『ばら ばら の ゆめ』を読む (2018/03/14)
西暦2013年に完成させた『ばら ばら の ゆめ』への珠玉のレビューをこの度、編集者の淺野卓夫さんからいただきました。 浅野さんのご快諾をいただき、以下に転載します。 なおタイトルは、とりあえずの岡村による仮題です。
【赦しのドキュメンタリー 淺野卓夫】 facebook 2018年2月19日 https://www.facebook.com/takao.asano.5 より。
昨晩、西荻窪のAPARECIDAでブラジルの記録映像作家、岡村淳さんのライブ上映会に参加し、ドキュメンタリー作品「ばら ばら の ゆめ」を鑑賞した。今も胸騒ぎがしている。ファースト・インプレッションを記しておきたい。
本作の主人公は、神奈川のブラジル人学校でボランティアで音楽を教える木村浩介さん、そして歌手になりたい夢を持つ10代の在日ブラジル人姉妹。ギターを弾く木村さんが彼女らのためにオリジナルの楽曲を作る。Duas Rosas、2本のバラ。この曲がとてもいい。「ばら ばら の ゆめ」は、この3人が海辺の音楽祭の出場に向けてレッスンを行う一夏の記録だ。
途中、木村さんがアマチュア音楽家として夢を託した姉妹の家族が、ブラジルへ帰国することが判明する。そして泣き出さんばかりに動揺を隠さない木村さんのナイーブな姿を、岡村さんのカメラは静かに見守り続ける。姉妹が10代の少女らしく前向きに夢や悩みを語るかたわらで、別れの感情を無防備と言えるぐらい純粋に受け止め、苦悶する木村さんの思いの深さに胸を打たれる。人はこんなにも、出会いの結末を悲しむことができるのか、と。
カメラは被写体となる人間に沈黙を強制し、戸惑う表情だけを興味本位で切り取ることもある。相手の魂を撃ち抜く武器にもなりうる。
しかし岡村さんのドキュメンタリーでは、向けられるカメラに促されるように、主人公が本当に大切なことをさりげなく語り出すシーンがよく見られる。我が身にカメラを向けられることを想像すればすぐにわかるが、普通は怖気づいたり舞い上がったりして、人はあのようには自然体で語れない。 だが岡村作品にあっては、傷を含めた内面の奥深くにしまい込まれた精神性が、語り手の飾らない表情と言葉を借りて陶然と語り出すことがある。薄明の室内で独白する木村さんの姿が、別の岡村作品「あもーる あもれいら 第二部」の主人公、ブラジル奥地で貧しい家庭の子供たちを支える宇田シスターが長崎での被爆体験を語り出す祈りの姿に重なった。
問いかけ追求するドキュメンタリーではなく、相手を受け入れ赦(ゆる)すドキュメンタリーというあり方が、岡村作品を他のいかなる表現にも比べられない特別なものにしている。
岡村さんのドキュメンタリーを衒学的に解釈するのは野暮だが、私はこの作品を観終わってサン=テグジュペリ『星の王子さま』を思わないわけにはいかなかった。ふるさとの星の一本の美しいバラと別れ、星々や地球をさまよう王子さま。旅の途中で、別れることの意味を少しずつ理解していく王子さまに、賢者の狐が語りかける。
「きみがバラのために費やした時間が、きみのバラをかけがえのないものにしているんだ」
『星の王子さま』の物語の悲しい結末も含めて、王子さまのさすらいと木村さんの生き様がどうしても二重写しになってしまう。木村さんが2本のバラのために費やしたささやかな音楽の時間が、さびしさを抱える少女たちの一夏の輝きをかけがえのないものにしている。2度と取り戻せない一期一会のこの出会いを、忘れないでほしい。何度でも思い出してほしい。『ばら ばら の ゆめ』という作品が、そう語っているように私は思った。
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