にも離れたところに暮らす状態が長くなってしまっていました。わたしの方はというと、当時の趣味がこうじて大学では電子工学を学び、コンピュータ関係の道に進み、今は米国ボストンでソフトウェア関係のビジネスという風に彼とはまったく違った世界を歩んできました。気が付けば住む場所までボストンとカンボジアと地球のまったくの裏側同士で、最近は忙しいことにかこつけてあまり話しをする機会も少なくなってしまっていました。それでも、そう遠からず隠居するころにはまたゆっくりお互いのそれぞれの経験を語り合う時がくるだろうとおぼろげながら思っていたのですが、残念ながらそうはならず、兄としては大変悔いの残る結果となってしまいました。
しかし、こうして考えて見ると彼は生きている限り隠居するなどということは無かっただろうし、お互い話をするときにはいつもの電話の時のように、最初はとつとつと、そして後は一気に彼が自分の話を始め、私はその話を楽しく聞くことになったのだろうと思います。皆様から彼の思いで話を聞かせていただいたり、読ませていただいたりしていると、なんだかそんな彼の口から話を聞いているような気分になってくるのです。
皆様の暖かい心遣いに感謝して、いささか長めのお礼の文章の筆を置きたいと思います。
2001年2月 古城 隆
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