江古田映画祭と『リオ フクシマ』シリーズを読む (2019/04/01)
映画監督、脚本家として活躍される山崎邦紀さんが今年の第8回江古田映画祭と拙作『リオ フクシマ』『リオ フクシマ 2』についての鋭いコメントを発表してくれました。 以下、ご紹介します。 (出典:山崎邦紀さんの facebook 西暦2019年3月16日付)
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過日、江古田映画祭で、岡村淳監督の「リオフクシマ」/監督トーク/「リオフクシマ2」を観る。武蔵大学前のギャラリーでの上映だった。 ブラジル在住の岡村監督の作品は、監督が来日するたびに1本は観たい。DVDは売らない、上映には必ず監督が同席するというのが岡村スタイルなのだ。 国や民族の縛りに囚われない岡村ドキュメンタリーの風通しの良さが、心地いい。様々な人種が入り混じった海外の通りを歩いている時の開放感と同じものを感じる。 「リオフクシマ2」は昨年の初公開時に、下高井戸シネマで観た。2012年にリオで開かれた環境会議に日本から参加したグループの、現地での世話をする代わりに、彼らのあまり国際的とは言えない活動ぶりをドキュメントしたもの。 わたしはこれを観て、社会運動系の人たちにしばしば見られる思想偏重で、裏付ける技術に対する無関心、無償のボランティアを当たり前として対価を払わない、あるいは最小限にする、などの傾向について感想を書いた。 その際、岡村監督が前作の「リオフクシマ」について、「返り血を浴びた」みたいなことを書いたか、語ったかしたので、ぜひ観たいと思っていた。 実際に観ると、確かにグループの活動の実務的な欠陥、例えば後発でリオにやってくる人たちを岡村監督が空港に迎えに行くのだが、そのスケジュールさえ、うっかりミスが続く。 国際会議に参加しているのに、現地で出会う人たちとの交流に時間を割かず、観光に行ったりする。人との出会いを逃さないドキュメンタリストには甚だもどかしい。歯痒い。 しかし、重層的な「リオフクシマ2」を観た目には、懐かしい人々との再会のように感じた。日本語の限界があって、他国の人や現地の人と積極的な交流ができない。その間にあるギャップに気づかないことさえある。英語とポルトガル語がチャンポンになる現場なのだ。 また、フクイチ爆発から1年後という段階では、単調な主張を繰り返す認識の浅さも致し方ないような気がした。ブラジルの放射能事故の当事者の語る重たい現実と、日本からの参加者の軽佻さ。 つまり、わたしは今回、我が身と引き比べ、運動家諸氏に同情するようなところがあったのだろう。わたしも彼らと同様なのである。より構造的になった6年後の続編を先に観ることで、前作をプロローグのように感じた。 「返り血を浴びた」というのは、何か抗議のようなものがあったのだろうか。あったとすれば、甘い。現地での世話をしてもらう代わりに、ドキュメンタリストに自由に撮って良いなんて、身の程知らずと言うべきだろう。 もうひとつ、今回の江古田映画祭で面白かったのは、岡村監督と観客との応答だった。2本の上映の間の監督トークで、質疑応答の代わりに想定問答で話したいと言われた時には、珍しいこともあるなと思った。 なぜ想定問答なのかといえば、上映会で長々と自説を展開する人がいるから、と言ったのだが、その後の展開で、どうも岡村監督はこの日の参加者を見て、予防線を張ったのではないか。 このトークの際も、後の「リオフクシマ2」の上映後にも、声高に自説を主張したり、自己の履歴を長々語るような人が続出した。いずれも社会運動の当事者、同伴者、あるいは深く理解を示す人たちで、つまらない俗論ではないが、岡村監督の話を聞きに来た耳には、いかにも五月蝿い。 今回の上映など、映ってる当事者に毎回知らせるが、観にくることはない、「これを鏡として自分を見る」ようなところがない、と岡村監督は語ったが、この日の長広舌の観客諸氏も、今見たばかりの映画の中の運動家の得手勝手さや、直接作品と関係ないことを長々喋ってくれるなという目の前の監督の要請も、おそらく他人事なのだろう。 自作の制作・上映で地球の表面を移動している岡村監督だが、こういう観客や支援者とも面と向かって付き合わなければならないのだ。上映場所に行ったら主催者ともう一人しかいなかったとか、主催者が姿をくらましたとか、そうしたケースもあるらしい。それでも敢然と上映現地に赴く岡村監督に敬服する。 この日、ブラジルの極右の新しい大統領について尋ねられた岡村監督は「ブラジルの人たちは黙っている人たちではない、必ず声をあげるので、それほど心配してない。むしろ気にかかるのは(安倍パラノイアに)声を上げないこの国の方」だと答えた。 まさしく!
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