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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳アーカイヴス  (最終更新日 : 2024/02/18)
『KOJO ある考古学者の死と生』を読む

『KOJO ある考古学者の死と生』を読む (2009/06/06) ブラジルからも移民からも離れた岡村の超プライベート大作『KOJO ある考古学者の死と生』。
この作品に寄せられたコメントをご紹介します。

西暦2009年5月、不思議な上映会を千葉・我孫子で開いていただきました。
主催してくれた大森薫さんからいただいたコメントは、作者をして作品を知るヒントに満ちています。
大森薫さんが岡村宛に寄せてくれた感想、およびミクシィ日記に発表されたコメントをまずはご紹介いたします。

大森薫さんからの『KOJO』感想

KOJOはとても面白く、ぐんぐん引き込まれました。
それは画面の向こうの世界というより、自分の今いる場所から地続きの世界のようでした。
この面白さはどこから来るのか、また、なぜこんなに身近に感じるのかと考えたのですが、それは各人の語りの魅力ではないかと思います。
特に話題となっている古城氏が語り手にとっても撮影者にとっても近しい存在だったことが、作品の磁場を作り上げていたように感じます。
大森さん、小川さん、丸井さん、岡村さんの間で話が尽きない、後から後から話が出てきて、それがどんどんつながって新たな語りを生み出すという、豊かさを感じました。
作品中では岡村さんはほとんど話さないのだけれども、実際には、たくさんの話が交わされたのではないか、それがまた、新たな話を引き出していったのではないかと思います。
そして、見る方(私)もその場に参加しているような気になってくるのです。
だから、古城氏のことを何も知らないにも関わらず、知っている人の話を聞いているような気持ちになったのだと思います。
ナレーションを省いたことによって、声が多重に響きあうポリフォニックな効果が生じていました。
また、岡村さんがいつになくインタビューイーに深く突っ込んでいたことも、作品を深め、面白いものにしていました。

この映画を観た後に中上健次の対談集を読んでいて、ああ、これだな!と思ったところがあります。
「ポリフォニー」のことを話しているのですが、物語を作る上で、父と子の殺意について書いているのだけれど、第三者を配して視線の複合(ポリフォニー)というか、見ること自体がもう一つのドラマをはらまざるを得ないという装置を考えた、と言うのです。
例えば、映画なり小説なりを「あれは面白かったよ」と直接言われるより、「あれは面白いんだって」と言われたほうが、共同性を帯びて、読んでみようかという気持ちになる、という風に言っています。
私が古城泰という存在に対して興味を掻きたてられ、知らない人じゃないように感じてしまうのも、そのような共同性の中に巻き込まれていったからでしょう。
さらに、岡村さんの映画を見れば見るほど、そこにつながりが生じて自分と切り離せなくなっていきます。
岡村さんの映画自体(撮ること・見せることを含めて)が共同性を作り出す装置だと実感します。

個人的に、作品の中で大森さんが大きな比重を占めていたのがよかったです。
ミクシの日記にも書きましたが、彼女が、住宅地を歩きながら、その住宅地とマンションに圧迫されていたという話をしたときは、自分も似たようなことを考えていたので他人事とは思えず背筋がぞくっとしました。
考古学に従事したいたけれど断念せざるを得ず、トラウマのようなものを抱えていた女友達、別のフィールドだけれどもやはり病気により研究者の道を断念せざるを得ず、自分には何も積み上げてきたものがないと落ち込む男友達(いずれも50代)が身近にいることもあり、また、自分自身がメジャーな道を外れて進むべき道を模索しているだけに、大森さんの話は他人事とは思えませんでした。
彼女が一種の欠陥を持っていることによって、彼女を通じて社会の有様が鮮明に浮かびあがっていたように感じます。
彼女が語るのは、彼女の知っている考古学の世界だったけれど、それは社会の縮図でもあり、自分の生きてきた・現在生きている世界に引き寄せて見ることができました。
そして、この社会の中でどう生きるかという問いがリアルなものとして迫ってきました。
そして、その答えも私なりに受け取らせてもらいました。
「どこにいても面白く生きられるんだ」ということを、古城氏の死を通して受け取ることができました。
 
また、岡村さんが「(古城氏は)異性として魅力がありましたか」と執拗に聞いていたのも興味を感じました。
それは、冗談だったのか、あるいは、男性として彼に魅力を感じるから異性にどう映るか知りたいということだったのか。。。
この点について丸井さんの答えがとても納得がいきました。
異性として魅力を感じていたら、こんなに長く一緒にやれなかっただろう、と。
男性社会の中で生きる女性の難しさをついている答えだと思いました。
野宿者支援の活動をする女性が、活動の中で活動家の男性に恋愛感情を抱くようになるととてもしんどいと言っているのも聞いたことがありますが、学校でも職場でも活動の場でも、一旦異性との間に男/女という視点ができちゃうと、そのことに支配されてしまうので一緒に何かをしていくのはとても難しいですね。
だから、古城氏も男/女を超えた魅力があったからこそ、あれだけ慕われたのだろうという気がしました。
そういう点でいうと、大森さんがある意味中性的(オヤジ的)なのも興味深かったです。
多分、そうじゃないと彼女の年代で、考古学のような世界でやっていけなかったんじゃないかな、と思ったので。
写真家のアニー・リボヴィッツを思い出しました。


大森薫さんのミクシィ日記から

土曜日に見た「KOJO~ある考古学者の死と生」(岡村淳監督)について書きたい。
幾通りもの見方を許す映画で、ここに書くのはそのほんの一部でしかない。

考古学者の古城泰は自死と思われる形で死んだ。
46歳だった。
岡村監督は日本・カンボジア・フィリピンを巡りながら生前の氏と親しかった人々に迫る。
古城泰の姿は一度も画面に映し出されず、作品の中心に無視できない空白が存在する故人を思わせる映像の不在が現実世界の彼の不在を反映し、反対に故人の存在を際立たせる。
存在しない、姿が見えないのに、圧倒的な存在感があり、なぜかどこかで会ったことがある人のような気がしてくる。

私は大森ゆりさんが住宅街を歩きながら古城氏の思い出を語る冒頭のシーンから作品に引き込まれた。
考古学研究の道を歩んでいた彼女は欝の発病により現場を離れた。
岡村さんは引きこもって生きる彼女にカメラを向ける。
彼女が、町の家並みと新たに建てられようとしていたマンションに圧迫されていたと語る言葉に驚いた。
私も似たような感覚を数日前に味わっていたから。
住宅街の持つ閉鎖性に気が塞ぎ、次々と建つ高層マンション群の生み出す差異に気が重くなっていたところだったから。
同じ名字を持つ女性の口から符号としか思えないような言葉が発せられたのを聞いて不思議な感覚に捕らわれた。

この作品は亡き古城泰の話であると同時に、遺された者たちの話でもある。
そして、映画を観ていくうちに、故人が遺された者たちのなかに宿っているのを感じるようになる。
作品のなかには大森さん以外に、フィリピンで遺跡を発掘する小川さん、カンボジアで遺跡を発掘する丸井さんが登場するが、彼らの話から見えるのは考古学という狭い世界の中で、そのあり方に疑問を感じながら筋の通った仕事をしたいと思ってもがくそれぞれの思いだ。
図にない道を歩もうとする彼らにとって古城泰は一筋の光のような存在だったのだと想像がつく。
だからこそ、彼の死は、それから先どう歩んでいいか分からないと思ってしまうくらいの大きな喪失感をもたらしたのではないかと思う。
私自身が人生で大きな意味を持っていたものを失ったときのように。

しかし映画の中で浮かび上がるのは古城の死を通して古城が遺された者たちの血肉となっていく様子だ。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という言葉のリアリティを強く感じた。
この言葉はイエスの死を暗示するものでもあるけれど、実際に、人の影響はその人が死んだ時に初めて力を持つ、ということを古城の話を通してまざまざと感じた。
大森さんも小川さんも古城が死んだことによって初めて新たな道を見出したのではないかと思う。
そう考えると作品のタイトル「KOJO~ある考古学者の死と生」に納得がいく。
死があって初めて生があるのだ。
それは「古城泰」一人に限ったことではない。
誰の人生においても喪失=「死」が生をもたらすという力は働いているはずだ。



以下、日本での初公開直後にネット上で発表された、あるいは作者に寄せられたコメントを紹介します。

その話の内容は仏のランズマン監督の映画「ショアー」に通じるくらいの作品なのに、日本の映画批評家・メディア等が岡村さんのこの作品になぜ全然コメントをしないのか単純に疑問に思うということ、さらには文学者や哲学者、宗教者あるいは精神科医やカウンセラー等のいわゆる「自死」、「ケア」といったことに関心を持つと思われる人々が岡村さんのこの作品になぜそれほどコメントをしないのかも疑問に思うと伝えました(わたしが無知で、誰か著名人が批評をしてるかもしれないのですが、とりあえずインターネットで検索してもそれらしいものは見つからず・・・)もし彼・彼女らが「知らない」のだとしたら正直怠慢なのではないか、と。

私自身星野智幸さんのHPから岡村さんのことを知ったのですが、この「KOJO」のすごさを皆に伝えたいと正直思いました。

「KOJO」という作品はそもそも古城泰さんという考古学者の生き様、学問への向きあう姿勢を取り上げることであり、「自死」とか「ケア」ということをテーマにはしていないのですが、そのことそのものがすごいと思うのです。

その人の生き様などは無視し、ただ「自死」したということに焦点を向け、周囲の人間はその自死したことに罪悪感を抱き、さらにはその周囲の人間をどう「ケア」するか・・・etcということがともすれば「自死」したひとをめぐるドラマとしてわたしなどは想像しがちですが、そうなると、「自死」ということだけが浮かび上がり、その人そのもの、生きた魂がどこかへ消えてしまうといつも感じていました。

それなので「KOJO」をみて、こんなに優しく、面白く一人の人間の生き様を捉えうるという事実に感動したのでした。正直自死をしようとすまいと関係ない!というくらいの勢いで、周囲の古城さんを知る人々の語りを記録している、その事実そのものが友情とか愛情というものの具現化だと感じました(岡村さんは古城さんは臨死体験をしたくて失敗したんじゃないかと会場で話していたことを記憶してますが・・・)。

ただひとつだけ質問しようと思ってしそびれてしまったのは、古城さんを語る主な人々としてなぜあのお三方(丸井さん、小川さん、大森さん)、を岡村さんが選んだのかな?ということです。周囲の人々というとそれこそ肉親だとか、恋人だとか、そういう人を選ぶのではなくあの「考古学」を愛する3人だったということがとても印象的でした。
(在東京の女性より)


今回の作品は本当に普遍的な深いテーマが描かれていて
私には「ずどーん」と深く胸にせまるものがありました。
一冊の重厚な小説を読み終えたような「読後感」でした。
登場人物の個性もあいかわらず「奇跡的に絶妙」で
そのことがテーマだけでなく作品のレベルまでも
ものすごく普遍化させていて、「見せる」という意味でも
岡村さんのすごさをあらためて認識しました。
カメラがその「実存」をかけ「三人」の方に向き合っているのが
ひしひしと伝わり、特に「大森さん」と向き合うカメラには
「殺気」さえ感じました。
だからこそ、観た者はそれぞれの「kojo」を「思い出し」「語り合い」
今の自分の「生」や「実存」をみつめることができたと思います。
そして自らの「生」を励ましたはず。
「死は生の対極にあるのではなく生の中にある」
という言葉をあらためて思い出しました。
(テレビ局勤務の男性より)


「KOJO」は実に不思議な作品でした。
死から見いだされる生。
見ている間に、生きるための力がじわじわと湧いてくるようでした。
自死した人のドキュメンタリーで
こんなにも生を肯定され、励まされるとは!
(元大学職員の女性より)


  岡村淳さん『KOJO ある考古学者の死と生』の上映会に来てくださった皆様、ありがとうございました。一般に向けての初上映会でしたが、盛況のうちに終えることができました。コメントを書いてくれる方もいつになく多く、内容もとても熱い文章が多くて、スタッフとしても満足しています。
  私も初めて見たこの新作、古城泰さんがいないということが不思議に思えるほどでした。亡くなった古城さんの記憶が語られているのに、まるで生きている方について語っているよう。しかも、それを語る3人がそれぞれ「自分らしく」生きていらっしゃる方たちなので、見ている者には、岡村さんを含め5人の生が強く印象づけられます。共通しているのは、どの人も自分自身の感じる違和感をごまかさず、直視しようとする姿勢で、私はそれに強く励まされました。岡村さんは古城さんの背中を見て学んできた、とおっしゃっていましたが、古城さんを知るにつけ、私には岡村さんとも重なって見えます。
  畢竟の大作『アマゾンの読経』もそうでしたが、亡くなった方を、まわりで関わった方々の記憶を通して描くということをするとき、岡村さんは、たんに故人の生涯を再構成し直す、ということはしません。そのようなわかりやすさが切り捨ててしまう、当事者の大切な細部を、できる限り掬いあげていこうとします。そのために、故人について語る証言者の生きざまそのものも描くことになるのです。そうやって、まわりの人々との関係を含めて描くことで、故人の生をよみがえらせてくれます。亡くなった古城さんの生は、それぞれの人の生のなかで再生されていることが、深く伝わってくる作品です。
(星野智幸さん「言ってしまえばよかったのに日記」2006年6月10日付より)

 早稲田大学で行われた上映会で、岡村監督の新作『KOJO』を見る。岡村監督もブラジルから来日されていて、お元気そうで何よりでした。
 古城泰というある考古学者が、2000年5月に自死した。生前の彼を知る3人を追いかけ、岡村監督のカメラは、日本、フィリピン、カンボジアを駆ける。
 今作品は、今までの作品とは違い、岡村監督のプライベート作品という感が強い。他の作品では、岡村監督は対象への好奇心に充ち満ちて、相手に問いかけ、相手がその問を自分の中で咀嚼して己の中からにじみ出してくる言葉をじっと待つけれども、今回は、質問も少なく、カメラのこっち側で一緒に故人への想いを共有している監督が感じられる。しかしインタビューの対象者が必ずしもしみじみしているわけではなく、割とあっけらかんとして古城氏との関わり、彼に連なる今の自分の仕事の話を三人三様に語り続ける。『KOJO』は、亡き古城氏の人となりを描き出す、というよりも、古城氏がどのように人に影響を与え、古城氏が死してなお、彼の薫陶を得た人たちの中に生き続けているということを強く感じる作品になっている。
 昨年自死した知人のこと、彼と関わった周囲の人々に思いを馳せながら見ることになった。昨年病を得て亡くなった知人とそのご家族のことも、苦しく思い出される。
 亡くなった方の周囲の方たちの中に、いろんな形で死者が生き続けている、そのことに救われる思いの人は多いだろうと思う。
 死者が生者の中に生きている、死者を想うことで生を考えさせられる作品だった。
(「けろののほほん日記」2006年6月10日付より)


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