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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳アーカイヴス  (最終更新日 : 2018/05/13)
『リオ フクシマ』を読む

『リオ フクシマ』を読む (2018/03/11) 撮影から6年、完成公開から5年。
黙殺、絶賛、そして賛否両論を呼んだ『リオ フクシマ』についてわが意を得たレビューを新たにいただきました。
岡村自身が理論化できていなかった部分をまさしく解題していただきました。
筆者のrokutarouさんのご快諾をいただき、リンクの紹介と共に転載をさせていただきます。

出典はウエブサイト『あしがら憲法フリークス』です。
https://ashigarakenpou.wordpress.com/2018/02/13/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E6%B7%B3%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%80%8E%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%95%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%80%8F%E3%82%92%E8%A6%B3%E3%81%9F/
この前後の稿にも拙作についての記載があります。

【岡村淳監督『リオ フクシマ』を観た】 2018年2月13日rokutarou

岡村淳監督のドキュメンタリー映画『リオ フクシマ』を観た。

陶酔は、核の闇を発(あば)き、平和を創る力にはなりえない。
大江健三郎は『ヒロシマ・ノート』で、岡村淳は『リオ フクシマ』でそのことを教えてくれよう。
川口隆行さん(広島大学准教授・原爆文学研究)
これは観る人によって驚くほど多様な受け取り方をされている映画であり、観る人の鏡と言えそうだ、とは岡村監督ご自身の言葉。

沢山の事を考えさせられる映画だった。一度でまとめられるかわからないけれども、記憶に新しいうちに、この映画を通じて考えさせられたことを記してみようと思う。

自分にとって、これは「伝えること」についての映画。そして、そこにどうしてもつきまとう「視点」は重要なキーワードだ。

ブラジル、リオデジャネイロで2012年6月、国連の環境サミットが開催され、そこに福島原発の被害を告発しようと、日本から様々なグループが参加した。岡村監督は、そのうちのひとつの環境団体のグループのサポート役として同行しながら、始終をカメラに収めた。

(以下、映画の内容に触れる部分があります。)

サミット中、色々な問題が発生する。まずは、広い会場内でのテント設営の場所探しから難航する。日本の諸団体で共同で行ったカンファレンス会場に見られるのは、関係者の日本人ばかり。自分たちのブースでも大勢の人にアピールをするよりは、結局、仲間同士、日本人同士で固まっていることが多い様に見える(そうではない人もいるが)。この人たちは、はるばるブラジルまで何をしに行ったのだろう、と思ってしまう・・・。

そんな中、有機農業を営む男性は、発表用に詳細な資料を準備されてきており、通行人の気を惹こうとハーモニカを吹いてみたり、精力的に現地の人たちと交流し、今後のために情報収集をしている様子が見られる。その男性のための記者会見が開かれるのだが、記者会見に英語通訳の用意がなかったため、気づくとせっかく来てくれた英語圏の記者達は、退席してしまっている。そして、もう顔なじみになりつつある日本からの人たちが続々と会場に集ってきて、それぞれが主張を始める。怒りの口調で、自分が被害を受けたと主張する人。また、自分を被害者の立場に置き換えて、自分の故郷が汚されることを想像してみてください、という人もいる。

すると、会場の空気が変わる出来事が起こる。ブラジルの反核連合の代表が、日本の人材派遣会社が汚染地帯でブラジル人の作業員を募集していると告発する新聞記事を紹介したためだ。日本人は、お金でおれたちの命を買おうとしているのか?!という論調である。

続いて、ブラジルのゴイアニアで起こった、被曝事故の犠牲者が現れ、自身の体験を語り始める。その人は、医療機関から持ち出された放射性物質をそうと知らずに触ってしまい、ひどい被曝をしてしまう。大切な思い出の写真等が放射性廃棄物として捨てられただけでなく、自分自身も長期間隔離され、解放された後も二次被曝を恐れる周囲の人達から忌避されるようになり、素性を隠して引っ越さざるを得なかったという辛い話だ。

この気の毒な男性は本来被害者であるのに、周りの人からみれば加害者となるかもしれないのだ(差別はいけないが、なるべく二次被曝を避けたいという気持ちは、批判できるものではない)。その事に、この男性自身、気付いていることがよくわかるだけに、どうしようもない割り切れなさを感じる。

また、福島で、原発被害にあった人は、この汚染地帯でのブラジル人作業員募集という現実が露わになった瞬間、完全なる被害者という顔をしにくくなったのではないか。この時、この被害者は日本の中で被害を受けた側である事とは関係なく、「日本人」の「代表」として、自国の罪を背負わされる事となる。

被害者と加害者の間に引かれる線は、一瞬にして、変わりうる。

感情的になることなく、自力で問題に誠実に取り組み、他者に正確に伝えようとする姿が印象的だった有機農業の男性は、「データが大切だ」と言った。

物事を見る時、必然的にその視点は自分の立つ位置をあらわす。また、多かれ少なかれ知らぬ間に持っているフィルターもかかっている事だろう。私達は完全にニュートラルな「神の目」を持つことは出来ないのだから。

だから、農業を営む男性が言った様に、「データが大切」なのだと思う。それは、それぞれの立場、主観からの干渉地点であり、それが交渉や説得の根拠や材料を提供し得るからだ。

人がみな、同じ立場から物を考えることは有り得ないし、その位置は絶対的なものではない。この複雑な社会、人間関係の中で、私たちは、100%の何者かには、なかなかなり得ないのだと思う(それは、人間にとって救いでもあるのだろう)。

核汚染をめぐってのサミット参加での、この混乱は、果たして彼らだけの問題だろうか。否。

私たち誰もが関係ある「伝える」という事について、重要な示唆があるように思う。

私も、自らの視点を絶対視せず、フィルターの存在を意識するということを心掛けたいと思う。それは、何かを発信する時、避け難く露呈する筈だ。

そして、その上で、曝け出すことを恐れないこと(伝えたい何かがあるのであれば)。

自分の見たい自分と、人に見えている自分とのギャップ。自分は、自分の見たいものだけを見ていないか。そこにはどの様なフィルターが介在しているか。自分は自分を騙していないか。

詳しいわけではないが、このはからずも映し出されるものこそ、ドキュメンタリー映画の面白さなのではないだろうか、などと思ったりした。そして、切り取り方やまとめ方は作者の視点やフィルターを露呈してしまう事を考えると(監督ご自身が、自分の歪みのある鏡という言葉を使われていた)、ドキュメンタリー映画を撮ることの、凄さ(並大抵ではない勇気や覚悟が必要だろう)に驚嘆する。

上に引用した、広島大学准教授の川口さんの言葉を思い返してみる。

”「平和」を創る力”とある。平和は対話を通じて創り出される、のだとすれば、まさに、この、自分の視点の相対性とフィルターの存在というものを、深く心に刻まなければならないのだろう。そのために私達が真っ先にすべきは、まさに「陶酔」から抜け出す事だろう。

そして「伝える」ということは、その延長線上にある、大変な努力を要するが、大きな価値のある試みなのだと思う。伝え方を考える事は、自らを相対化しようとする事だ。それは、対話を可能にし、平和を諦めないことにも繫がるだろう。

「伝える」こと、伝え方について、考えていきたいと思う。

今回はこの様な感想を持ったが、また観てみたい。今度は、この鏡は、どんな姿を映し出してくれるだろう。この懐の広さが、すごい映画だと思う。機会があったら、是非皆さん、ご覧になってください。

岡村監督、こんなに興味深い映画を、どうもありがとうございました。そして、こんなに素敵な上映会を企画して下さった流浪堂さん、ありがとうございました。リオ フクシマ2が完成したということで、観られる日を楽しみにしています。


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