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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳アーカイヴス  (最終更新日 : 2018/08/13)
『リオ フクシマ 2』を読む

『リオ フクシマ 2』を読む (2018/07/24) 撮影から6年、前作『リオ フクシマ』から5年。
西暦2018年4月、ようやく公開にこぎつけた最新作『リオ フクシマ 2』のレビューを紹介します。
(ただいま全6編)

1.『岡村淳さん新作「リオ フクシマ 2」レビュー』
星野智幸さん(小説家)

「星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記」2018年4月14日付より
http://hoshinot.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826539

 岡村淳さんの新作『リオ フクシマ2』を見てきた。前作『リオ フクシマ』の続きであるが、前作を見ていなくても構わない。

 岡村さんによる紹介文は次の通り。
「西暦2012年にリオデジャネイロで開かれた環境をテーマとした地球サミットに並行して、世界中の市民団体が集うピープルズサミットが開催された。
岡村は、日本から福島原発事故の問題を訴えるという団体のサポートをしながら撮影をすることになった。
賛否両論、絶賛と黙殺の錯綜した前作『リオ フクシマ』公開から4年。
福島原発事故とは、なんだったのか?
そのおさらいと同時に、世界各地の人々との福島をめぐる熱いメッセージと議論の応酬をご紹介します。」

 岡村さんの集大成だと感じた。岡村さんがこれまで作品で追求してきたテーマが一覧の形になって顔を覗かせている。土地なし農民運動はやはり石丸さんを思い出すし、植物については橋本梧郎先生、ダムについてもこれから完結編が作られるだろう橋本梧郎と水底の滝シリーズ、環境問題についてはアマゾンの水俣病や、作中でも触れられるがユーカリによる砂漠化とそれを分析したインドの物理学者ヴァンダナ・シヴァさんの本を岡村さんが読み込んだ経験、カンデラリア教会前の児童たち虐殺事件の痕跡は『あもーる あもれいら』で描いた子どもの貧困問題、そして高校生とのやりとりは私の大好きな佳作『きみらのゆめに』のような未来そのものの感触。何よりも、コメントを求めたときのブラジルの人々の言葉の生きている感じ。自分で話している、自分の言葉で語っているという感触が濃厚にあふれてくる。

 私が印象的だった人物は、やはり高校生たち。『きみらのゆめに』でも印象的だったけれど、言葉が素直に出てくる。素朴とか正直というわけでなく、相手に下手なことを言ったらどうしようという緊張から解放されていて、自然に自分の言葉が出てきやすくなっている。この感じは、忖度社会の日本社会で生きる人たちには、なかなか体現できないだろうと思う。岡村さんが、ご自身の身に合ったスタイルを打ち立てて続けていることにも、この環境が力をくれた部分も大きいのだろうなと、今日、「優れたドキュメンタリーを見る会」の飯田さんへの言葉をお聞きしながら、感じた。自分が生きていることを肯定するのにためらわないというか。

 それから、福島へのメッセージを即興で歌い上げた、ブラジル東北部から来たという吟遊詩人。東北部の文化は私にはよくわからないが、セルタネージャとかの世界かな? ヒップホップは現代の吟遊詩人なのか、などと考えたりもした。

 そして、インドの科学者ヴァンダナ・シヴァさん。エネルギーがほとばしるような語りだった。

 本作の主役と言ってよい、NPOの代表である坂田さんを、岡村さんは最後にリオ近郊の森林公園にお連れする。森に入ったとたん、坂田さんの様子が一変する。魂に火が灯るかのような命の輝きを、放ち始める。あたりの草や葉を見聞する姿は、橋本先生かと見まごうほど。このシーンを用意してカメラに収めてしまう岡村さんの霊力に、何百回目かだけど、また仰天してしまった。この坂田さんの魅力が、さかのぼって坂田さんの言葉すべてを生きたものに戻した。ブラジルの人たちの言葉に拮抗する命を持った言葉なのだったと知ることになる。植物好きの私としては、あのシーンから受けた大きな感銘の正体とは、私自身の循環と再生にほかならないのだなと思った。

 岡村さんの撮影はいつでも、その場で一番力の弱いもの、下に置かれてしまうもの、に反応する。カメラはそれを見逃さずに収めてしまう。ひょっとしたら撮影している岡村さんでさえ、あとで見直して気づくようなこともあるかもしれない。

 この作品でも、人が行き交うピープルズサミットの会場で、岡村さんのカメラは細かくそれに反応し続ける。時には岡村さんご自身が、下に置かれた存在になることもある。

 なので、どんなに立派なことを語っていようが、岡村作品で偶像化される人は誰もいない。その言葉を語る高潔さと、時にはどうしようもない人になってしまう短所とが、常に相対化されながら、断罪されることなく描き出される。それが、語られるコメントを、血の通ったものにしているのだろう。

 これを見てしまった私は、ふらふらと国会前のデモに出向いた。そういう気持ちにさせる作品なのだ。のみならず、私はその参加者の一員でありながら、岡村さんのカメラにでもなったかのようなつもりで、そこに来ている人、デモの参加者もそのアンチの集会をしている人も、警備の警官も、ある等距離を持ちながら見続けていた。

『リオ フクシマ2』は、東京では5月3日に新小岩でのメイシネマ映画祭でも上映されるので、お見逃しなく。

 なお、岡村作品をほぼ初めて映画館で上映した(少なくとも私が岡村作品の映画館上映を見たのはここが初めて)、毎年この時期恒例の優れたドキュメンタリーを見る会による下高井戸シネマでの上映会は、今年で最後となるとのこと。残念だけれど、この約10年、これが私の大きな楽しみだった(また来年以降も場所を変えての可能性は続くとのことです)。最初に映画館での上映が決まった時の岡村さんの喜びようも印象的で、やはり映画少年だった人にはあの暗闇とスクリーンは何にもかえがたい愉楽をもたらす。毎年、岡村作品がここで見られて幸福でした。主催者の飯田さん、ありがとうございました。



2.『リオ フクシマ 2』観る
山崎邦紀さん(映画監督)

山崎邦紀さんのfacebook 2018年4月15日付より

早起きして、下高井戸シネマで『リオ フクシマ2』観る。2012年にリオデジャネイロで開かれた国連の環境会議に参加した日本の反原発グループの活動ぶりを、ブラジル在住の岡村淳監督がドキュメントした。
すでに同年に前編が公開され、だいぶ年月をおいて今回、続編のワールドプレミアとなった。わたしは前編を観てないので、岡村監督自身が「返り血を浴びた」「不都合な真実が映っていたようだ」と挨拶で語った事情については知らない。日本からのグループ間に齟齬があったようだが、前編をぜひ観てみたいものだと思わせる続編だった。
主人公は、反原発&生物の多様性をアピールするグループの女性リーダー。その主張に、わたしも何の異議もない。しかし、冒頭から煙草をすぱすぱ吸いながら環境問題を論じられると、微かな違和感が兆してくる。まあ、煙草の起源はアメリカ・インディアンという俗説もあるので、別に矛盾はないのだろう。わたしが個人的に煙草が嫌いなだけ。
しかし、次第にわたしの運動家嫌いの体質がちくちく刺激される。これまた個人的な偏見なのだが、以下のような根拠による。
・テーゼがアプリオリにあって、結論を自明のことのように押し付ける。
・他人に対して利用主義的になりがち。
・自分がボランティアなので、他人もボランティアが当然だと考え、対価を払わない。
・主張を展開するための技術的裏付けに対する関心が薄い。この映画でいうなら、せっかくの本番でスピーカーが使えない。
だからといって、この女性リーダーが嫌いなわけではなく、最後にリオの都心にある大規模な自然公園を歩きながら植物を観察し、日本と比較しながら語る姿には和んだ。一人の人間の多様な側面を丸ごと撮るのが岡村監督の流儀なのだろう。
むしろ彼女・彼らの主張に対するブラジルの人たちのリアクションが楽しい。わたしが日本人なので、日本人に対して辛くなってしまうのだろうかとも考えたが、個人的な意見の表明が底抜けに明るく感じられる。
新しい発見だったのは、岡村監督も著書を読み、尊敬していると語るインドの哲学者、ヴァンダナ・シヴァさん(女性)の力強い発言。ハプニングのようにインタビューが成立したようだが、科学者としてスタートしたというシヴァさんの語る言葉、表情、仕草に感銘を受けた。
検索したら、2012年(この映画が撮影され、公開された年)に、福岡アジア文化賞の大賞をうけている。ここでは「環境哲学者」となっているが、「エコロジーとフェミニズムを結び付けるエコ・フェミニズム」「アース・デモクラシー(大地の民主主義)」などがキーワードのようだ。

http://fukuoka-prize.org/laureate/prize/gra/vshiva.php


3.『リオ フクシマ2』、国会議事堂前大規模デモ、シリア空爆、感情
rokutarouさん

あしがら憲法フリークス 2018年4月14日付より
https://ashigarakenpou.wordpress.com/2018/04/14/

岡村淳監督によるドキュメンタリー映画『リオ フクシマ』の続編『リオ フクシマ2』が公開されました。
2012年、ブラジルのリオデジャネイロで、国連開発環境会議(「持続可能な開発会議 リオ+20」)が開かれました。日本からも福島県の原発事故の被害を訴えるいくつかのグループが参戦するのですが、そのうちのひとつを手伝うことになった岡村監督が、開催期間中の様子を記録に収め、編集し、生まれたのがこの二作です。いささか乱暴にまとめてしまうと、『リオ フクシマ』は「なにやってるねん」とつっこみたくなる作品、そして本作『リオ フクシマ2』は、溜飲が下がるというか、良かったね、と少しほっとできる作品と言えると思います。
まだ公開されたばかり(本日が、最初の公開日!)なので、内容を詳しく書くのは控えたいと思います。
本日4月14日は、森友学園の文書改ざんや加計学園の問題、そして自衛隊日報隠蔽などをうけて、2015年以来の大規模な国会議事堂前のデモが行われた日でした。奇しくも、本作では、ブラジルの人たちのデモの様子や、ブラジルの人が日本の原発問題について発言するシーンが多く、非常に考えさせられました。
前作『リオ フクシマ』を観たとき、自分が被害者の立場にあるとき、あるいは何か訴えたい事があるときに、それをどう表現するかということについて、色々と考えさせられました(岡村淳監督『リオ フクシマ』を観た)。そして、その後も「怒り」について、ずっと考え続けていました。
日本では、怒りを含め、感情をそのまま表す事はあまり良しとされていません。最近はさすがに建前上は変わってきましたが、やはり、喜怒哀楽を素直に出す事が、日本人は下手だと感じます。なかでも特に、ネガティブで強い、「怒り」の感情は、恐れられ嫌われます。
先日、森友加計問題をめぐって新宿で行われたデモで、ある女性市議が「みなさん、怒っていいんです」と強く訴えかけていました。確かにそうなのですが、そこで自分が思ったのは、今私たちが抱えている問題は、怒るのを我慢しているというよりは、怒る力を失っていることなのではないか、ということです。
実は「怒り」は、強い原動力になり得る力なのだと思います。感情のコントロールは、大人として身につけるべき技術かもしれません。が、「怒り」という感情を無いものとして、目を背けるのは、やはり不自然に感じます(最近流行のポジティブブームには、この不自然さを感じてしまいます)。最近は「もやっとする」という表現をよく目にしますが、私たちは、生々しいものから目をそらし続けることで、感情を劣化させてきてしまってはいないでしょうか。「怒り」を無いものとするのではなく、それを表すべき時と術(表し方)を学ぶ、そして、「怒り」の力を使って、何をするか、ということが大切なのではないか。
『リオ フクシマ2』では、正々堂々と、自分たちの権利や主張をデモで叫んだり、詩にしてうたうブラジルの人たちが出てきます。私はその姿に、美しさを見ました。「自分のために」「正等に」主張することの、清清しさや勇気は、成熟したあるべき大人の姿だと思いました。そして、多くの人の言葉は、シンプルで、とても力強く、的を射ているものでした。
私たちは、まず、自分のために、自分の事を言えないといけない(この事が日本人は苦手だという事は、また出来れば日を改めて書きたいと思います)。自分が欲するところの責任は、自分が引き受け、表すこと。「察して」「配慮して」の姿勢、それができる事を良しとする考え方は、今大きな問題となっている「忖度」を生む土壌も作ってしまっているのかもしれません。
が、しかし、今日の国会議事堂前の大規模なデモでは、警察によるバリケードが破られて、人々が道に溢れ出る場面がありました。私たちは、まだ、怒ることができる。
そして、対話とは、もしかすると生々しいものかもしれなくて、私たちは、それを覚えていかないといけないのかもしれません。
一方、作品中で、カンデラリア教会というところが出てきます。そこで、1993年、警察を含むグループに、8人のストリートチルドレンが虐殺されるという事件が起こったそうです。岡村監督は、そこの現場に横たわり、亡くなった子ども達に想いを馳せます。そして、教会内の教壇が映し出されます。
大人に守られたことがなく、自分で生き抜こうとして、生涯を終えた子ども達は、どんな思いで教会の教壇を見たのだろう(教壇を見たことがあったのであれば)。
今日は、シリアでの、米による爆撃が開始された日でもありました。毒ガスと空爆で、子ども達が殺されたり苦しんだりしています。
どの問題であれ、向き合うことは大人の当然の役目であり、それは、時に表面上の平和より優先させないといけないこともある、また、子どもを大人の無責任や間違いの犠牲にすることは許されない、ということを強く感じた一日でした。
本作品を観て、沢山のことを考えさせられました。また、おいおい書こうと思います。
是非、みなさんにお勧めしたい作品です。
岡村監督、そして「優れたドキュメンタリーを観る会」主催の飯田さん、有り難うございました。20年続いたこの会は今回で最後とのこと、一度だけでも参加できて良かったです。



4.『リオ フクシマ 2』と山尾三省の詩
淺野卓夫さん(編集者)

「ASANOT BLOG/淺野卓夫の日誌」2018年4月22日付より
http://asanotakao.hatenablog.com/entry/2018/04/22/082417

 ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』の上映会に参加した。期待をはるかに上回る、素晴らしい作品だった。そして予想に反して、鑑賞後にこれほど静かな気持ちになれる作品だと思わなかった。
 映像作品から受け取ったメッセージを感動とともに反芻しながら、たまたま詩人・山尾三省の本を読んでいると、自分の中で岡村さんのドキュメンタリーと強く響き合うものがあった。そこで考えたことを記しておきたい。

 詩を読むとき、私はたいがい「私」という仮面をかぶっている。自分の肉眼では見ることのできないその顔には何と書いてあるのだろう。「批評」だろうか、「思想」だろうか。「歴史」だろうか、「社会」だろうか。顔は、なんとかその意味を理解してやろうと身構えているにちがいない。
 ところが、山尾三省の詩を読むとき、私は「私」を脱ぎ捨てることができる。意味に意味を上塗りするような、解釈の言葉を脱ぎ捨てる。「私」を脱ぎ捨て身軽になって『聖老人』や『びろう葉帽子の下で』といった詩人の書物を訪ねれば、いつもそこに変わらぬ三省の詩という火が焚かれていて、心の底から安心する。

「いろりを焚く」

家の中にいろりがあると  
いつのまにか いろりが家の中心になる  
いろりの火が燃えていると  
いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり  
自然の暖かさが広がる

 屋久島の森のそばで生きて、死んだ詩人が遺したことばだ。山尾三省は、環境問題やアニミズムの思想家でもある。
 三省の詩はほかならぬ三省の詩でありながら、どの作品にも「無私の暖かさ」が広がっている。詩人の「私」ではない、何か大いなるものが、詩人の「私」を通じてうたっている。
 詩のことばを読み、「無私の暖かさ」に心の手をかざしながら、疲弊した言葉の意味がやわらかく回復するのを静かに待つ。家、いろり、いつのまにか、自然。人類が当たり前のように使ってきた言葉に、当たり前のように込められてきたはじまりの意味がふたたび宿るのを、私はひとつひとつ確かめる。

 先週末(2018年4月14日)、下高井戸シネマで在ブラジルの記録映像作家、岡村淳さんの最新作『リオ フクシマ 2』を観た。岡村さんのドキュメンタリー作品を鑑賞している間、私は山尾三省の詩に抱くのとまったく同じ「無私の暖かさ」を感じつづけていた。
 2012年、リオデジャネイロで開催された国連の環境会議と並行して、世界中の市民団体が集会やデモを行うピープルズサミットが開催された。主人公は日本から参加したNPOの代表、坂田昌子さん。岡村さんは、ピープルズサミットの会場で福島原発事故や生物多様性の問題を訴える彼女たちの団体を追いかけ、撮影を続ける。
 会場の屋外スペースに張られたテントの中で、持続可能な環境について、公正な社会について熱心に語り合う真摯な人びとの姿がそこにある。しかし私が忘れられないのは、岡村さんがこのサミットの渦中から一歩身を引く印象的な場面だ。
 さまざまな主義主張を訴える市民団体による大規模なデモ行進がリオの路上で繰り広げられるかたわらで、岡村さんは「カンデラリア教会虐殺事件」の現場をたった一人で訪れる。
 路上で生活していたストリートチルドレン8名が、貧困層への差別と治安悪化を理由に銃殺された事件。発生から20年以上経ち、いまやほとんど誰も見向きもしない子どもたちが斃れた現場に、カメラを構える岡村さんは追悼の思いを込めて寝そべる。
 「声」を記録する。と同時に「声の圏外」にある沈黙にも反応し、それを記録せずにはいられない岡村ドキュメンタリーの変わらぬ意志に打ちのめされた。
 そして『リオ フクシマ 2』を観終わって、この作品はある意味で岡村さんの自伝ではないか、と私は感じた。
 主人公たちの他に、通りすがりのブラジル人の学生たち、カカオを売る土地なし農民運動のリーダー、リテラトゥーラ・コルデル(紐吊りの文学)という冊子を売る地方の吟遊詩人、国際的に活動するジャーナリスト、弁護士、科学者などが、東日本大震災以降を生きる私たちに向けて、飾らないことばでメッセージを送る。
 そして、あの虐殺されたストリートチルドレンたちの沈黙。
 この作品に登場し、さまざまな考えや思いを語る人たちの声が、カメラの後ろで自己を語ることを禁欲し、「無私」に徹してひたすら記録を続ける一人の映像作家の顔を、逆説的に描き出している。
 岡村ドキュメンタリーのファンであれば、MST・土地なし農民運動やブラジル奥地の貧しい子どもたち、日本人移民の植物学者の旅を記録した過去の作品を連想し、『リオ フクシマ 2』に、岡村さんのこれまでの歩みや世界観が見事に凝縮されているとも感じるだろう。
 小説家の星野智幸さんが、ご自身のブログでこの点をいち早く指摘している。

『リオ フクシマ 2』では、岡村さんはピープルズサミット終了後、坂田さん一行を国立公園の森へと案内する。美しいラストシーンだ。緑したたる木々に囲まれたのぼり坂を、岡村さんはカメラを構えて後ろ向きに歩きながら、道端の緑に触れ、滝の水場で遊ぶ坂田さんたちの姿を記録する。
 坂田さんは道中であいかわらず国内外での運動について語り、環境問題を語るのだが、主義主張の殻が破れて言葉がどんどんやわらかくなり、生き生きとしたものに生まれ変わる様に息を飲んだ。
 福島原発事故とその被害について思うところを語り続けながら、彼女は最後に「辛いんです」と漏らしていた。
 時と場合によっては「偽善」とも聞こえかねない言葉が、文字通りの純粋な意味として私のもとに届けられる。そしてここでようやく、坂田さんもまた、無私の心に突き動かされて自分ではない誰かのために生きる人だったことに思い当たるのだ。
 ブラジルの地で出会った坂田さんと岡村さん。ひとりの無私の声を、別のひとりの無私の耳が、沈黙のかたわらにある静けさの中で聞き遂げる。それは、野鳥のさえずりとせせらぎが聞こえるリオの亜熱帯の森で、ことばが、ことば本来のはじまりの意味を回復する奇跡をとらえた瞬間だった。
 「辛いんです」という岡村さんが聞き遂げたことばを、私もまた「私」を脱ぎ捨ててそのまま受け止めたい。そこに、今という時代において信じるに値する意味があり、希望があった。



5.岡村淳監督『リオ フクシマ 2』をお勧めしたい理由
rokutarou さん

あしがら憲法フリークス 2018年4月18日付より
https://ashigarakenpou.wordpress.com/2018/04/18/

「自明」のことは、語られる必要がない。それは、相手も知っていて「当然」という前提で、話が進んでいく。

でも、自分が「当然」と思っていることは、本当に誰にとっても当然な事なのだろうか?そう思うことは、ずいぶんと傲慢なことではないのか。

自分の「当然」が、実はそうでなかったことを確認するためには、やっぱり、旅をするのがいいと思う。

『リオ フクシマ2』では、ブラジル・リオデジャネイロで2012年に開かれた、環境サミット「国連持続可能な開発会議」に参加した市民団体の様子が収められている。

なにか問題を伝えたくて会議や勉強会を企画してみるが、ふたを開けてみれば、いつもと同じ顔ぶればかりが集っていた―。企画をしたことのある人は、多かれ少なかれ経験があるだろう。それでももちろん、意義はあるが、間口を広げることの難しさは、多くの人が実感しているのではないか。

自分が、『リオ フクシマ』で感じたフラストレーションはそのことに関係があったし、『リオ フクシマ2』でああ良かった、と思えたところは、やはりそのことに関係がある。会議が終ったあと、諦めきれずに展示を続けていた市民グループの坂田さんは、たまたま通りがかった現地の人たちと話をすることができた。

なかには、「フクシマって?何かあったの?」という人もいた。

そうだ、フクシマって、カタカナ語にして、国際的に有名な問題になった気がしたのかもしれない。いや、有名かもしれないけど、みなが同じ世界を共有しているわけじゃない。

「自明」ということは、相手と自分は同じ文化や知識、理解を共有していて、とりあえずそれについては語る必要がない、ということだ。

もちろん、それは、コミュニケーションの土台であって、時間や労力の節約にもなることなのだけれども、いつも、この「土台」が同じ相手とばかり話しているうちに、自分の見ている世界だけが、全てと思ってしまうという落し穴があることを忘れてしまいがちだ。

同じ土台の人とばかり交流していると、楽だ。でも、伝えるための知識を持つことをだんだんと怠けてしまうになったり、説明する能力―目の前の相手は何を知っていて、何を知らないか、何を考えているか、等を推し量りながら自分の持っている情報を整理し、わかりやすく伝えようとする能力―が退化していってしまったりするように思う。

「合言葉」の通用しないところにも出て行ていくということは、難しいことだし、とても大切なことだ。

仲間内の言葉が通じる世界の外へ。

そして何より、「自明」ばかりの世界から、時にはそうでないところに出てみるのは、新鮮で、気持ちがいい!

旅の効能は計り知れないものがある。

『リオ フクシマ2』では、福島県の原発事故問題が、この市民グループの方や、岡村監督のおかげで、日本の外に出て、旅をする姿が見られます。

その道中でのふれあいは、派手な成功ではないかもしれないけれども、私は、そういうところ(派手ではないところ)にリアルを感じます。

そして、市民グループの坂田さんが、原発問題を日本の外に持っていった努力は、この映画が日本で観られることによって、さらに報われるのかもしれない、と思います。

なかなか、旅をすることが難しい人は、是非この映画を見てみて下さい。岡村監督が水先案内人となって、きっとあなたに、いろんなものを見せてくれると思います。

私は、今回の上映会では、福島の原発事故の問題を果たしてどれだけ自力で説明し、伝えることができるだろう、と自らに問い直すきっかけを頂きました(同時に、そのことに気づく機会を持たないこと=原発問題について、オープンに会話する機会が少ないことを、痛感しました)。

監督ご自身が『リオ フクシマ』について、観る人の鏡となって、問題を映し出してくれる映画だと書いていました。『リオフクシマ2』もそういった面があるし、他の岡村作品もそうなのでしょう。

放っておけば怠ける脳みそ、思考停止しがちな脳みそを、ぐわんぐわんと揺さぶってくれるのが、岡村作品です。

個人も、社会も、風通しをよくしよう!

この映画についてはまだまだ書きたいことがあるので、また書いていきたいと思います。




6.『リオ フクシマ 2』
宮岡秀行さん(映画作家)

2018年7月17日 寄稿

2018年上半期の傑作に 岡村淳監督の『リオ フクシマ2』(2018年/102分)がある

2012年6月にリオ・デ・ジャネイロで開催された国連主導の環境サミット「Rio+20」と並行して開催された「ピープルズ・サミット」で 東日本大震災での原発事故を訴える市民団体の代表・坂田さんを主に追い掛け「従軍日記」の如く一部始終を記録する岡村淳のキャメラは マスコミが撮り逃す場面を尽く記録するのは当然として この映画が付かず離れずの接着力をもつのは 坂田に同行しながら逸脱する水平化した岡村の視点が 狂騒する祭りと 祭りのあとの静けさとを捉えて離さない点にあるだろう

震災すら すでに祭りのあとのように感じられる2018年に最終的にまとめられ発表された本作で 岡村の手持ちキャメラが同化するのは 民衆は横(水平)でつながれるという可能性であり その都度瞬時に巡りあう被写体に キャメラが無造作に介在するときに起こるちょっとした出来事が そこに岡村のキャメラがなければ起こり得なかったかもしれない出来事として在る点が奇跡的なのだ

土の中でつながればいい

とはバンダナ・シヴァさんの発言だが この高名な環境活動家に突撃インタビューする日本側のキャメラマンに対して 岡村はフレーム・アウトした位置にしか入らないようにとの指示がくだり あまりいい位置には入れないまま撮影を続行する しかも結果 日本側の公式キャメラマンの映像素材がミスで使えないことがわかり 岡村の不本意なキャメラ位置の素材が使われたりと 古本業をしながら反原発運動を行い 大飯原発のフェンスに体を鎖で巻き付けるほどの活動家・坂田との微妙なポジションの違いが この映画をかえって生き活きとした「従軍日記」にしている

そう 映画の現場とは 戦略拠点ともいうべきポジション争いでもあるのだから

リオの高校生が映画の中で 電気も足りているのに なぜつくるの 原発 と素直に言う 日本のアニメの主題歌が好きな女子高生が突然 反原発的な正確な視点を示され驚かされるこの場面は 1992年にセバン鈴木が言ったことの口移しだと 上映後のトークで岡村は明かしていたが 大人が無感覚になるとはまさに 過剰な電気供給 必要以上の文化現象 そして震災による感傷による共同体とは違う リオの生き活きとした高校生の命の耀きから発するこの声であり 日本には希薄なこの声色は 近代国家の行き着く果てなのか われわれは 反省はあっても 総括のないまま 日々を過ごしている証左を突きつけてくる

日本の行政の反省はなく 途上国に原発は効率的でいいものと思い込ませ 庶民のなかにも原発がもちたいと思わせる深層心理を植えつける先進国の思惑とは ありとあらゆるものを自分たちの「倫理」で包装し 力ずくでわからせてやると 脅しつけるようなものだ
この環境サミットに欠席した当時の総理大臣・野田佳彦が東日本大震災終息宣言をしたのは同じく2012年末だった それは縄張り宣言であり 先の岡村のキャメラ・ポジションを制限するような物言いにそれは近く そしてそれは行政におけるフクシマの封土宣言とも言えるだろう
つまり環境サミット自体が既に資本主義化され 社会的な弱者はそこからは閉め出されているのだとしたら この「ピープルズ・サミット」に関わること自体 忠誠関係が入れ子になっていて さまざまな特権が上から下までびっしりと組み合わされているのだ
多国籍企業がそれを食い物にすらしているサミット周辺での坂田たちの声が 同語反復に陥り ときに相手を利するとしたら その為だろう

人類には体験した苦難を長く記憶する力がない
将来の苦難を予想する力はもっと少ない
我々はこの鈍感さを克服すべきである

とブレヒトが言う通りなのだ

岡村のキャメラは 坂田たちに寄り添いつつ 吟遊詩人の如く逸脱し(実際 吟遊詩人の出てくる素晴らしい場面がある) 最後は高尾山の環境保護にも携わる坂田たちを 国立の自然公園に案内する
ここに岡村の人となりがほとんど出ていると言ってもいい穏やかなエンディングだ
ドキュメンタリー的な労働が放棄され無視された映画は いきなりミサになり祈りを忘れてしまうが 岡村は旅の終わりに坂田たちをミサに誘うかのようなのだ

「山の呼吸を止めてはいけない 水の循環を止めてはいけない」

と 雨と大地の恋愛を語る坂田も 森の中のミサに誘う岡村も このときばかりは全てに報いられている
雨はジャングルと村を涼しく保っている 森と人間の双方にとっての本当の滋養は 雲から降り 空気中に留まり 滝から落ち 川へと流れ込み 澄んだ深みに注ぎ 渓流や小川を満たし 村や町を通り抜ける雨水なのだ
そしてこの映画もまた 水と土の循環そのもののように 自然な映像の流れを刻刻と記録し 編集してきた岡村のマスター・ピースとして 語り継がれ続けるだろう

宮岡秀行

追記:この日の上映は 高槻の市民交流センターの一室で行われた たまい企画という人たちが おそらく手弁当で素敵なチラシをつくり 15人程度の観客が この幸運に立ち会った
水戸喜世子さんが特別ゲストに招かれ 彼女の一言一句にも胸がつまった その佇まいは いずれ 岡村さんの映画で見られるだろうから ここでは書き写さないでおこう


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