「あもーる あもれいら」第一部を読む (2008/05/25)
想定以上のご好評と深読みをいただきました「あもーる あもれいら」第一部。 ちょうだいしたコメント・感想のなかから皆さんの理解、議論のサポートになりそうなものを順次、ご紹介いたします。
なお、この第一部には、第二部制作準備にあたって『イニシエーション』という副題をほどこしました。
忘れていたもの
第一部ということで、たくさんの登場人物がいましたが、彼らは彼らの生活ぶりを保育園にもってきてくれました。 それが保育園でぶつかり合っているのでしょう。 これは生きることそのものだと思います。 生きることは四方八方からやってくる他者とどう対話していくか、ということだと思っています。 まさに、あそこの子供一人ひとりがそうなのでしょう。 まわりにいるのは、シスター、大人たち、同じ年の子供、そして、カメラの「おじちゃん」。 保育園は家でなく「社会」であります。 そこにまだうまく対応できない子は、泣くしかありません。 それしかできないのですから。 子供はこれから「他者」と対話していく能力を身につけていくのだと思います。 見ている側として再発見することは、人間関係の構築です。 大人は「社会」の中で他者すら感知できなくなってきています。 これは人間関係以前の問題です。私もそうした大人たちの一人です。 この作品をみてそのように思ったのだから、少しは考え直してみたいものです。 忘れていたものを思い出させること。 これが私にとってドキュメンタリーというものなんだと思いました。
(横浜上映会参加、山本利彦さんのメールから) 再生林の観
(前略) 会場の設営や、プロジェクトの調整で少し時間がかかりましたが、 上映が始まる頃には会場は満員です。 今回の主催のくりくりさんの挨拶、岡村氏の早いテンポの楽しい お話のあと、いよいよ上映、懐かしいブラジルが、写しだされ、 小生の5人の子供達の保育園時代を思い出しました。
施設の開園初日、2日目の戦争のような保育園の様子が、克明に 画像に写しだされていました。 作品は、第一部、本日見た中身が、これからどのように発酵して いくのか、さー、条件は、そろいましたよ、 第2部が楽しみです。保育園のシスターに焦点が、合うのか、 一人の少年に会うのか、登場人物全員、一人一人が、主人公に なるべく、手を上げているという感じの第1部でありました。
第二部の構想をお聞きしたかったのですが、8時半には、店に 戻らなくてはならず。おそらく1~3分は、見逃してしまったかも 知れません。
今回の氏の第一部は、まるで、再生林の観がありました。 太陽にむかって、色々な種の植物が、生存競争をはじめます。
第2部では、森の様相が、3部では、大原生林アマゾン完成 みたいなものが、描かれてくるのでしょうか。楽しみです。 (後略)
(横浜上映会参加、ブラジルレストラン経営GAUSHOさんのmixi日記 http://mixi.jp/show_friend.pl?id=8384295 )
地球の反対側で
地球の反対側、ブラジルという混とんの中でこのような活動をしている日本人シスターの存在を、日本で生きている日本人の誰が想像し得るだろうか。 よしんば知ったとして、誰がそれを記録し伝えようとするだろうか。 そんなことを考えながら、これが強烈な現実であることに気づかされる。
(横浜上映会参加、西脇祐平さん)
魂の湖のほとりで
岡村淳「あもーる・あもれいら」 台湾前夜
ブラジル在住の記録映像作家・岡村淳監督による最新作『あもーる・あもれいら 第1部』が先日横浜で封を切られ、予想を裏切らない深々とした感動をあたえてくれました。監督ならびに上映会の企画者のみなさまに、まずは感謝。
さて、この作品で岡村さんのまなざしは、「日系」から「ブラジル」へ、「老い」から「幼年時代」へとおおきく転回していきます。長崎や奄美出身の日系人シスターが運営する、ブラジル田舎町の貧しい託児所の日々を追ったドキュメンタリーと、とりあえず言うことはできるでしょう。ですが、南米の褐色の少年少女らの「幼年時代」へとむけられる岡村さんの共感と共苦のまなざしは、見るものの魂の湖のなかに差し入れられた錘りのようにして、貧困や暴力といった映像の表層で語られる社会問題への関心からさらに深く、言語以前の記憶の底に淀むような「痛み」の感覚にまっすぐ届いてきます。作品のなかで、こんなシスターのことばがありました。たそがれどき、迎えにきた母と子の抱擁、それは「誰にも立ち入れない神々しい刹那」。しかしそれがあまりにも短く、もろく崩れそうな幸福のわずかな間でしかありないブラジル的現実の暗闇にぼくらが気づくとき、その痛みの感覚はいやましに増幅されます。その託児所には、夜更けまでバールではたらく母親につきあわされ、満足に睡眠をとることもできないちいさな女の子もいました。
そして・・・朝の送迎のひとときに、託児所の水色の門の前で泣き叫ぶ弟をやさしくなだめ、シスターに連れて行かれるそのうしろすがたをいつまでも心配そうに見守るひとりの少年の兄の表情、忘れられません。
監督によれば、かれはじぶんの弟に「メウ・フィーリョ」つまりわが息子よ、とささやくように呼びかけているそうです。なんというブラジル的な、家族のかたち・・・。かれだって、この社会の常識で言えば、まだこどもだと言ったっていい。まだまもられるべき存在だと言ったっていい。けれどもあまりにもはやく世間に対峙する「父」(あるいは母?)にならなければない宿命をたったひとりで背負い、早朝のあわい光りのなかで孤独に立ちつくすかれがふと見せるおさない当惑の表情、そのあまりにもナイーブさに、激しく魂をゆさぶられました。これとまったく同じナイーブな表情を、ぼくは別の岡村作品にみたことがあります。そう、『郷愁は夢のなかで』で、岡村さんにカメラをむけられて一瞬困惑するブラジル奥地の古老移民・西佐市さんの、まるで打ち震えるか弱き少年のようなあの表情です。
過去も現在も顧みること無くただひたすら前進してやまない社会の時間に抗するようにして、人は誰しも追憶のひめられた底いにつながる糸をいまここにおいて握り続けているはずです。それは、幼年時代のあいまいな面影、その傷つきやすい表情、まなざし、かくされた思い出のくぐもった声、ことばにならない感情のやわらかいひだ――でも魂の湖のほとりで記憶の糸を孤独に垂らし、そのかすかなふるえに感じ入ることのできる繊細な指使いをもつ人びとに対して、現代の国家の歴史と公式の暦は、そんなつまらないものはすぐにでも放棄してしまえ、とでも宣言するようにかれらの魂に土足でふみこみ、容赦なきコンクリート護岸工事を展開しているようにおもえてなりません。ぼくらは、たぶんおそろしい「健忘症」を強いられている。集団的なさまよいをいつのまにか強いられている。だからこそ、スクリーンに映し出された、南米ブラジルでみずからの声をもてない(もてなかった)かれら他者の生のある局面を目撃してしまうことで、こころの目に突き刺さったちいさなトゲを、ぼくらは決して手放してはならない。痛いからと言って、軽々しく、それを引き抜いたり、塗り隠したりしてはならない。そうしたちいさな記憶のためのぼくらの闘いは、はるか前方を行く岡村さんら先達の歩みを後ろから追いかけるように、それぞれの人生の時の道行きにおいてつづけられなければなりません・・・。
上映後、監督の岡村さんの口からさりげなく、「ぼくがみているのは、便利なことばがあるんだけど、サウダージ、かな・・・」ということばが出てくるのを聞いて、ぼくはふかくうなずきました。時間がかかるとおもいますが、これから岡村作品から届けられたメッセージにしっかりと応答していきたいと思います。
当日は、音響設備の設定が間にあわず、ノートパソコンの内臓スピーカーから監督みずからマイクで音をひろうというハプニングもありましたが、戦前・戦後ブラジル各地を旅しながら手づくりで野外上映会をひらいていた日系コロニアの「シネマ屋」を彷彿とさせる一幕でもあったし、ぼくに関していえば、音があまりきこえない分、かえって上に述べたような表情への集中が生まれました。映画に行ってもフィルムが切れて映像が中断するなんてことは、ブラジルやメキシコではあたりまえ。それに、すべてお膳立てされたシネコンの空調の利いた館内でふんぞりかえって映画を見にきたわけじゃないし。映像や音響の設定にそれほど詳しくないけれど、それでも上映会をやってみる、という動きに、岡村作品の旅の今後の希望があるような気すらします。ぼくの印象では、50名強の観客の集中と熱は最後まで途切れることはありませんでした。
まあそれでも、おおきいスクリーンと最高の上映環境でいつか「あもーる・あもれいら」を見てみたい、なんてね! 2部、3部もたのしみです!!
(横浜上映会参加、Takao Asanoさんのブログ「O Livro do Banam」 http://diary.jp.aol.com/vrgd3x/ 11月19日付)
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