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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳アーカイヴス  (最終更新日 : 2024/02/18)
橋本梧郎先生と私 [画像を表示]

橋本梧郎先生と私 (2016/10/26)
橋本梧郎080731.jpg
楮佐古晶章さん撮影

今年2月、神奈川県立荏田高校の嘉登隆先生担当の現代文の授業に招いていただきました。
夏目漱石の『こころ』にちなんで…
生涯をブラジルの植物研究にささげた孤高の植物学者・橋本梧郎先生と、先生の晩年にお付き合いしながら記録映像をこころみた私の関係を「橋本梧郎先生と私」と題しました。
高校2年生の2クラスと拙作『花を求めて60年 ブラジルに渡った植物学者』の観賞のあと、講義と質疑応答を行ない、嘉登先生の用意したシートに記入してもらいました。
シートのなかに「橋本先生について岡村さんに聞いてみたいこと。」という設定があり、多くの生徒さんたちから質問をいただきました。
質問と岡村からの返答を皆さんと共有したく、このページを設けました。
設定の範疇を超える質問も少なくないのですが。

その1(2年5組生徒)
Q:ブラジルで橋本先生が今までで一番感動、感心した植物はなにか。
なぜか。
岡:拙作『ギアナ高地の伝言 橋本梧郎南米博物誌』のなかで、橋本先生の郷里の小学校6年生の女子生徒が同じ質問を訪日した先生にするというシーンがあります。
橋本先生の答えに、その子はべそをかいていたみたいですけど。

その2(2年5組生徒)
Q:後継者はいるのか。
A:いない、と言っていいと思います。
今後、直接には橋本先生を知らない後継者が出てくる可能性もないとは言えませんけどね。

その3(2年5組生徒)
Q1:植物研究以外の趣味は何だったのか。
A1:ふつうにいうような趣味、たとえば囲碁とかクラシック音楽鑑賞とか、そういうのはないといっていい人でした。
仕事と趣味が一体化していたともいえるかもしれません。
僕にもそういうところがありますけど。
Q2:好きな食べ物は何だったのか。
A2:お刺身が好きでしたね。
1980年代ぐらいまでは特に経済的に厳しく、粗食だったと聞いています。
Q3:人柄(性格とか)。
A3:拙作で察していただけるとおりかと。

その4(2年5組生徒)
Q:どうやって橋本先生と会ったのか。
A:僕はブラジルに移住して間もなく、日系社会で高名だった橋本先生の存在を知りました。
僕は自分では人見知りをしているつもりで、高名な人に会いに行くというのは苦手で、それ以上には至らないでいたのですが。
その後、サンパウロ発行の日本語雑誌の編集部にいた友人が紹介してくれて、先生を訪ねることになりました。

その5(2年5組生徒)
Q1:心(ママ)に出てくる先生と橋本先生は似ているところがありますか?
A1:いい質問ですね。
僕自身、じっくり考えたいといですが、とりあえず不十分な即答をしてみると…
ともに在野を貫いたこと、ある意味では自分中心、自分勝手なところといったところでしょうか。
Q2:橋本先生と出会って自分にどんな影響がありましたか?
A1:これもいい質問だと思います。
それだけに即答がむずかしいですが。自分は自分であればいい、という自信をもらったように思います。

その6(2年5組生徒)
Q:戦後日本に戻ってくる気はなかったか。
A:橋本先生は戦後、亡くなるまで何度か訪日しています。
うち、最後の2回は僕も訪日して日本でお付き合いをして、撮影もしています。

その7(2年5組生徒)
Q1:なんでそんな一つのことに夢中になれるのか。
A1:橋本先生の言葉を借りれば「好きだから」ということだそうです。
Q2:後継者はどーなったか。
A2:「その2」を参照くださいね。

その8(2年5組生徒)
Q:ブラジルのおすすめの場所。
A:うーん、これは相手の嗜好によりけりですねー。
僕自身はサンパウロ近郊の海岸山脈と呼ばれる森林地帯やアマゾンの森歩き、ファヴェーラと呼ばれるスラム観光あたりが好きですけど、一般的ではないかも。

その9(2年5組生徒)
Q1:後継ぎ問題。
A1:また出ましたね。「その2」をご覧ください。
Q2:日本の情報はどうやって知っていたのか。
A2:ブラジルのサンパウロでは、第2次大戦前から複数の日本語新聞が発行されていました。
これらは第2時大戦時に発行中止となりますが、戦争中も橋本先生はサンパウロの街にいてブラジルのポルトガル語の新聞が読めましたので、日本の戦況なども把握していました。
このあたりは拙作『南回帰行/橋本梧郎と水底の滝・第一部』のなかで先生自らが語っています。

その10(2年5組生徒)
この生徒さんは自分の質問に、岡村の講義を参考に自分で回答を書き込んでいます。
Q1:橋本先生の後けい者は?→ いない。
Q2:日本に帰りたいと思ったことは?→ 少し恋しく思うときがある。
Q3:言葉は?→ ラテン語のおうよう・なんとかなる。

その11(2年5組生徒)
Q:植物って何だったんですか。
A:あなたの「講師へのメッセージ」に「何を自分たちに伝えたかったのですか。」とありますが、自分で考えないと勉強になりませんね。

その12(2年5組生徒)
Q1:どれくらい植物を知っているか
A1:橋本先生なら、質問の意味がわからん、とおっしゃるでしょう。
僕も、答えようがない質問です。
Q2:どんな性格なのか
A2:僕の番組をご覧になりましたね? あなたはあれをご覧になって、橋本先生はどんな性格だと思いましたか?

その13(2年5組生徒)
Q1:好きではある植物学者をやめたいと思ったことはありますか。
A1:僕が接していた頃の橋本先生は、どこに所属しているわけでもありませんでした。
植物学者かどうかは自分が規定するものだという観点からすれば、やめたいと思われたことはないだろうと思います。
経済的には、かなり厳しい時が続いたようですが。
Q2:またもし思っていたらどうやって続けようという意思を持ちましたか。
A2:意志の強さは、ハンパじゃない人でしたね。

その14(2年5組生徒)
Q:橋本先生は植物以外に好きだった物はなにか。
A:フィールドワークそのものが好きだったかと思います。旅することそのものが。

その15(2年5組生徒)
Q:四六時中ずっと一緒にいてケンカとかなかったのかな~と。
A:面白い質問です。
ご覧いただいた番組の頃は、四六時中一緒、というのよりだいぶ遠かったです。
後の『橋本梧郎と水底の滝』シリーズの頃になると、だいぶ四六時中、に近くなりました。
相手は老体、病体、そして被写体ですから、僕もぐっと押さえましたよ。

その16(2年5組生徒)
Q1:橋本先生の最後はどんな感じだったのか?(最後まで植物に囲まれてたりするのか)
A1:橋本先生の最後は、サンパウロの病院でした。
最後に倒れて入院するまでは、ご覧いただいた拙作に出てくるのと同じ、サンパウロ市内とは思えない緑の多いお宅にお住まいでした。
Q2:ブラジルでの食事はどんなのなのか。
A2:橋本先生の、ということでしたら…
最後のお連れ合いの、ゆきさんは料理の上手な人でした。
清貧生活のなか、お金のあまりかからない食材で、おいしいブラジル日系家庭料理をつくっていました。

その17(2年5組生徒)
Q1:カメラの前でみせない先生
A1:僕が見せない、ということでしたら…
老人のひとりでの下着の着替えを延々と見せて、さらにその老人の死体を延々と見せたドキュメンタリー映画があります。
僕は頼まれても、そういう表現をする気はありません。
そうした基準でみせる、みせない、その前に撮る、撮らないを判断しています。
Q2:ブラジルに日本食は多いのか。
A2:興味があったら、パソコンで検索してみてください。

その18(2年5組生徒)
この生徒さんも質問に岡村の講義のなかから自分で答えを見つけています。
Q1:橋本先生の後継者は → いない
Q2:橋本先生は日本を恋しく思っていなかったのか → あまり
Q3:橋本先生のお気に入りの植物は → きのこ・ねん菌
最後の回答に関しては、僕がキノコや粘菌に興味があるということですね。
さすがの橋本先生も、キノコに関しては特殊なもの以外はさほど関心は寄せていなかったと思います。
粘菌は、昭和天皇への献上品をブラジルで探すということで独学でかなりがんばられたようです。
80年近く前の話ですけど。

その19(2年5組生徒)
Q1:花など植物を研究していて悩んだり、苦しんでいた時はあったか。
A1:橋本先生には、常に悩みや苦しみがあったと思います。
「人には言えん」と先生が漏らしたのを聞いています。
それは、「自分を生きる」ことの悩みであり、苦しみであり、よろこびと表裏をなすものかもしれません。

その20(2年5組生徒)
Q1:橋本先生はブラジルに渡って植物を研究していて弱音をこぼしたりしたことはありましたか?
A1:晩年の先生はお体の不調もあり、「どうせ死んじゃうんだ」みたいなことはよく漏らしていました。
Q2:岡村さん自身が橋本先生についていたときだけではなく、自主制作の中で弱音をこぼしたくなったことはありますか?
A2:しょっちゅうですよ。
今日も冬のサンパウロで毛布に包まりながらビデオの編集作業をしていて、消してはいけない作業中のデータをいくつも消してしまい…
やり直しのデータ入力中に、この回答をしているのであります。
ああ、なさけなや。

その21(2年5組生徒)
Q:橋本先生に始めて(ママ)会った時のいんしょう
A:いい加減にはお付き合いできないな、という気迫を感じたかと。

その22(2年5組生徒)
Q1:橋本先生は植物について話す時はいつもたのしそうでしたか?
A1:あからさまに楽しそうな表情は見せない先生でしたが、その楽しそうなのは僕には察することができました。
Q2:ずっと同じ仕事をしていて一瞬でも植物をきらいになることはなかった?
A2:植物をきらいになることはなかった、と思います。
僕はかつて、ブラジル奥地で奉仕活動をする、長崎で被爆をしたカトリックのシスターにインタビューをしたことがあります。
「信仰が嫌になったことはありませんか?」と尋ねた時、そうした質問自体が実に意外だ、という応答をされました。
そのエピソードを思い出しましたよ。
(2016年8月1日回答)

その23(2年5組生徒)
Q1:ブラジルの大自然に行って、大変だったこと、苦労したこと、いちばん驚いたことは何ですか。
A1:フィールドワークでのことは、あまり大変とは思わない人だったと思います。
ご覧いただいた僕の番組の取材のあとに乗り込んできたNHKの取材班にいかにイヤな思いをさせられたかは、僕に漏らしていましたけど。
僕がご一緒したブラジルでの旅での先生の驚きは、サンパウロ州の内陸で奇跡的に残されていた樹齢2000年を超えるジェキチバ・ローザという樹の大木を目の当たりにした時でしょうか。
そうそう、ご覧いただいた拙作の最期がこのシーンでしたね。
(2016年8月1日回答)

その24(2年5組生徒)
この生徒さんも岡村の話から自分で回答を見つけていますが、書き出しておきましょう。
Q1 : 後継者はどうなったか? → 決まってない
Q2 : 橋本先生が残した物はどうなったか? → 放置
A2 : 橋本先生の標本館は管理人がいますが、公開しているわけではありません。
(2016年8月17日回答)

その25(2年5組生徒)
Q : 橋本先生のように自分の好きなことをして生きていくには今、やっておくべきことなどはありますか?
A : これは手ごたえのある質問ですね。
あなたはこういう質問をする力があるので、あなたに好きなことがあれば、あなた自身で答えが見つけられると思います。
たとえば映画が好き、料理が好き、バレーボールが好き、そしてそれで生きていこうというのであれば、それぞれやっておくべきことが違ってくるでしょうから。
(2016年8月17日回答)

その26(2年5組生徒)
Q1:北アメリカか、アフリカ、ヨーロッパの植物を調べてみたいと思ったことはないのか。
A1:橋本先生は地球上のあらゆる地域の植物に興味を持っていましたが、自分がカバーするのは南米だけでも大変だったようです。
先生の晩年の望みは、アフリカ、特にマダカスカルの踏査をしてみたいということでした。
Q1:ブラジルでの植物調査の中で危険だと思ったことはないのか。この種類この場所での調査がとても大変だったと思ったことはないのか。
A1:橋本先生から、危険を伴なった調査というのは聞いた覚えがありません。
橋本先生の全盛期は、ブラジルの治安もさほど悪くはなかったこともあるかと思います。
植物を同定するには、その植物の花を調べることが決め手となることが多く、アマゾンなどでは樹高が桁外れで、森が浸水してしまう時期もあるので大変だったようです。
(2016年9月8日回答)

その27(2年5組生徒)
Q:後継ぎは見つけられたのか
A:先生没して8年、いまだこれといった人はどうやら現われていないようです。
(2016年9月8日回答)

いよいよ2年8組に突入!

その28(2年8組生徒)
Q:どんなところに魅かれたのか
A:自分に誠実に生きているところ、でしょうか。
(2016年9月8日回答)

その29(2年8組生徒)
Q:橋本先生は晩年、床屋で逝去したと嘉登先生から聞きましたが、長い間、彼を撮っていた岡村さんはその時、どういう気持ちでしたか?
A:これは嘉登先生の勘違いか、あなたの聞き間違いでしょう。
橋本先生が散髪中に意識不明になったときには僕は立ち合っていますが、それから一年余りの寿命がありました。
(岡村への質問):どうやったらそんなに好奇心旺盛になれるんですか?
A:それは多分、皆さんと興味の分野が異なるからそう思われたのでしょう。
例えば僕はスポーツはまるで、リオオリンピックもほとんど興味ありませんし。
(2016年9月8日回答)

その30(2年8組生徒)
この人も、質問に岡村の話から回答を見つけています。
Q:どのような所に魅力を感じたか→好きな事に一直線なところ
A:さらに付け加えると、世俗的な権威にこびへつらわないところもすてきでしたね。
(2016年9月8日)

その31(2年8組生徒)
Q:橋本先生が知らない植物はあるのですか?
A:橋本先生流にいくと、植物を知る、知らないの概念規定を明確にしていただかないと…
学問用語でいう「記載」がされていない植物はまだいくらでもありますので、そもそも植物学上、人類に認知されていない植物はいくらでもあるのです。
(2016年9月11日回答)

その32(2年8組生徒)
Q:橋本先生のどこに魅力を感じたか
A:以前の方と同じ質問にも、少し別の回答を試みましょう。
そうですね…
自分らしく生きている、というところでしょうか。
自分への批判の回路もしっかり機能していたかと。
(2016年9月11日回答)

その33(2年8組生徒)
Q:橋本先生の好きだった植物は何ですか。
A:この質問を記憶のうえで、拙作『ギアナ高地の伝言 橋本梧郎南米博物誌』をご覧いただければ。
橋本先生に直接、答えてもらいましょう。
(2016年9月11日回答)

その34(2年8組生徒)
Q:どのくらいこれをやっているか。
A:すみません、どれのことでしょうか?
(2016年9月11日回答)

その35(2年8組生徒)
Q:橋本先生を密着取材しようと思った理由は何ですか。
A:密着取材かどうかは置いておくとして…、博物学の同好の大先輩、そしてブラジルの日本人移民の大先輩であるというのが理由だったと思います。
(2016年10月26日回答)

その36(2年8組生徒)
Q:なぜブラジルをえらんだ?
A:当時(1930年代)、軍国化する日本を嫌って、さらに未知の植物を求めて移住できる国としてブラジルを選んだと言っていいでしょう。
(2016年10月26日回答)

その37(2年8組生徒)
Q1:橋本先生のどのような所に魅力を感じて密着取材をしたのか。
A1:すでに何度か回答しましたが、それぞれの相違を楽しんでいただければ。一番の魅力は、反骨精神でしょうね。
Q2:橋本先生はなぜブラジルをえらんだのか。
A2:これはさすがに、すぐ上の「その36」をご参照くださいね。
(2016年10月26日回答)

その38(2年8組生徒)
Q:どこに橋本先生の魅力を感じたのか、ぜひ、聞きたいですね。
A:続きますねー、この質問。
上の「その37」をご覧ください。
(2016年10月26日回答)

その39(2年8組生徒)
Q:今までどのくらいの人をインタビューしたのか
A:インタビューということですと、テレビディレクター時代を含めて数百人ぐらいでしょうか。
作品ということでしたら、僕のウエブサイトの作品リストをご参照くださいね。
(2016年10月26日回答)

その40(2年8組生徒)
Q;ブラジルで撮影以外のところでなにをしているのか
A:質問は「橋本先生のついて岡村さんに聞いてみたいこと」ですが。
橋本先生についてですか?
それを一生懸命応えて無駄になっても行けませんので、もう一度、主語も含めて質問し直してくれますか?
(2016年10月26日回答)

その41(2年8組生徒)
Q:橋本先生にお会いした時の第一印象。
A:そうですね…、うる覚えですが、一筋縄ではいかないので慎重にお付き合いしなくては、という思いと、会うべき人に会えた、という思いでしょうか。
(2016年10月26日回答)

その42(2年8組生徒)
Q:橋本先生のどのような所にひかれたのか
→好きな事を好きなだけやっている所 人によって態度を変えていない
A:ご自身で回答を見つけて書いてくれていますが、ご名答です。
(2016年10月26日回答)

その43(2年8組生徒)
Q;橋本先生のどのような所にひかれたのか
A:上の「その42」のお友だちのご名答を参照してくださいね。
(2016年10月26日回答)

その44(2年8組生徒〉
Q:なぜ介護までするくらい橋本先生に付き添っていたのか。
A:それが、僕にできることだったからでしょう。
(2016年10月26日回答)

その45(2年8組生徒)
Q1:アマゾンの中で仕事していて、一番死にそうになった時はどんな時ですか?
A1:質問を、岡村に聞いてみたいことにしてもらった方がよかったかもしれませんね。
橋本先生は死にそうになるほどアマゾンに関わっていないと言っていいと思いますので、おそらく僕への質問なのでしょうね。
Q2:ブラジルに行かなければ、よかったと思った時はありますか?
A2:これも岡村への質問なのでしょうね。
橋本先生からは、そのようなことを漏らしたのを聞いたことはありません。
(2016年10月26日回答)

その46(2年8組生徒)
Q1:先生のどんなところに魅力を感じたのか。
A1:「その42」のお友だちの回答を参照してください。
Q2:実際に会って思ったことは何か。
A2:「その41」の回答を参照されたし。
(2016年10月26日回答)

その47(2年8組生徒)
Q:後継者はみつかったのか?
A:いま現在、見つかってないようです。
(2016年10月27日回答)

その48(2年8組生徒)
Q:今までで橋本先生みたいな人は他にいましたか。
A:どの点で、によりますが…戦争からの逃避、ダンディズムなどからいうと、この度、改訂版を完成させた『ブラジルの土に生きて』の主人公、石井延兼さんに同質のものを感じます。
(2016年10月27日回答)

その49(2年8組生徒)
Q:人をだますために作ったドキュメンタリー作っていて、どう思いますか?
A:自分が責任者ではない場合も「人をだますために」作った覚えはないのですが。
結果として、「だましている」と言われかねない作品づくりに関わってきたことの反省から、すべて自分が責任のある製作、そして自分の立ち会わない上映はしないという方針を貫いているつもりです。
(2016年10月27日回答)

その50(2年8組生徒)
Q:ブラジルにウサギはいるか。
A:いるかも、いるよ。
これも質問の設定を超えていますが、サービスして答えましょう。
ちょっと検索してもらえればわかることですが、ブラジルにもウサギはいます。
拙作『赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み』には、ブラジルの奥地の少年たちのウサギとの交流のシーンがありますよ。
(2016年10月27日回答)

その51(2年8組生徒)
Q1:なぜ図鑑をつくろうとしたのか。
A1:多くの博物学者の願いは、自分で図鑑をつくることかもしれません。
Q2:10年間密着してきて大変だったこと。
A2:密着とは違うつもりと繰り返しますが、晩年の橋本先生はどんどん気難しくなり、お付き合いをする僕自身が試される思いでした。
(2016年10月27日回答)

その52(2年8組生徒)
Q:なぜ橋本先生についていこうと思ったか
A:僕というドキュメンタリストの性(さが)がさせた、といったところでしょうか。
(2016年10月27日回答)

その53(2年8組生徒〉
Q1:橋本先生を知ったきっかけ
A1:「その4」あたりをご覧ください。
Q2:橋本先生と会った時 感じたこと
A2:「その41」あたりを見てくださいね。
(2016年10月27日回答)

その54(2年8組生徒)
Q1:橋本先生は植物以外でもなんでもかんでも好き勝手やっていたのか?
A1:節度と責任ある好き勝手をされていたと思います。
Q2:橋本先生と岡村さんの共通点は?
A2:群れるのを潔しとしない、といったところを挙げておきましょうか。
(2016年10月27日回答)

その55(2年8組生徒)
Q:どんな人なのか。
A:これまでの回答を読んでもらえますか。
(2016年10月27日回答)

その56(2年8組生徒)
Q:どうして橋本先生に密着してドキュメンタリーを録ろうと思ったのか。→ 好きな事をやっていて人によって態度をかえないところに惹かれた。
A:自分でいい回答を見つけましたね。
(2016年10月27日回答)

その57(2年8組生徒)
Q:橋本先生の志についてどう感じたか。
A:奇しくも、いい質問への回答がフィナーレとなりました。
橋本先生の志を、皆さんのような日本にいる未来を担う若い人たちに伝えたいと思ってこんな作業を続けてきました。
(2016年10月27日回答)

授業終了から全質問への回答まで8カ月もかかってしまいましたが、皆さんの在学中に終わらせることができました。
質問以外に皆さんが寄せてくれた言葉に、感謝しています。
今どきの日本では難しいのかもしれませんが、ひとりひとりの名前が僕にはわからないことなど、ちょっと残念でした。
皆さんからの直接のメールや、日本での僕の上映会への参加、歓迎しています。


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