東京大学東洋文化研究所主催の岡村淳オンライン上映会で何が起こったか・参加者の声を聴く②etsukoさんより (2022/01/05)
2021年12月18日にオンラインで開催された東大東文研主催の岡村淳オンライン上映会で、何が起こったのでしょうか? 主催の東大教授は、多くの参加者の声に反発するように異常な言動を繰り広げました。 権力を乱用して招へい作家と作品をおとしめた主催者の「大本営発表」をうのみにするのは、さらに悪らつな事態を引き起こすことでしょう。 今後も同様に学外そして民間の弱者が搾取され、おとしめられる事態を少しでも食い止めたいと願って、岡村は被害者として声をあげ続けます。
今回は、一般の参加者がSNSでイベントの翌日に発表された文章を転載させてもらいました。
東文研セミナー「岡村淳監督作品・連続上映会-富山妙子、百年の孤高」に参加させて頂き、これまで殆ど知ることのなかった富山妙子さんの作品やご本人の姿を拝見し、お話を伺うことが出来ました。 これまで残してきた数々の画(炭鉱の労働者、韓国で生活する人々、光州事件・・・)について監督が質問されている時に、富山さんは「祈り」と答えていらしたのですが、最近のこの国の現状を描いている作品については、「この国の現状を認めることはできない」という意味で描いておられるとのこと。 絵には、色々な意味合いがあるのだと思いますが、富山さんが自らの生から導き出されたこの言葉は、絵画の本質を現しているのではと感じ、大変印象深かったです。 素晴らしい作品を観て心を打たれていたら、(数人の関係者の方のお話の後)最後に主催の教授のお話があり、そこで一転して、大変後味の悪い時間を過ごすという摩訶不思議な体験をしました。 この作品は科研費の成果物であると、繰り返しこの言葉を使って主張され、科研費は公共のお金なので、この作品は公共のものである、とおっしゃっていたことに、大変な違和感を覚えました。 まずは、公共のお金を出して買った「もの」ではないのですから、これは作品として扱われるべきということ。作品というからには、それを制作した人がおり、その人に払われるべき敬意が見当たらなかったこと、ひいては、その作品に払われるべき敬意についてもそれが充分であったか疑問が残ること。 作品は、人を映したものであり、その作品は、いわば映した人と映された人そのもの(全部ではないかもしれないけど)であるにも関わらず、成果物という言葉を(繰り返し)使ったこと。 よく捉えようとすれば、この作品は、公共のものであり、ひいては主権者である皆さんのものでもあるので、この作品に関してどの人も主権を主張することができる、というメッセージを伝えようとしていたのだ、と考えられるとしても、では、主権者のひとりであった私に関して言えば、作品の作者がこの様に扱われること(セミナー中、発言時間も申し訳程度にしか与えられなかったことは象徴的だと思いました)は望んでいませんでした。 フリーで制作をしている人に、制作にかかる費用を出したとしても、制作中の時間の報酬が充分に支払われているかわかりませんし、作品をきちんと「買い上げ」されたかもわかりませんし、もし中途半端な金銭的支援で、その制作物を作者から取り上げようとするのであれば、それは盗みにも通じる行為だと思うので、その様なことが無いことを願います。 この様な機会を与えてくださった東文研の皆さまには感謝申し上げます。また、岡村監督とその作品に対し、適正な対応と最大の尊敬があって欲しいと願います。 ともあれ、絵、というものの持つ力の一端に触れさせて頂き、私もむくむくと描きたいなという制作意欲(?)が出てきました。また、富山妙子さんの著作を読んでみたくなり、探してみたいと思います。
|