1月の日記 総集編 ブラジルの水田地帯をいく (2017/01/02)
1月1日(日)の記 恥ずかしい日本のテレビ ブラジルにて
ブラジル・サンパウロは真夏の新年が始まる。 午前中、シャッター街と化した街なかを家族全員で車にて妻の実家に向かう。 昨年は義父の不幸もあり、今年は人を呼ばないように、といっても身内だけで20人以上になる。 今日は人手も多いので、僕は台所ではつまみ食い以外は遠慮させていただく。
が、なかなか居場所がない。 NHKの国際放送を流しっぱなしでうつらうつらする義母の横のソファにお邪魔する。 元日の日本を代表とするテレビ放送局の特別番組。 サンパウロに11時間進んだ祖国は1月1日午後9時過ぎだ。 まさしくテレビのゴールデンタイム以上、ダイアモンドタイムか。
どのように集計したかも不明な正月に関するアンケートの結果をスタジオのタレントがクイズ式に予測して、それをコメンテーターがしたり顔で解説するというもの。 何10年も日本で定番化してしまった安っぽいつくりだ。 東京の街かどでの通行人へのインタビューが何度となくインサートされるが、同じ人物を何度となく使いまわしている。 テレビつくるバカ、出るバカ、見るバカとはよくいったものだ。
そのあとのケータイ大喜利とかいう、もう10回目だかになるというニューヨークとナマで結んでいるという番組は、もう見るに堪えない。 義母がしばらく席をはずしているうちはCNNとブラジルのニュースチャンネルをサーフィンする。
義母が戻り、あわててチャンネルを戻す。 義母自身がNHKはほんとにつまらないのが多いけど、他に日本語のがないから、とのたまう。
国破れて山河あり。 まったく、山や川でも写しっぱなしにしてもらった方がよっぽどありがたいもんだ。 元日の特別番組が、これである。 NHKはそんな番組ででもやたらに「国民」の語を喧伝していた。
大宅壮一が日本のテレビを「一億総白痴化」と喝破したのは、1957年。 この語はちょうど還暦を迎えて、安倍内閣によって見事に具現化されたようだ。
さあ、食卓に席を移す。 今年の正月の身内の集まり、参加者の国籍は4か国か。 先ほどまでのNHKのナマ番組のニューヨーク中継、会場にガイジンらしいのがまるで見当たらなかったな。
まずは、この一年をしっかりと生き抜こう。
1月2日(月)の記 月曜のアート展 ブラジルにて
明日は早朝から車で家族旅行に出るつもり。 家でするべきことはいくらでもあるが。 思い切って今日までのアート展を見に、セントロ(ダウンタウン)まで出る。
ついでに正月の東洋人街ものぞいてみる。 なにということはない。 中心となるガルボンブエノ街の、いつも車がぎっしり止まっていた左側を歩行者専用レーンとしているのには驚いた。 もとからの歩道との段差などが気になるが、思い切ったことをしたものだ。 だいぶすっきりしたが、ただでさえ駐車場探しもややこしいこの地域、あの尽きることのない路上駐車の車群はどうなったのだろう。
新年2日で、しかも月曜。 こんな日のブラジルでホントにアート展をやっているのだろうか。 ブラジル銀行カルチャーセンターのメキシコ人現代アーチスト、Hector Zamora展。 今日までの展示ということで、なんの予習もせずに、まさしくふらっとやってきた。
彼の作成したオブジェとともに、いくつかの動画が投影されている。 これが、見てみるとなんだかおもしろい。 ・サンパウロのギャラリーで、20人の土木労働者が建築用のレンガをひたすら投げてリレーする
・レンガ造りのトーチカのような廃墟のなかで、オーケストラのメンバーがそれぞれ陣取り、準備をして演奏をする ・サンパウロの廃墟となった元病院の窓から中庭に向かって大勢でひたすらヤシの鉢植えを投げつける
いずれも、ただそれだけなのだ。 むずかしくめんどくさい理屈や解釈をする美術評論家や弁の立つアーチストがいるのだろうが、「だからなんなの?」というツッコミと同様、無粋に思える。
なんだか、悪くなく、面白いのだ。 こんなのがアリなんだな、ということで僕自身が自由になれる思い。 売ろう、受けよう、ではない、自分の表現したい、という思いを解放してもらう。 これぞ、アートの魅力。
1月3日(火)の記 ブラジルの水田地帯をいく ブラジルにて
朝6時には家を出たい、と家族には宣言しておいた。 6時台に実際に出発できて、上出来だ。
サンパウロ市内の方がガソリン代は安い。 近くのポストで満タンを頼むが、ここは斜面!になっていて2/3強ぐらいしか入らない。
ここのところ試行錯誤を繰り返していた街なかからのラポーゾ街道入り、今日は道路の表示板に従わず、グーグルマップの提示に従い、オッケー。
ロドアネル経由でレジス・ビッテンクール街道に入り、ひたすら走る。 海岸山脈は、マナカ・ダ・セーラと呼ばれる紫と白の二色の花を咲かせる木々が満開。 途中の休息所での昆虫相の厚いこと。
ようやくパラナ州に入り、さらに南のサンタ・カタリーナ州を目指す。 料金所に「外国通貨は受け付けません」といった表示があり、国境の近さを感ず。
サンタ・カタリーナ州に入ると、文化の違いまで感じられる。 ドイツ系、イタリア系の移民の子孫の多い州だ。
サンパウロ州では道路の周囲で食えるものは、バナナぐらいしか見当たらなかった。 サンタ・カタリーナ州で主要幹線から外れると、なんと水田地帯が広がるではないか。 水田に、ヤシの木が点在。 行ったことはないけど、ここはヴェトナムか、タイか。 ところどころにルーテル教会風のキリスト教会と、造花が鮮やかな墓地。
10時間、600キロ。 Pomerodeという、ブラジルでもっともドイツ系の人口比率が多いとされる小さな町に到着、ここに滞在する。 やれやれ、無事到着で何より。
子供二人も20歳を超えて、こうした家族旅行がかなったことのありがたさ。 問題は、食事の時にアルコールが飲めるかどうか。 事前から調べておいたのだが、今宵は宿から徒歩10分ほどのピザ屋に出向く。 え、生ビール:chopp は機械が故障中? あたりまえの瓶ビールと、ラムのカイピリーニャ(ブラジル南部ではカイピーラと呼ぶ)をいただく。 ドイツ飯は、明日から堪能しましょう。
1月4日(水)の記 ポメラニア 小さな旅 ブラジルにて
昨日、到着したPomerodeは人口3万弱の小さな町だが、ブラジルで最も住民のドイツ系の比率が高く、住民の半分はドイツ語をしゃべるとされている。 19世紀半ばに、現在のドイツ北東部とポーランドにまたがるポメラニアからの移住者が開拓者として移住してきた。 ポメラニアは、犬のポメラニアンの原種の地。
この町で最も伝統的な、ポルトガル語で enxaimel(日本語では木骨造)と呼ばれる建築物が集中する地区を車で訪ねる。 木材でフレームをつくり、レンガや漆喰で骨組の間を埋めていき、釘を用いないという。 歴史建造物に指定されているのだが、この町そのものがさほど観光地化されていない。
歴史建造物地域は、いわば近郊農村で、途中から道路の舗装もなくなっている。 住民たちは観光客から少しでもカネをせびろうというのとは違う次元で、自分たちの生活を、肥大させようとか時代に媚びようとかいうのとも異なる次元で営んでいる感じだ。 このあり方には、学ぶところ感ずるところ、大なり。 そうした人たちの営みに、ぶしつけにデジカメを向けることもためらってしまう。
近郊に名の知れた観光都市もいくつかあるのだが、この町でずっと過ごそうよと家族の意見が一致。 買い物が過ぎたり、ちょいと疲れたら宿に戻って一服という気やすさ。
飾りロウソク専門店、各種腸詰を売る肉屋、クリスタル食器のメーカーなど、いちいち面白い。 夜に訪ねたハンバーガー屋のハンバーガーには、家族全員が、うまい!と太鼓判。 なんでこんなにうまいのだろう。
1月5日(木)の記 ドイツ移民vsインディオ ブラジルにて
今日はPomerodeの宿で、早朝の虹を見る。 昼食後、町の中心街に車を止め、付近を歩く。 町で1軒だけという書店を発見。 あったあった、郷土本。 衝動買いは控えないと…
町の歴史を書いた本、ここサンタカリーナ州に多い貝塚について書いた本など購入。 宿で読み始める。 ほう、19世紀なかば、ドイツからこの地に入植した移民たちを先住民が襲撃、衝突があったのか。 先住民の弓矢での襲撃に、ドイツ移民は猟銃で応じたという。 ヘルツオークが知ったら、映画にしたくてワクワクしたのではないか。
ブラジルへの日本人移民の入植は、ドイツ移民より半世紀以上、遅れている。 日本人移民の入植地は、ひと通り先住民が壊滅させられた土地ばかりだったようで、入植地から土器や石器を見つけたという話はあっても、日本人移民と先住民との闘争は寡聞にして知らない。 お隣のボリビア領アマゾン地方では、第2次大戦後の日本人入植者とバルバロ:野蛮人と呼ばれた先住民の闘争の記録があった。 この本、わが家に頼みごとで訪ねてきた研究者に持って行かれて、そのままである。 弓矢で武装して取り戻しに行こうか。
今日の昼は、お値段は張るが、ドイツ料理食べ放題の店に。 車のため、アルコールは控えたが、食傷気味になるまでいただいた。
1月6日(金)の記 バナナピンガ ブラジルにて
三連泊したPomerodeの宿での朝食の後、出発。
ちなみにポメローデはブラジルで最もドイツ系の比率が高い町、住民の半分はドイツ語を話す町、ということだったが、滞在中にドイツ語の会話を耳にすることはなかった。 こちらも住民の暮らしに入る込むこともない観光だったし、そもそもここ10-20年のいわばグローバリゼーションにより、ブラジルという国民国家への統合がだいぶ進んでしまったようだ。
ブラジルは日本以外で最も日本語が話されて、世界最大の日本人移民人口を抱える国、というのがすでに過去の言説となっていることと並走している感がある。
天気予報通りの、雨。 一方通行部分の道路は往路と少しずれるせいか、復路はだいぶ景観が違う。
サンタカタリーナ州での休息所で、バナナ風味のピンガ(サトウキビ製の蒸留酒)というのがあり、値段も邦貨にして500yen弱。 話のタネに買ってみる。
帰路は雨に霧、山道でもあり、慎重をきたす。 ようやくサンパウロ市に入ると、夜のラッシュが続き、いやはや。
さあ着いた。 お茶漬に漬物といきたいところだが、旅の初日の夜の巨大ピザの残りがある。 そろそろ限界だろう、もったいないのでいただくか…
バナナピンガをさっそく開けてみる。 バナナのナチュラルアロマ、果肉入りとあるが、なんだか駄菓子屋風味。
僕の子どもの頃は、駄菓子系でラムネ菓子に似た食感の、まるでバナナの味はしないバナナ菓子というのがあったな。
サンパウロ出発前夜にこさえた「やまがたのだし」、自家製本格乳酸菌発酵のザワークラウトなど、でたらめな組み合わせの晩酌。
とにかく、無事で帰れてなにより。
1月7日(土)の記 サンパウロの会食 ブラジルにて
長時間の運転の心身の疲れが抜けない。
が、今日は昼から妻の友人知人らとの会食に呼ばれている。 そもそもクルマのハンドルはしばらく見たくないし、車だとアルコールもいただけないので地下鉄とタクシーで行こうという話。 メンバーを僕はまるで知らないし、疲れもあるのでズル休みをしようとも思うが、思い切って参加。
通常ならメンバーについて事前に聞いて、想定される会話のブレイントレーニングなどもしておくのだが、今日はその気力もない。
招いてくれたのは日系人の夫妻で、さらに在米のエクアドル人らが参加。 お宅にはトミエ・オオタケ先生の小品が飾られているではないか。 漢字の印鑑を押してあるのは珍しい。 このお宅の夫の両親が京都の出身で、親から譲り受けた作品の由。
ポルトガル語を基本に、スペイン語、英語、日本語も交じって。 まあとくに失態もなく帰還できて何より。
1月8日(日)の記 尾和義三郎さんの法要 ブラジルにて
昨年の邦字紙の死亡広告で、南米通信社の代表だった尾和義三郎さんの四十九日法要が1月8日午前10時からサンパウロ市内の真宗の寺で行なうとあった。 尾和さんの訃報はサンパウロの友人が教えてくれたが、葬儀の時間がわからず、マットグロッソ行きもあってお悔みに行けていないことを悔やんでいた。
尾和さんは、ブラジル、いやさ南米で日本のテレビ業界相手の最大のコーディネイト業務を繰り広げていた。 僕は映像記録時代の上司が、サンパウロで尾和さんの小ライバルだった人の大学の先輩だったこともあり、尾和さんについてはよからぬことを吹聴されていた。
しかし、予断は禁物だった。 尾和さんはなかなかの大人で、ノーブルかつ任侠の人だったと想う。 この稀有な、エポックを画した人の存在をきちんと伝えたいものだ。
自宅から、思い切って歩いて寺まで向かう。 未亡人に、ご挨拶。
午後、今日までの「ブラジルのインディオの装飾」展に行っておく。 これは見ておいてよかった。 草間彌生さんが15年ぶりにニューヨークを訪ねると、40年間も同じことをやっているアーチストがそのまま認められて、「新しい美術はどこにも見られなかった」と自伝に書いている。 今回の展示で大きなウエイトを占めている写真家は、僕が1980年半ばの映像記録でのヤノマモ・インディオの取材時に訪ねた人で、その時分にすでに第一人者だった。
僕がブラジルに縁ができたのも、テレビのインディオ取材が契機であり、思えば当時から尾和さんの名前は聞いていた。 自分の原点、歩み、お世話になってきた人たちを想う。
1月9日(月)の記 金砂郷に打つ ブラジルにて
さあ、今年はじめての一日断食。
素材の取込みは済ませていた仮題『金砂郷に打つ』の映像編集を始めよう。 水戸で手打ちそば処『にのまえ』を営む眞家一(まいえ はじめ)さん夫妻と昨年4月、北茨城の蕎麦栽培農家を訪ねた時の記録。
眞家さんには僕の訪日の度に水戸のお店で拙作上映会を開いていただき、「水戸岡村会」というありがたくも頼もしい結社も誕生している。 ささやかな恩返しを撮影を通じてできないかと願っていた。
そんな思いから道中、ビデオカメラを回し始めていた。 して、旧金砂郷町の眞家さんが師匠と仰ぐ農家を訪問。 成り行きで、眞家さんがこのお宅で即興で蕎麦を打つと言い始めたのだ。
撮影はしたものの、まとめるに足る出来になるかどうか。 試写の塩梅では、いけそうな気がするが、つないでみないとわからない。
まずは、語り口をどうするか。 撮影者自身が、作品としてまとめるとも思っていなかった映像から、どう物語を起こしていくか。 そして、それを視聴者に無理なく理解が及ぶよう紡いでいくか。
最初に字幕構成としてみようと思い、文案を作成。 それを眞家さんに送り、検討してもらう。 このやり取りで、まずは僕自身の作品に写っていることの理解を深めることができた。
1月10日(火)の記 永遠のいのち ブラジルにて
今日も『金砂郷に打つ』の映像編集。
眞家さんが現地で即興で蕎麦を打とうと言い出すまでをどうまとめるかが、大きなポイント。 そのなかで登場人物、それぞれのキャラクターと背景、テーマとの関連も浮かび出させること。
数学が答えがひとつの世界とすれば、こちらはその真逆で無限の答えがある… 悶えながら何度も素材を見聞きしてつなぎ直していると、思わぬ編集の「快」が出てくるもの。 いけるかも。
夜、途方に暮れるほどたまったものどもに向き合う。
そのなかから、もらいものの『福音宣教』という雑誌を開く。 2016年11月号、山浦玄嗣さんの「みんなの憧れ、永遠のいのち」という記事がよかった。
新約聖書のなかには「永遠のいのち」という表現が43カ所あるという。 イエスの言う「永遠のいのち」という言葉の意味をギリシャ語の意味から考え、文脈から考察すると「いつでも活き活きと明るく喜びに満ちて幸せに生きること」と訳すべきだという。 これは、僕にとってまさしく福音だ。
こういうかけがえのない発見発掘があるから、なかなかものを処分できない。
1月11日(水)の記 生きてゐる年賀状文化 ブラジルにて
祖国などから郵便でいただくクリスマスカードや年賀状の数は、めっきり減った。 いっぽう、いまだにこの習慣を固持している友人知人もいる。
僕はこれといった主張や節操があるわけではないが、アナログとマニュアルごころに満ちた年賀状をいただくのはうれしいものだ。 こちらも返礼できる体制はおこたっていないつもりだ。 当方からは旧年中に、何人かのご年配の方々には投函しておいた。
祖国では新年の松が取れた頃になってから、ぽつりぽつりとサンパウロのわが家に年賀状が届いてくる。 1960年に発行された10円切手を惜しげもなく貼ってくれたのが届いた。
昨日、落手したお年玉付きはがきは日本の報道機関の要職を現役でリタイヤして、学校教育の最前線に立つことになった友人から。 印字の文章と画像、そして手書きの書き添えからなり、年賀状文化の粋の感あり。
さっそく返信をしたため、郵便局前のポストまで、買い物と散歩を兼ねて外出。 まだまだ祖国から年賀状がやってきそうだ。
1月12日(木)の記 青汁で冷汗 ブラジルにて
有機農場から来る野菜を消費しきれずに傷ませてしまうのが、もったいない。 特にケール:コウヴェマンテーガが多量に来るのだが、料理が追いつかない。
日本でケールといえば、青汁。 サンパウロの妻の実家でも青汁にして大量消費している。
久しぶりにわが家でも青汁をこさえてみることにする。 それ用に、オレンジも10個ばかり買っておいた。 青汁に必須と家人の言うリンゴも残りがある。
過去の体験は忘却、勝手がよくわからないが、やってみる。 そもそもミキサー使用には不慣れ。
オレンジは手で絞って… やっているうちに、だんだんわかってくるような。
青汁作成歴の長い妻の実家では既製品のオレンジジュースを混ぜたり、そしてなんとオリーブオイルも投入しているという。 うーむ、初心者には抵抗あり。
実家で青汁づくりに関わっていた妻は僕の試作品を飲み、もっと撹拌するとなめらかになるという。 ふむ、たしかに。
それにしてもこれは大量に葉野菜を消費して摂取できるな。 ナマなので、ナメクジ等の混入に用心しないと。 気持ち悪さはともかく、寄生虫の問題で。
1月13日(金)の記 ワイン街道だけれども ブラジルにて
今日は義母を誘ってサンパウロ市近郊サンロッケ市のワイン街道を日帰り旅行。
想えば一昨年に、木村浩介さんをお連れした。 まさかそれから一年足らずで木村さんが亡くなられるとは。
ちょうど一年前に義父母とチエテ川源流域を泊りがけで訪ねた。 その七ヶ月後に義父が逝くとも思わずに。
さてこのワイン街道沿線には、10箇所近い数のワイナリーがある。 17世紀にさかのぼるというこのサンロッケ市のワイン生産だが、今日では観光用にぶどうを植えている程度で、ワインにしているぶどうはブラジル南部のものが大半とか。
無難な、このあたりでは大手のワイナリーの店舗を訪ねる。 いちばん値の張る、チリやアルゼンチンのそこそこのワインが買えるお値段のを試飲してみるが… コクのない、渋いグレープジュースといった感じ。 ピニャコラーダのリキュールといった新製品もあるが、衝動買いを控える。 缶入りの「生ビール風味のワイン」あたりをいくつか購入。
木村さん、そして別の友人とも行ったイタ飯屋へ。 この地方はアーティチョークの産地でもある。 先回、いただいたアーティチョークと4種のチーズのパスタはイマイチだった。
今回はアーティチョークのアーリョオーリョのパスタでいってみる。 これは、よろしい。 今日は別に運転手がいたので、ハウスワインをピッチャーでいただくが… これも、きびしい。
ワイン以外は及第点のワイン街道日帰りツアー。 意外に穴場のワイナリーでもあるのだろうか。 なかには最近、「日本酒」まで作り始めたワイナリーもあるのだが、類似の日本酒体験から推すと、期待はしない方がいい感じ。
1月14日(土)の記 サンパウロの舌戦 ブラジルにて
年末に会いそびれていた日本人の友人と昼食。 わが家の隣駅で、最近ひいきにしているレストランで。
この友人はなかなかの辛口で、今日はすべて裏目に出た。 なにか大きな楽器を抱えた男がむっつりと入ってきたと思っていると、なんとライブ演奏が始まった。 我々は入り口近くの離れた位置にいたが、それでも会話の妨げになり、店にもライブありの表示を見なかった。
料理の量は控えめになった感があり、そもそも干し肉は塩の抜きが足りない。 スタッフのシンパチコ(シンパシーたっぷり)なのも気に入っていたのだが、友人はケチョンケチョンである。
勘定にライブのチャージもごっそり入っていたら、ますますケチョンケチョンだなと恐れるが、なんとサービス料も取っていない。 土曜の昼に二人でそこそこ食べて、高めのビール大瓶二本頼んで一人1000yen未満、はっきり言って安い。
ついで、近くで日系人の経営するカフェに。 友人はここがいたく気に入り、ケーキまで頼んだ。 エスプレッソコーヒーをお代わりするが、いずれもぬるかった。
先方がお釣りを間違えておいて嫌な顔をされて、店名が日本の地名であることを尋ねてみてもそっけない。 これまでこのカフェにはときどき短時間の読書に来ていたのだが、これからは他を探そう。
1月15日(日)の記 まずは、なめろう ブラジルにて
4週間ぶりに日曜の路上市で鮮魚を買える。 これまで4軒あった魚屋は3軒になってしまった。
おなじみの店はイマイチな感じで、もう一軒で。 1キロ程のアジを購入。
おろしてもらうのに小一時間かかる。 その間、安売りの野菜類の小袋を買ったり。 タラの切身もその間に値段が下がったようで、1キロ購入。
夕方。 まずは、三枚におろしてもらったアジの中骨に残った肉をスプーンでほじくり出す。 冷蔵庫にふんだんにあるネギをたっぷり刻み、ブラジル製味噌、醤油、みりん、おろしショウガを加えて、なめろうにしていただく。
けっこうけっこう。 はちみつカイピリーニャでキッチンドリンク。
からからに乾燥した自家製切干大根をインゲンと味噌汁にして、大根の皮とニンジンのきんぴらもこさえる。
メインのアジは刺身にして、自家製大根のツマ、ヒジキ、パプリカでいろどり、ショウガと青ネギで。 刺身の方は脂のノリが今ひとつだったかな。
刺身の苦手な家族のために、アジの塩焼きも作成。
有機農園から、追加でミョウガが入り、ヤッホー。 まずは自家製「山形のだし」に刻み込んで。
はちみつカイピが、どんどんすすんでしまうではないか。
1月16日(月)の記 熱帯でいちばん高い木 ブラジルにて
さあ今日は1日断食。 家族の新しいシフトが始まる。
こちらは『金砂郷に打つ』の編集を繰り返す。 まだこの世で僕しか見ていないが、ここまでの作品にまとめられるとは思っていなかった。 水戸でのお披露目上映が楽しみ。
夜は、古新聞のチェックで選り分けた記事の束を少し読み込む。 掘り出し物、多し。
例えば… 「ブラジル人が熱帯で最も高い木を発見」。 FOLHA DE S.PAULO紙、2016年5月13日付。 28歳の森林技師マテウス・ヌネスさんが、熱帯では世界で最も高い樹木を発見。
場所はブラジルではなく、なんとマレーシア。 マレーシアはブラジルではなかなかなじみがなく、イメージのつかみにくい国だ。 この記事の舞台は、マレーシアでもマレー半島ではなくボルネオ島だろうとは僕あたりにも見当がつくが、この記事中には樹木のある保護区の名前しか見当たらない。
キーワードを調べてみると、90.6メートルと測定された樹木はShorea属。 この属名は日本語になっていないようだが、フタバガキ科だ。 シャカが入寂したのはサラソウジュの木の下とされるが、サラソウジュはこの属の木と知る。 保護区の名前から、場所はボルネオ島の北端、キナバル山やサンダカンなどがあるサバ州だ。
ちなみに熱帯以外では現存の世界最高の木は115メートル越し、アメリカ合衆国のセコイアスギ。
ひとつの記事で、これだけ楽しめた。
1月17日(火)の記 すばらしい世界旅行 ブラジルにて
2月はじめからの訪日上映巡礼に備えて、上映素材のDVD焼き。 さる大学での上映で「すばらしい世界旅行」時代のブラジル移民もののリクエストが入った。 新しく上映用の素材をつくることにする。
拙著に書いたが、この2本は牛山さんのノリで制作が決まった。 一本目『シネマこそわが人生』は意義は大きいが、作品の構成に無理があることをあらためて認識。
二本目『旅芝居こそわが人生』は僕の考えるドキュメンタリーの味わいがよく出ている。 六川則夫さんのカメラワークがいい。 公演現場で芝居の子役をしてくれる子供を探すシーンは、絶妙。 いま見直して、涙が出るほど。 『七人の侍』の侍探しのシーンまで思い出す。
これを踏まえて「フリーゾーン2000」の『お涙ちょうだい!ブラジル移民のひとり芝居』という流れで見てもらえるといいのだが。
1月18日(水)の記 焼き栗とクリムシ ブラジルにて
栗といってもブラジルでは一筋縄ではいかない。 アマゾンナッツ、ブラジルナッツと呼ばれるアマゾンのものは、パラ栗とも呼ばれる。 そしてヨーロッパ栗、ポルトガル栗、マロンなどと呼ばれる、日本の栗に近い栗。 そして日本の栗は、和栗とも呼ばれると知った。
ブラジルでその和栗を栽培して、焼き栗として普及・販売に努める人にお会いした。 縄文文化研究者崩れの僕としては、栗と聞くと目がくりくりしてくる。 あの豊饒な縄文文化を支えたのは、和栗の管理栽培によるところが大とされているからだ。
さてブラジルでの焼き栗作成の行程のなかで、虫に食われた栗の選別が大変、とうかがう。
思い出した。 僕は日本での学生時代、縄文文化的要素の現代での残存を探る、というのをテーマにして、各地の山村を行脚していた。 焼畑の記憶をとどめる九州の山村だったろう。 秋に収穫した大量の栗を、囲炉裏のうえにどっさりと保存しておいたという話をうかがった。 冬場になると、囲炉裏の熱で天井の栗があぶられて、クリムシと呼ばれるイモムシの仲間が落ちてくるそうだ。 そのクリムシがおいしくて、という。 思わぬ昆虫食文化を知った。
ブラジルの和栗の虫も、このクリムシだろうか。
帰って調べてみると、日本でクリムシといわれていたのはシギゾウムシと呼ばれる甲虫の幼虫のようだ。 釣りの餌にも格好で、この虫の食文化も確かにあったことが確認できた。
して、焼き栗の方。 僕も家族も焼き栗をいただくのは初めてだった。 ひとつひとつ見た目も焼き加減、味加減も微妙に違うのがかえって面白い。
知識としての昆虫食文化は嫌いではないが、焼き栗は昆虫食とは別腹でいただくのは僕にもよさそうだ。
1月19日(木)の記 今宵の炭焼き人 ブラジルにて
飛行機代の工面も厳しいなか、背水の陣を覚悟で決行する二月の訪日。 祖国は冬枯れ年度末の時期なのだが、おかげさまでうれしい上映会を各地で組んでいただけることになった。
それぞれの主催者の方々と連絡を交わしつつ、詳細の決定したものからアップしていく。 と、訪日前にサンパウロ郊外での上映のオファーが入る。 千客万来。
こちらでは、なかなか進まない身内についての原稿を。 重い。
夜はスパゲティカルボナーラとする。 9番という細めのスパゲティを400グラム弱、茹でる。 好評で、あっという間になくなる。
カルボナーラ:炭焼き人の名称の由来の黒コショウは、アマゾンはトメアスー産。 奇しくも今朝、現地の知人に電話をしたが、つながらなかった。 しばらく先方に手紙を書いておらず、住所を探して手紙を書いて投函したところ。
白黒コショウはわが家に相当のストックがあるのだが、これは常温保存でも傷まないのがありがたい。
1月20日(金)の記 悶々稿 ブラジルにて
今日もパソコンで、義父についての書きもの。 義父のウエブサイトに掲載するつもりだが、誰に頼まれたものでもない。 まさしく孤独な作業。 訪日前に、少しは目鼻を付けておきたい。
冒頭部分は、自分でも稿をすすめて行って意外な発見あり。 その次のが、重い。
編集者役の人もいなければ、字数も締切りもない。 こんなことをしていいのだろうかという迷いもあるが。
もうすこし、やってみよう。
1月21日(土)の記 今宵のお肉 ブラジルにて
家族の、ささやかなお祝い。 隣り駅前のシュラスコ焼肉店へ。 徒歩圏、最安価格。
日本では見かけない日本風なものとして… 解凍したカニカマをそのまま山積みにしてある。 近くにドレッシングが3種ほど添えられ、好きなのをかけて、というわけだ。
日本でカニカマ、魚肉ソーセージや竹輪あたりを加工しないでそのまま出す飯屋もあまりないことだろう。
安いのは、ありがたいのだが… サーヴされるお肉は、黒くカリカリだったり、炭化していたり、かたやナマだったり脂ばかりだったり。
そうこうしているうちに満腹、お肉はしばらく見ないでいい思いに。
それにしても雨がよく降るな、サンパウロ。
1月22日(日)の記 黄金のアジ ブラジルにて
朝イチの外出の帰りに、路上市に寄る。 来週の日曜は不在だろうから、しばらく魚はお預けだ。
大きめのアジをすすめられる。 アジの仲間なのだろうが、ちょっと黄金色がかっている。 東アジアの温帯、わびさび文化の地の出身の人間にはちょっと抵抗があるが、買い。 重さ1キロ半、牛肉とどっこいどっこいの値段だ。 三枚におろしてもらう。
夕方。 まずは中骨で、なめろうづくり。 先週の1キロほどのアジに比して、体積にして倍はある感じ。
今日はメインの身もタタキでいってみることにした。 ちょっと味の傾向は似ちゃうけど、ネギもミョウガもあるし。
のこりの頭、骨ももったいなく、アラの味噌汁とする。 ネットでレシピを調べると、アジのアラにはジャガイモを合わせるのがいくつもある。 わが家はネギ、ショウガ、ミョウガ、サヤインゲンでいってみよう。
このアラが、貝の味噌汁のように濃厚。
タタキもナメロウもけっこう残ったが、さあどうしよう。 ネット検索。 ふむ、ツミレかハンバーグ風か。 いたませないようにしないと。
1月23日(月)の記 縄文の奴隷 ブラジルにて
訪日前最後の一日断食。 日本用、そして急きょブラジルで訪日前に行なうことになった上映のための素材をDVDに手焼き。 ノイズの出がちな素材もあり、うろたえる。
新たなトラブルが生じないか、おそるおそるモニターを見やりつつ。 日本から担いできて読み切ってない書籍『世界史のなかの縄文』(新書館)が気になり、開いてみる。 京都で上映してもらうことになった『KOJO ある考古学者の死と生』関連の画像を探す作業をしていたせいか。
この本は日本を代表する考古学者の佐原真さんと小林達雄さんの対談。 西暦2001年の発行だが、僕は縄文研究の前線から1980年代はじめに退いているので、いろいろな意味で新知見が多い。 僕自身、縄文研究も現代社会のこともシャにかまえていて、きちんと概論をおさえていないことを思い知りつつ。
ふたりの第一人者が、「戦争」「農耕」などの定義がかみ合わないのが面白い。 小林達雄さんが日本の縄文時代に奴隷の存在を想定しているのも刺激的だ。 大森貝塚を発見したモースが著書『大森貝塚』のなかでブラジルの突起のある土器片を図版で紹介していることを知る。 おそらくアマゾンのサンタレン土器だろう。
1月24日(火)の記 サンパウロの至宝 ブラジルの秘宝 ブラジルにて
来週に迫った訪日がらみの外回りの所用を、一気に。 ついでに気になるアート展ものぞく。
トミエ・オータケ会館(インスチチュートのことだが、どう訳すのがよいものか/とりあえず会館にしてみる)のガウディ展。 ガウディの建築物の模型と写真、彼と同時代のアーチストの絵画など。 実物を見てみないと、見てみたい、という気が残る。
アンコール遺跡群の写真をいじっていたので、ガウディの作品とアンコール寺院との類似を感じる。
パウロスタ大通りのSESIギャラリーの、サンパウロの至宝展。 サンパウロ州政府宮殿の芸術品の展示。 音楽家としても知られる博物学者のパウロ・ヴァンゾリーニが1975年に行なったアマゾン地域の科学調査に同行したジョゼ・クラウジオ・ダ・シルヴァの100点にのぼる油絵が壮観。
僕を含めた日本のテレビがやってきたアマゾンものは、なんだったのか。 袋小路から、他所には通じない言葉と範囲でわめいていただけのような気がする。
カルメン・L・オリヴェイラ著、小口未散訳『めずらしい花ありふれた花-ロタと詩人ビショップとブラジルの人々の物語』(水声社)をようやく読了。 原作はブラジルでは知られて、映画にもなっていたこと、そしてブラジル人の女性文化プロデューサーとでも呼んだらよいのか、ロタのこと、アメリカ人の女性詩人ショップのことも、恥ずかしながら知らなかった。
ロタ女史は拙作『リオ フクシマ』の舞台であるリオ市のフラメンゴ公園をプロデュースした人だった。 この本で勉強したことは『リオ フクシマ2』に反映したい。
労作! とてもポルトガル語では僕には読みこなせなかったであろう大著の翻訳と詳細な訳注に、感謝。
1月25日(水)の記 463歳 ブラジルにて
今日はサンパウロ市のお誕生日で、サンパウロ市は休日。 1554年の1月25日。 この大陸を訪れたイエズス会の宣教師マヌエル・ダ・ノブレガらが、アニャンガバウ川とタマンドゥアテイ川にはさまれた丘で「コレジオ」建設を祝す最初のミサをたてたことに由来する。
同じくイエズス会士のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは、この5年前のこと。 この時代のブラジルと日本は、ポルトガルとイエズス会の版図の両側の最前線だったわけだ。
こういう日に映画『沈黙』でも見たいところだが、ブラジルでの公開は来週になる。 どうやら今度の映画では登場するガイジン:ポルトガル人たちは英語をしゃべるらしく、ブラジルの観客はどのように受け止めることか。
昨日の歩き疲れが抜けない。 明日は早朝から近郊への出前上映会だ。
今日は一歩も家を出ず、安静に。
1月26日(木)の記 和栗とツノゼミ ブラジルにて
今日はサンパウロ市近郊のアチバイアの農場に出前上映。 この農場では、日系農業を研究する田中規子さんが和栗を栽培している。 和栗の実りの時期を迎えて、焼き栗づくりのお手伝いに来た日本からの留学生たちへのアトラクションとして拙作を上映すべく、お招きいただいた。
あこがれの大西洋海岸山脈の真っただ中。 かつての鶏舎の廃墟が植物に覆われていたり、ぞくぞくくる。
和栗栽培地見学中に、さっそくツノゼミを発見。 ツノゼミの珍虫奇虫度の横綱級・ヨツコブツノゼミだ。 留学生たちは、葉切りアリに歓声を上げる。 夏の驟雨が何度か降り注ぐ。 近くの森からホエザルの声が響く。 小川べりの竹林からは、ゲゲゲどころではない強烈なカエルの叫び合い。
和栗の枝にもツノゼミがへばりついていたのには驚いた。
田中さんも僕も、香山文庫での上映失敗に懲りて、昼食後さっそく上映開始。
せっかくの海岸山脈に来てずっと上映会場にへばりついているのももったいなく、少し中座して博物観察をさせていただく。
新たに発見したヨツコブツノゼミをしばし眺め続ける。 腹部から気泡状のものを排泄。 羽を開くが飛行には至らず。 何度か頭部を瞬時、うなだれる。
先方は体長約5ミリ。 メガネ越しでのフォーカスも追い付かず、メガネをはずして観察。
よりによって僕がわずかに席を外した時にDVDの事故が起こること、しばしあり。 あまり遠出はせずに、時折り、上映会場を外からうかがう。
夜は和牛の炭焼きをごちそうになる。 脂身のおいしさに驚き。
近くで留学生が灰色の虫が群がっているのを発見。 ヤスデかな。
どうやら鱗翅目の幼虫、いわゆる芋虫毛虫。
昼間も農場で、形態からするとスズメガのような幼虫が群れているのを見つけていた。 アマゾンの森の雨のなか、毛虫の大群があたかも一匹の蛇のように移動しているのに遭遇したことがある。
帰宅後、ネットで調べてみる。 毛虫が移動速度をはやめるために群れる、という記載はある。
我々が見たの群れは移動のためではなく、夜間の外敵、ないしは雨天から身を守るといった観があった。
ああ、森は面白い。 農場出前上映もぜひまた、といっていただき、願ったりかなったり。
最終のバスで、森の余韻に浸りながら山を下りる。
1月27日(金)の記 チョコレートの金曜日 ブラジルにて
こちらの身内の香典返しの品を日本まで担いでいくことになった。 その品々の買い出し。 大の男二人がひーこら運ぶほどの量になる。
さて、スーツケースに詰めてみると… 持参する予定の2個のスーツケースの1個半を占拠する容積! 自分の方の土産物類をそうとう削らなければならない。 どうするかで、紛糾。
明日は未明から長距離運転、ミッションインポシブルだ。 先方からの希望に沿うようにしたいが、人命・機材・クルマの安全も考慮せねばならない。
早めに横になる。
1月28日(土)の記 運転と撮影 ブラジルにて
段取りもよくわからないまま。 これが最後のお勤めということらしい。 フマニタスの佐々木治夫神父よりのご案内で、29日にフマニタスをブラジルの修道会に譲る記念のミサが行われるとのこと。
すでにフマニタスは、聖カミーロ会という国際的な修道会に譲渡されていた。 その後、いろいろあって今度はブラジル生まれの「神の摂理のアシスの聖フランシスコ修道会」とでも訳そうか、地元の司祭も覚えられないような長い名前の修道会に任されることになった。
訪日が迫っているので、今回は失礼しようかとも思ったが、あとはないかもしれない。 思い切って友情撮影をすることに。
前日の午後のうちに着けばいいなと予定を立てておくと、28日午後1時半にクリチーバ総領事が来るので、それに間に合わせられたしとの連絡。 今回はフォトグラファーの楮佐古晶章さんにもご同行いただくので、これに間に合わせるとなると、犯罪多発都市サンパウロで未明に合流しなければならない。
サンパウロでは昨今、邦人が被害にあう犯罪が多発中。 先日も日中、運転中の駐在員が強盗に銃殺されている。 僕自身、運転中に殺されかけたことは何度かあり、車と備品の盗難も何度か体験している。
午前5時半合流。 あとは550キロ強、東京から東北自動車道経由で盛岡に到着する距離を、ひたすら走る。 ひとつ間違えば、すべてアウト。
なんとか指定時間前にたどり着くと、間もなく総領事が到着する由。 関係者もざっくりとした段取りしかわかっていない。
押っ取り刀で撮影。 いやはや。
運転疲れ、撮影疲れ。 明日が本番だが、そのミサの段取りもよくわからない。 まずは横になろう。 昨晩から、熟睡できていない。
1月29日(日)の記 ブラザーさん シスターくん ブラジルにて
映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』が日本で公開されたのは、1973年。 試写会か何かでみた覚えがあるが、こっちは高校一年か。 邪気や性欲とは程遠い絵空事のような世界に、それなりに感動した覚えがある。 主人公のフランシスコがカトリックの聖人とされていたことなど、僕の理解を超えていた。
それから40有余年。 ブラジル移民となり、ブラジルの奥地で聖フランシスコの名をいただく新しい修道会が日本人司祭の創設したハンセン病のクリニックを譲り受けて行なうことになった、新たな聖フランシスコ像の除幕・聖別式の撮影をすることになろうとは。
ちなみに聖フランシスコ(フランチェスコ)は1979年に環境保護運動の守護聖人となった。
深夜から、ずっと雨。 佐々木神父の叙階60周年のお祝いの時もなかなかの雨だったな。
タイムテーブルのないミサの撮影、なかなか大変。 その後の除幕式、記念昼食会も、段取りがあってないようなもの。
大きな事故もなく、終わった。 編集作業は、日本から戻ってから。 こちらに来てから、まさしく頭が切り替わった。
さあそろそろ訪日モードに切り替えないと。
1月30日(月)の記 BENJO NO BRASIL ブラジルにて
朝のカフェをいただいてから、佐々木神父とシスターたちに暇乞い。 またお会いできますように。
撮影ミッションを終えての帰路だから、やれやれホイホイ、のはずだが。 盛岡から東京の距離をふたたび運転しなければならない。 撮影をひとつ間違えても自己嫌悪とゴメンナサイぐらいで許されるだろうが(牛山純一門下時代を除く)、クルマの運転はひとつ間違えれば、甚大なことになる。 一瞬でも。 しかも、どこにクルマと日本人狙いの強盗が潜んでいることやら。 それを肝に銘じつつステアリングを握る。
今回は連れがいるため、途中停車が多くなる。 せっかくなので、より話のタネになりそうなところに。
パラナ州からサンパウロ州に入って間もなくのところ。 先回、寄ってみた「ラン園」という名前の休息スペースに寄ってみる。 奥の方にはランの鉢植え群の横に、年代物のタイプライターなど古物がぎょうさん置かれて不思議な時空を醸し出している。
ここのトイレに男女それぞれ「男子」「女子」と漢字の木彫りのプレートが掲げてある。 オーナーは非日系人だが、日本的なものへのシンパシーから知人につくってもらったという。 古物引取り歓迎、とのことだが、だいぶ処分しちゃったし、なにせ遠い。
夕方のラッシュのはじまりつつあるサンパウロに到着。 同行いただいた友と、わが家の近くのカフェへ。 ここのトイレは店でカギを借りて入るシステム。 友人がカギを頼むと、若い女主が「ベンジョ」と言い返したが、彼には聞き取れなかったようだ。
この女主は見た目は小麦色の肌のブラジル人だが、日系の血と苗字を引いている。 「ベンジョ」という言葉を日系の祖先から引き継いできたのだろう。
昨今、祖国ではベンジョという言葉は耳にしなくなったな。
ベンジョは、どこに行った。 ブラジルでベンジョに出会う。
さあ訪日モードに切り替えないと。
1月31日(火)の記 からあげのゆめ ブラジルにて
昨日の運転疲れ、撮影疲れが抜けない。 明日のブラジル出国を前にするべきこと、することが望まれることはいくらでもあるが、気合いと気力が入らない。
そんななか、家庭の必需品、追加の土産物などの買い物。
子供らのリクエストを受けて、夕食に唐揚げをつくる。 翌日のお弁当にも持っていくから、2キロつくってくれとのことで。 鶏肉2キロ購入。
もらいものの抹茶の粉末パックがいくつもあったので、先回は片栗粉に抹茶を混ぜてみた。 悪くはなかった。 今日もそうすっか、と思うが抹茶が見当たらず。 そもそも色はあまりきれいではなかったし。 片栗粉ストレートでいくか。
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