岡村淳 〈関係〉のドキュメンタリー/〈愛〉のメディア 淺野卓夫著 (2007/07/08)
岡村淳 〈関係〉のドキュメンタリー/〈愛〉のメディア
文*淺野卓夫
ぼくも行くから君も行け、せまい地球に住み飽いた。宇宙の丘より人が呼ぶ、羽衣ひろげて君を待つ。 ——『郷愁は夢のなかで』
岡村淳。一九五八年生まれの記録映像作家。いまから数年前、冬の東京で開かれた上映会で、『郷愁は夢のなかで——ブラジルに渡った浦島太郎』をはじめとするかれのヴィデオ・ドキュメンタリー作品を集中的に見たときのしずかな興奮を、ぼくはいまも忘れることができない。
ほぼ百年前にはじまった、ブラジルへの日本移民の歴史的足跡をなぞるようにして、岡村さんはみずからブラジルへ移住した。そして、この南米の大地に暮らす忘れられた日本人をあちこちに訪ねては、寡黙なかれらの声にじっと耳を澄ませ、そのたたずまいにむけて精力的にカメラをまわしている。 岡村さんは、たったひとりでおこなうこうした撮影の旅のプロセスにそって移民たちとの一期一会を記録し、対話をとおしてかれらの記憶のありかをゆっくりとあかるみに誘い出すような、個人映画的作品を数々発表してきた。
最初の長編作品である『郷愁は夢のなかで』は、ブラジル奥地の掘っ建て小屋にひとりで暮らす古老の移民を主人公とし、永遠に癒されない祖国への懐郷心に裏打ちされた黙示録的ユートピア像を孤独に語りつづけるその憂いにみちた声をめぐる、傑作のドキュメンタリーだった。 異邦の地に生きる一移民が、記憶の底からすくいあげられた原初と無垢のことばのみをつかって、世界と人間とのつながりをめぐる深遠なる哲学を「浦島太郎」の民話に託してつむぎだす映像に、みるものの魂ははげしくゆさぶられる。古老の生涯の最後に、世界そのものへの遺言のようにして発せられたその声のごく一部を引用しよう。
「なぜにこの世界中の人たちは世界のいかなる国民にもわかるような、世界共通の言語を発明できないのだろうか。一日も早く世界の平和のために、世界共通のことばを発明しなければならない・・・人間というものは、地球上最悪の害虫であることを忘れてはならない。その害虫の償いはどうしたらいいか。それは死してあの世で償いする方法しかないのだ。あらゆる生物の霊魂の理解があってこそ、はじめて人間というものが生まれてくるのではなかろうか・・・」
さて同時にこの作品は、このような強烈な声の存在感だけを残してあっけなく世を去った老移民の生涯を徹底的に歩みなおし、死者とのひそやかな対話をつづけながらふたりの出会いの意味を真摯に問う作家自身の自己をめぐるロード・ドキュメンタリーでもあった。 亡き移民の記憶の風景を追い求めて無辺限の大地を疾走し、マット・グロッソ州最深部の町ロンドノポリスにいたるブラジル横断の旅。さらに太平洋を越え、かれの故郷鹿児島の浜辺へと、岡村さんの鎮魂と巡礼の旅はつづく。 ある他者との一回限りの出会い、そしてその出会いが呼び覚ますあらゆる偶然の出来事に、おのれの実存をかけて精神と身体を投擲すること。岡村さんのこのような映像作家としての方法と姿勢は、その後に発表された長編作品——ミナスジェライス州の緑の大地にふところで、自分たちの死をしずかにみつめる日本人老夫婦の日々を描いた『ブラジルの土に生きて』、南米最果ての地パタゴニアを目指す日系博物学者のフィールドワークの旅を追う『パタゴニア——風の戦ぐ花』——にも、一貫して受けつがれているようにみえる。
二〇〇二年、ここ南米最大の都市サン・パウロで、ふたたびぼくは岡村さんの作品と人柄にふれる機会をえたのだが、東洋人街の夜の場末のバールで、あるとき岡村さんがみずからの創作の秘密をこうあかしてくれたことがあった。
「ぼくは、自分の仕事はシャーマニスティックなものだと思っています。どこか、神懸がかったところがあるっていうか。たとえばある声の呼びかけが聞こえてきたとき、たとえば何かが起こる予感がするとき、ふっとカメラをまわす。そうすれば、しかるべき映像が撮れる。ぼくにとって、カメラをまわすという行為は、こちらに呼びかける声にたいするささやかな祈りなんです。」
忘却と消滅の途上にある他者の声にするどく感応し、意識の手をさしのべるシャーマン=映像作家。ここでは、ヴィデオカメラをかかえて映像を撮るものと、撮られる対象とのあいだの〈関係〉の倫理学(エシックス)が、のべられている。岡村さんの全作品をつらぬく主題は、この呼びかけと応答の対話関係、いいかえれば、わたしはあなたの声のもとへいったい何をかえすことができるのか、という誠実かつ究極の問いかけ=まなざしそのものなのだ。 そう、 岡村さんの映像作品に、単なる記録性をこえたある深みを与えるのは、この「祈り」のまなざしにほかならない。 そしてそのまなざしを、〈愛〉という日常語の地平におきかえて考えてみてもいい、とぼくは思う。 映像という魔術は、うしなわれゆく他者の記憶の声に、未来の光りのなかであるかたちをおくりかえす。この、時間の奇蹟をひたすら純粋に信じ、ブラジルで百年の孤独を生きる移民たちとの小さな出会いを記録する岡村淳のドキュメンタリー作品——そこに映し出される魂の光景を媒介にして、ぼくらの眼は、資本と国家の力によって肥大化した商業映像メディアの世界がいまや忘れかけた映像の〈愛〉を、ふたたび発見するにちがいない。
(「エクスタス」講談社・2002年03号初出を2007年、加筆)
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