『ブラジルのハラボジ』を読む (2018/03/16)
21年前に撮影した素材を発掘して字幕を施して2017年に完成させた『ブラジルのハラボジ』。 まことに地味な作品ですが、岡村の想像以上の反響をいただき、記録映像作家冥利に尽きる思いです。 この作品に寄せられたレビューをご紹介します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『ブラジルのハラボジ』の日本国内2箇所での上映にご参加いただいた韓国語講師の石田美智代さんが、ご自身のブログ『韓国語ドラマとネコと、あと少し』にレビューを掲載されました。 http://k-dorama.tokyo/8005.htm 石田さんのご快諾をいただき、ブログのリンクを貼らせていただくとともに、以下に転載させていただきます。
【岡村淳監督ドキュメンタリー作品『ブラジルのハラボジ』 石田美智代】(2018年2月27日)
戦時中、朝鮮半島から⽇本、そしてブラジルに渡った「ハラボジ」をインタビューしたドキュメンタリーを⾒てきました。
ブラジル在住の映像記録作家 映像記録作家・岡村淳さんに初めてお会いしてから早、⼗数年がたちます。私が22年間すごした静岡に⽇系ブラジル⼈が多く住んでいた関係で、主にブラジルの⽇系移⺠をテーマに作品を作っている岡村監督とのご縁がありました。 岡村監督は作品をDVD販売はせず、かならず製作者⽴会いで上映会を⾏うので、時間と場所と上映作品が限定されます。 ぜひ、HPをチェックしてみてください。
22年前のインタビュー 今回⾒た作品はブラジルに移⺠した朝鮮⼈ハラボジが主⼈公。 岡村監督の質問に答えるハラボジの姿が53分、続きます。 1996年、ハラボジ89歳です。 はっきりしゃべるのも⼤変で、全編、字幕付きでした。 冒頭、ブラジルで⽇系⼈たちが集まる教会の礼拝の場⾯から始まります。 「ブラジルのハラボジ」は、⽇系⼈コミュニティーに住んでいる? しかもお名前は「三⽥さん」。どういうことなのでしょう。 「ハラボジ」が⽣まれたのは、1907年。 ⽇本が朝鮮を植⺠地にした1910年に3歳。 救世軍に出会って、教会に通うようになったといいます。 植⺠地下でのクリスチャンといえば、尹東柱(ユン・ドンジュ) 1917年⽣まれ、1945年福岡刑務所で獄死した詩⼈。 去年、カン・ハヌルが尹東柱を演じて映画にもなりました。 「ハラボジ」より10年若い。ハラボジのインタビューが⾏われた 1996年に、尹東柱が⽣きていれば80歳。うわぁぁ…。 さて、「ハラボジ」は、朝鮮から⽇本の⼤阪へ渡ります。 理由は、「貧しかったから」。 「ハラボジ」の家は稲作をしていて、⼦供は4⼈、「ハラボジ」が末っ⼦だったといいます。つまり、「⼝減らし」で家を出たのでしょうか。 ⼤阪に上陸したのが、「ハラボジ」16歳の時。1923年です。 もし東京に上陸していたら、関東⼤震災に遭っていたかもしれません。 ⼤阪で出会った牧師さんがブラジル布教に⾏くことになり、「ハラボジ」は牧師さんの活動を助けるために、⼀緒にブラジルへ渡ります。 ブラジルで⽇本⼈⼥性と結婚して養⼦となり、三⽥姓となりました。 ブラジル移⺠朝鮮⼈の先駆けである「ハラボジ」は、朝鮮戦争後に、中⽴国⾏きを希望してブラジルに来た捕虜たちや、朴正熙時代に急増した韓国からの移⺠に対して港まで迎えに⾏ったり、⾃宅に住まわせたり、ご⾃⾝も⾷べるのが精いっぱいの⽣活であったにも拘わらず、同胞⽀援を続けました。
朝鮮⼈であること 16歳まで過ごした直⺠地下の朝鮮では、⽇本⼈からいじめられたそうです。 思い出して、顔をゆがめ涙をこらえる「ハラボジ」に、⼼が痛みました。 その後の⼤阪でも、朝鮮⼈が仕事を探すのは難しく、⾖腐屋と⾵呂屋で働いたけれど、賃⾦は⽇本⼈よりはるかに安かったと。 ⽇本⼈は偉そうにしているから、戦争には負けると思ったとも語っていました。 それでも三⽥姓を名乗り、⽇系⼈コミュニティーで暮らしながら、朝鮮⼈同胞への⽀援を続けた「ハラボジ」。 朝鮮の地を離れたのは、貧しかったから、と答えていましたが、ハラボジの娘さんによると、「ハラボジ」の⽗親がキリスト教に反対してたそうです。 「ハラボジ」のアイデンティティは、朝鮮⼈であることと、クリスチャンであること。 しかし、植⺠地⽀配下の朝鮮で、朝鮮⼈として⽣きていくことはかなわず、⾃分の家族の下では、クリスチャンとして⽣きていくことがかなわなかった。 クリスチャンとして⽣きるためにブラジルに渡り、三⽥姓となり、朝鮮⼈として⽣きるために移⺠の⽀援を続けてきた。 朝鮮と⽇本とブラジルに引き裂かれてきた⼈⽣、「ハラボジ」の顔を⾒ているのが苦しくなりました。
⼦孫にリンゴを⾷べさせたい 岡村監督の「これから何をしたいですか」という問いに「ハラボジ」は、リンゴの⽊を栽培して、⼦孫にリンゴを⾷べさせたい、と答えます。 監督は、なんでリンゴ?という疑問から⾊々尋ねますが、「ハラボジ」の好物がリンゴというわけでもなく、キリスト教の信仰に対する⽐喩というわけでもなく。 ただ「⼦孫にリンゴを⾷べさせたい」。 作品の最後、「ハラボジ」はお⺟さんのことを尋ねられて、「⾃分は我慢して⼦供に⾷べ物をくれた」と話しながら、顔をくしゃくしゃにして涙を⾒せました。 ⾃分のためじゃなくて、⼦供に⾷べさせる。 なんらかの、継承・・・。 朝鮮と⽇本とブラジルに、引き裂かれてきたけれど、「ハラボジ」の⼈⽣では、朝鮮と⽇本とブラジルを、融合させたのだとも感じました。
執り成す⼈ 私はソウル留学から戻ってきた1988年に、祖⽗⺟の住む神⼾を訪ねました。 「ソウルで韓国語を勉強してきた」と祖⽗に報告したとき、祖⽗は「京城やろ?戦争のとき、京城におったんや」。 「京城で、何をしたの?」と聞けませんでした。 おじいちゃんの、戦争の加害者としての話を聞くことになるかもしれない、と思うと、祖⽗が亡くなるまで、怖くて聞けませんでした。 聞いておくべきだったと、後悔しています。 「ブラジルのハラボジ」を⾒た翌⽇の⽇曜⽇、実は私、半年前から教会に通っていまして、この⽇の説教が印象的でした。 イザヤ書51章12節 「多くの⼈の過ちを担い背いたもののために執り成しをしたのはこの⼈であった」 「執り成す」というのは、2者の間に⽴ち、相⼿に共感し、最後まであきらめず、新しい何かを創造すること、というお話でした。 聖書では、執り成す⼈=イエス・キリストです。 お話を聞きながら、⼈間社会⼀般的にも、執り成しというのはあって、私は「ハラボジ」を⾒た翌⽇だったので、岡村監督は、執り成す⼈なんだなあと思ったのでした。 インタビューの4年後、「ハラボジ」は亡くなりました。 ⼈⽣を引き裂く戦争が近づいている今の私たちに、岡村監督の執り成しで私たちに残された「ハラボジ」の遺⾔。重いです。
続いて、同じく横浜パラダイス会館でご覧いただいた気鋭の研究者・高際裕哉さんからいただいた感想文をご紹介します。
【 岡村淳、「ブラジルのハラボジ」感想文 高際裕哉】 2018年3月11日 facebook
横浜のArt Lab OVAにて、岡村淳監督の「ブラジルのハラボジ」を鑑賞してきた。この作品は大日本帝国統治下の朝鮮半島に生まれ、1920年代にブラジルに移住した三田ハラボジへのインタビューを、ハラボジにカメラを当てて、定点を動かさず撮影したものだ。
昔大学の授業で見た『裁かるるジャンヌ』のことを期せずして思い出した。延々とジャンヌ・ダルクの表情が映し出されるあのシーンだ。普段文字情報ばかりおっている私は、映像のもつ力を長いこと忘れていた。
定点から人を見つめるということには、特殊な集中力が必要だ。岡村監督の意図はおそらくそこにあったに違いない。驚異的な歴史を背負いながらも、その中を確かに生きてきたハラボジの身体、顔が一点から映し出される。歴史は私たちが現在までの来し方を理解するための抽象であるが、その下には人々の生があり、具体性がある。ハラボジの、あるいはある人の生の重みを私たちは感じることになる。
また、ハラボジの発する言葉に字幕はついているものの、字幕そのものと同じことを語っているとは限らず、懸命に口を動かすハラボジの発する声に耳を澄ませないといけない。そして、その言葉はときに脱線し、理解可能な枠組みから逃げていくこともある。おそらく声は常にその可能性をはらんでいる言葉は記号ではなく、この作品の場合音・声だ。
ハラボジの発する声は彼が生きてきた生を物語る。ときにとつとつと。例えば生まれた朝鮮半島の思い出では、生まれ育った家庭の貧しさと苦しさ、そこからの救いとなったキリスト教の存在が絡み合って語られる。そして征服者たる日本人官憲や入植者たちの横暴を聞かれると反射的に表情を崩し、嗚咽しながら受けた差別の苦しさを語る。ほんの束の間、日本人たちはどうだったかといいう問いが発された瞬間にだ。植民地主義が構造的に強いた差別とそれに便乗する特権者意識が残酷に朝鮮半島の人々に暴力をふるったという事実と、その記憶がかくも長く、屈辱の記憶として一人の人間に残り続けるということをあらためて思い知った。 もちろん加害と被害の記憶は見る側にとっても忘れがたいが、それでも人の生は続く。半島から大阪に渡ったハラボジは、銭湯で三助の仕事をしながら、朝早く、あるいは遅くにキリスト教会に通う。その教会のつてでブラジルへ渡り、懸命に農業や農産物の輸送をして働く。ブラジルの日系社会の中で日本人・朝鮮人として生きていくわけだが、ただ懸命に働き、家庭を築き、真面目に子育てや同胞のために働いた。映画ではわずかにしか触れられていなかったが朝鮮半島から亡命、あるいは移民をしてきた同胞のためにも駆けずり回ったという。そして、年を重ね、椅子に座りゆっくりとかたるハラボジの姿が私たちの目の前にある。人の生はかくも尊厳に満ちたものだということを私たちはこの映画を通じて感じることになる。歴史は私たちの生に重層的に影響を与える。しかしそれはおそらく通り抜ける風のようなものだ。映像に映るハラボジの夢は、リンゴ園を作ることだ。かつて彼の母親が食糧もなかったころ、自分の飢えを耐え忍び、ハラボジに食べ物を分け与えたことを語ると、ハラボジはまたも表情を崩し、嗚咽する。彼にとってリンゴとはキリスト教のモチーフのそれではなく、子孫が豊かに食うに困らぬように暮らせるための、まぎれもない、食べられるリンゴだ。
そのリンゴを観客の私も分け与えられた気分になった。どこにいようとも、働き、食べ物を得ることに一生懸命生き、それを人と分け与えることを学ぶということ。
朝鮮半島からの同胞の受け入れに尽力したハラボジの生の重みは私の中にずんと響いたままでいる。
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