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「KOJO」を読む (2006/07/22)
ブラジルからも移民からも離れた岡村の異色の最新作「KOJO ある考古学者の死と生」。 ネット上で発表された、あるいは作者に寄せられたコメントを紹介します。
その話の内容は仏のランズマン監督の映画「ショアー」に通じるくらいの作品なのに、日本の映画批評家・メディア等が岡村さんのこの作品になぜ全然コメントをしないのか単純に疑問に思うということ、さらには文学者や哲学者、宗教者あるいは精神科医やカウンセラー等のいわゆる「自死」、「ケア」といったことに関心を持つと思われる人々が岡村さんのこの作品になぜそれほどコメントをしないのかも疑問に思うと伝えました(わたしが無知で、誰か著名人が批評をしてるかもしれないのですが、とりあえずインターネットで検索してもそれらしいものは見つからず・・・)もし彼・彼女らが「知らない」のだとしたら正直怠慢なのではないか、と。
私自身星野智幸さんのHPから岡村さんのことを知ったのですが、この「KOJO」のすごさを皆に伝えたいと正直思いました。 「KOJO」という作品はそもそも古城泰さんという考古学者の生き様、学問への向きあう姿勢を取り上げることであり、「自死」とか「ケア」ということをテーマにはしていないのですが、そのことそのものがすごいと思うのです。 その人の生き様などは無視し、ただ「自死」したということに焦点を向け、周囲の人間はその自死したことに罪悪感を抱き、さらにはその周囲の人間をどう「ケア」するか・・・etcということがともすれば「自死」したひとをめぐるドラマとしてわたしなどは想像しがちですが、そうなると、「自死」ということだけが浮かび上がり、その人そのもの、生きた魂がどこかへ消えてしまうといつも感じていました。 それなので「KOJO」をみて、こんなに優しく、面白く一人の人間の生き様を捉えうるという事実に感動したのでした。正直自死をしようとすまいと関係ない!というくらいの勢いで、周囲の古城さんを知る人々の語りを記録している、その事実そのものが友情とか愛情というものの具現化だと感じました(岡村さんは古城さんは臨死体験をしたくて失敗したんじゃないかと会場で話していたことを記憶してますが・・・)。 ただひとつだけ質問しようと思ってしそびれてしまったのは、古城さんを語る主な人々としてなぜあのお三方(丸井さん、小川さん、大森さん)、を岡村さんが選んだのかな?ということです。周囲の人々というとそれこそ肉親だとか、恋人だとか、そういう人を選ぶのではなくあの「考古学」を愛する3人だったということがとても印象的でした。 (在東京の女性より)
今回の作品は本当に普遍的な深いテーマが描かれていて 私には「ずどーん」と深く胸にせまるものがありました。 一冊の重厚な小説を読み終えたような「読後感」でした。 登場人物の個性もあいかわらず「奇跡的に絶妙」で そのことがテーマだけでなく作品のレベルまでも ものすごく普遍化させていて、「見せる」という意味でも 岡村さんのすごさをあらためて認識しました。 カメラがその「実存」をかけ「三人」の方に向き合っているのが ひしひしと伝わり、特に「大森さん」と向き合うカメラには 「殺気」さえ感じました。 だからこそ、観た者はそれぞれの「kojo」を「思い出し」「語り合い」 今の自分の「生」や「実存」をみつめることができたと思います。 そして自らの「生」を励ましたはず。 「死は生の対極にあるのではなく生の中にある」 という言葉をあらためて思い出しました。 (テレビ局勤務の男性より)
「KOJO」は実に不思議な作品でした。 死から見いだされる生。 見ている間に、生きるための力がじわじわと湧いてくるようでした。 自死した人のドキュメンタリーで こんなにも生を肯定され、励まされるとは! (元大学職員の女性より)
岡村淳さん『KOJO ある考古学者の死と生』の上映会に来てくださった皆様、ありがとうございました。一般に向けての初上映会でしたが、盛況のうちに終えることができました。コメントを書いてくれる方もいつになく多く、内容もとても熱い文章が多くて、スタッフとしても満足しています。 私も初めて見たこの新作、古城泰さんがいないということが不思議に思えるほどでした。亡くなった古城さんの記憶が語られているのに、まるで生きている方について語っているよう。しかも、それを語る3人がそれぞれ「自分らしく」生きていらっしゃる方たちなので、見ている者には、岡村さんを含め5人の生が強く印象づけられます。共通しているのは、どの人も自分自身の感じる違和感をごまかさず、直視しようとする姿勢で、私はそれに強く励まされました。岡村さんは古城さんの背中を見て学んできた、とおっしゃっていましたが、古城さんを知るにつけ、私には岡村さんとも重なって見えます。 畢竟の大作『アマゾンの読経』もそうでしたが、亡くなった方を、まわりで関わった方々の記憶を通して描くということをするとき、岡村さんは、たんに故人の生涯を再構成し直す、ということはしません。そのようなわかりやすさが切り捨ててしまう、当事者の大切な細部を、できる限り掬いあげていこうとします。そのために、故人について語る証言者の生きざまそのものも描くことになるのです。そうやって、まわりの人々との関係を含めて描くことで、故人の生をよみがえらせてくれます。亡くなった古城さんの生は、それぞれの人の生のなかで再生されていることが、深く伝わってくる作品です。 (星野智幸さん「言ってしまえばよかったのに日記」2006年6月10日付より)
早稲田大学で行われた上映会で、岡村監督の新作『KOJO』を見る。岡村監督もブラジルから来日されていて、お元気そうで何よりでした。 古城泰というある考古学者が、2000年5月に自死した。生前の彼を知る3人を追いかけ、岡村監督のカメラは、日本、フィリピン、カンボジアを駆ける。 今作品は、今までの作品とは違い、岡村監督のプライベート作品という感が強い。他の作品では、岡村監督は対象への好奇心に充ち満ちて、相手に問いかけ、相手がその問を自分の中で咀嚼して己の中からにじみ出してくる言葉をじっと待つけれども、今回は、質問も少なく、カメラのこっち側で一緒に故人への想いを共有している監督が感じられる。しかしインタビューの対象者が必ずしもしみじみしているわけではなく、割とあっけらかんとして古城氏との関わり、彼に連なる今の自分の仕事の話を三人三様に語り続ける。『KOJO』は、亡き古城氏の人となりを描き出す、というよりも、古城氏がどのように人に影響を与え、古城氏が死してなお、彼の薫陶を得た人たちの中に生き続けているということを強く感じる作品になっている。 昨年自死した知人のこと、彼と関わった周囲の人々に思いを馳せながら見ることになった。昨年病を得て亡くなった知人とそのご家族のことも、苦しく思い出される。 亡くなった方の周囲の方たちの中に、いろんな形で死者が生き続けている、そのことに救われる思いの人は多いだろうと思う。 死者が生者の中に生きている、死者を想うことで生を考えさせられる作品だった。 (「けろののほほん日記」2006年6月10日付より)
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