8月の日記 総集編 不受不売の行 (2017/08/04)
8月1日(火)の記 ラ米の先住民をみる きく ブラジルにて
いやはや、メインの作業はいまだ再開に至らず。 たび重なる接客でわさわさしているうちに、サンパウロ ラテンアメリカ映画祭というのがはじまっていて、明日までだ。
いちいち付き合っていたら、とても本業は…と思いつつプログラムを見てみると、ぜひ観たいのが本日かかるではないか。 この機会を逃したら、もうないだろう。 いくか。
夕方からの2セッションへ。 会場は地元に住む友人が危ないと公言する地域で、夜間の帰路の無事を願いつつ。
最初はスペイン語タイトル『Mala Companhias』、「悪い仲間」とでも訳そうか、チリの映画。 サンチャゴで非行を繰り返した少年が、父親とともに辺地に移る。 そこで先住民マプチェの少年と出会うが、彼は地元の高校でひどい差別と嫌がらせを受けていた。 この地方ではユーカリなどの植林が進み、製紙工場の公害も顕著で、当局からも弾圧を受ける先住民たちが抗議活動を始めていた。 いわば青春もので、こうしたテーマに取り組む志の高さ。 監督の Claudia Huaiquimilla は女性で、マプチェの血を引いている由。
本命はスペイン語題『Diarios Guaraníes』、「グアラニーの日記」というパラグアイのドキュメンタリー映画。 パラグアイの先住民グアラニーの小さなコミュニティに寄り添ったイエズス会士 Bartolomeu Meliá が主人公。 彼は先住民の言葉を習得して、その文化の記録に努めていた。 しかし先住民の土地闘争に関与したとして、独裁者だった時のパラグアイ大統領から追放されてしまう。 晩年を迎え、彼はふたたび村を訪ねる。 すでに当時の村人の多くは他界していた。 わずかに残る長老たちと語り合う。 「私はあなたたちから教わるばかりで、なにもさせていただくことができなかった」 「いや、あなたは私たちに愛を、他人を愛することを教えてくれたではないか」
ミッションのあるべき姿を見た思いで、いたく感動。
ぶじに帰宅。 プログラムを凝視するとああ、明日もぜひに見たいのがあるではないか。
8月2日(水)の記 アラウカニア王と郵便受け ブラジルにて
今日までのラテンアメリカ映画祭のプログラムをチェックしていて、ぜひとも観ておきたい作品あり。 チリの映画で、スペイン語の題は『REY』、「王」の意。 1860年に南米大陸の南部で、自らその地の王だと宣言したフランス人の話。 これは実話に基づき、「王」の名はオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナン、日本語のWikiにもあるではないか。 アントワーヌはフランスの弁護士兼冒険家だった人物。 こういう狂気はわたくしの好むところ。
さて映画の方は、僕にはがっかり。 映画の冒頭からはじまる捕らわれたアントワーヌをめぐる裁判シーンは、全員が異形の仮面をつけて演じるのだ。 先住民マプチェの地を訪ねるシーンでは、わざと映像に劣化ふうな効果や、ひどい傷を施している。 初期の記録フィルム的なイメージを狙っているのだろうか。 「アラウカニア王国」の時期は1860年から1862年、「王」がフランスに戻されて他界したのが1878年。 エジソンやリュミエール兄弟による映画の発明は1890年代になってからだから、時代が合わない。
まあ、見ないで後悔より、見ての後悔の方が僕にはありがたい。
帰路、昨日にざっと見て、いたく面白かった中央郵便局の展示スペースでの写真展をふたたび拝見。 Tânia Araujo というブラジル人の女性アーチストによる、ブラジルの郵便受けの写真展。 その多様性に驚くとともに、わたしたちの日常と人生を大きく支えながらも陳腐化、遺物化を迎えつつあるオブジェに心を打たれる。
帰宅すると、奇しくも日本とブラジルの他州から、うれしい手紙が届いていた。
8月3日(木)の記 エンコ採用 ブラジルにて
なんとも盛りだくさんでダイナミックな一日となった。 『ブラジルのハラボジ』の件で、主人公のハラボジのお嬢さんを訪ねることになった。 彼女はミッショナリーとして、まさしく世界中を飛び回っている。 アフリカから戻って間もない彼女を、拙宅から80キロほど離れた山間の地のお住まいに訪ねることに。
彼女に都合がいいという今日・木曜は僕の車のサンパウロ市内乗り入れ規制の日。 午前7時までに規制範囲の外に出なければならない。 早朝の渋滞具合が読めず、ヒヤヒヤ。
からくも脱出。 今度は先方の指定の午前9時まで、時間を潰さないと。 フェルナン・ジアス街道沿いの休息所に寄る。 なんと、会って話したかった日系夫妻にばったり。
さて、今日の訪問先は、ブラジルでいう CONDOMÍNIO FECHADO のなかだ。 これを日本語でなんというか調べてみると、ゲーテッドコミュニティという芸のないカタカタホンヤク語が出てきた。 いわゆる分譲住宅地だが、周囲はしっかりと囲まれてセキュリティが固く、入域のチェックも厳しい。 治安の悪いブラジルでは、こうして安全にカネをかけなければ安心して暮らせないというわけだい。
ゲートでは身分証明書の提示を求められて、そこいらの国の入国審査より時間がかかる。 域内が、また広大。 メイン道路にこそ道名の表示があったが、目的地に近づくにつれて、道名表示どころか道路の舗装もなくなった。 GPS等をもたない旧人は、途方に暮れる。
この先は泥道の急カーブ、そしてひどい登り道だ。 とてもこの先の山に分譲住宅があるとは思えない。 バックをしようとして…はまる。
急カーブの泥道と切通しの間に側溝があったのだ。 バイクのガードマンが見つけてくれたので、助けを求める。 ミッショナリーにも携帯電話で状況を報告、彼女も管理室に連絡するとのこと。 待つことしばし、コミュニティのトラクターと作業者がやってくる。
「エンコ」の語源をかつて調べたが忘れてしまった。 改めて調べると… 「エンジン故障」の略語という説が断定的に掲げられているのが多い。 が、乳児が尻をつけてしゃがみこんでいるのをエンコということから来た、という説もある。 たとえば今回の僕のケースはエンジントラブルではなくて、まさしく車底がつかえてしまったわけだ。 これもエンコだとすると、明らかに乳児語説だな。
ポルトガル語起源説も考えたことがある。 拙作『ブラジルの土に生きて』の主人公、石井延兼さんがトラックが「エンカリャした」云々と話している。 encalhar は(船が)座礁する、はまる、などの意だ。
トラクターに鎖をかけて引き上げてもらう。 とりあえず車軸等への損傷はなかったようで、車は起動。 肝心のミッショナリーのお宅は、まさかの未舗装の山道の上だった。
8月4日(金)の記 不受不売の行 ブラジルにて
明日はサンパウロにて義父の一周忌の法要を執り行なう。 思うところあって、その準備から撮影をしてみることに。 朝のラッシュのなか、車を駆る。
グーグルマップの予想時間よりだいぶかかり、到着宣言時間より遅れてしまう。 ぼちぼちと撮影。 自分を超えたなにかの道具となる思い。
ウケを狙わず、ウリも狙わず。 さあこの映像、陽の目を見るかどうか。 それも僕の意図を超えている。 いとをかし。
8月5日(土)の記 法事のツボ ブラジルにて
ちょうど、一年。 義父の一周忌をサンパウロの妻の実家で執り行なうことに。 して、今日も撮影。 どうツボを押さえるかが、僕の課題。
義母から日本語での挨拶を振られて、ちょうどリオオリンピックの開幕から一年、といった話でお茶を濁す。 まあ、そこそこ撮れたかな。
あとはこの映像が陽の目を見るかどうか、天にお任せ。 人事は尽くし、つつあるかも。
8月6日(日)の記 広島 トレブリンカ ブラジルにて
ブラジルの8月6日。 ブラジル被爆者平和協会最寄りのチャペルでの日曜のミサに預かってみる。 聖職者の日を祝おうという話はあるが、広島と原爆についての言及はない。
おりしもサンパウロ市内で開催中のポルトガル現代映画祭で『トレブリンカ』というドキュメンタリー映画が午後、かかるようだ。 トレブリンカ。 ナチスドイツがポーランドに築いた強制収容所だ。 この収容所で殺害された犠牲者の数だけで、広島と長崎の原爆による死者の数の数倍に及ぶ。
祖国日本の安倍政権は核兵器の使用や拡散に反対するどころか、ナチスの手口に学べとうそぶくという、呪われた存在だ。
映画はポルトガル、ドイツ、フランス、スイスの合作。 現在のヨーロッパの列車と乗車する役者の映像に、トレブリンカの生存者の手記の朗読が流れるという趣向。 今年みたチェルノブイリものでも、こうした手法の映画があり、ひとつのジャンルを形成しているのかも。
もう一本、ポルトガルの劇映画を見て帰る。
8月7日(月)の記 ハラボジ再開 ブラジルにて
さて先週の木曜のミッションの成果を『ブラジルのハラボジ』に反映させる作業。 葛藤とともに字幕を作り直していく。
2件ほど、ブラジルの他州にものを送るための作業、そして郵便局での発送、そして買い物。
『ブラジルのハラボジ』は少しナレーションを施すつもり。 録音スタジオの押さえは、字幕の目鼻がついてからにするか。
今日は断食、夕食の支度はわが子が引き受けてくれた。
8月8日(火)の記 たこめしや ブラジルにて
ナレーションの録音は2年ぶりと思っていたが、3年ぶりとは。 近年、特に短編では加えたい情報をナレーションではなく字幕で施す手法をもっぱらとしていた。 久しぶりにサンパウロの録音スタジオに電話をして、明日午前中に予約。
『ブラジルのハラボジ』はひと通り手直しをして、録音待ちとなった。 すこしブランクのあった『リオ フクシマ 2』の編集作業。 はやくこれがおわるといいね。
明日の録音は量はほんの少しだが、久しぶりだし、そして毎度のことの緊張。
夕食は、先週のタコ焼きパーティで残ったタコのぶつ切りを用いてタコ飯というのをつくってみる。 ネットで調べると、レシピは様々。 チューブのおろしショウガを入れるというのが2つほどあった。 チューブのであるべき理由はありや。 ショウガそのものを切らしている。 ひとひね買ってきて、少量おろして。
ちょっとゴハンが水っぽくなったが、タコ飯、悪くない。 少量ながらのショウガの味わいも効いている。
8月9日(水)の記 私がマカオを最後に見た時 ブラジルにて
さあ久しぶりのナレーション録音。 原稿量は、原稿用紙2枚のみ。 スタジオの彼氏も驚くほど早く終わる。
帰宅後、午後からナレーションを取り込もうとして、慄然。 告白するのも恥ずかしいポカ(語源不明:vacantry説とか、ポカンとしている説とか)をやらかしてしまう。 もう一度、スタジオに、とも思うが、ウルトラC技でお茶を濁すことに。
ポルトガル現代映画祭、もう一本、見ておきたいのがある。 早めに夕食の支度をして、自分が最初にかっくらって、いざ。
日本語訳すると、「私がマカオを最後に見た時」か(原題『A última vez que vi Macau』)。 マカオというのは意外なほど映画等で描かれていないようで、調べてみると007シリーズと映画版『ゴルゴ13』ぐらいのようだ。 スコセッシの『沈黙 サイレンス』にもたしか登場したが、この映画は全編台湾ロケの由。
さて、このポルトガル映画には驚いた。 30年ぶりにマカオを訪れるという主人公の主観で描かれるのだが… 映画の手法として、あっぱれだ。 パラグアイ映画『ハンモック』以来のサプライズと感動だ。 オレにもできるかも、という希望もいただいた。
8月10日(木)の記 お好みでナイト ブラジルにて
なんとか今日中に『ブラジルのハラボジ』の作業をいったん終わらせよう。 主人公の三田ハラボジの発言には、ひと通り日本語字幕を施した。 それを画面の中央下部とせずに、画面上のハラボジの位置の中央下部を原則とした。 いわば、マンガの吹出しに近いかもしれない。 どこを中央としたいかは、その時の気分で微妙に異なってくる。 それに合わせていじり続けていると、底なし沼である。 昨年の『ブラジルの土に生きて』改訂版の作業でも、この泥沼にはまって機械の方が根を上げてしまった。
とにかく、いったん完成させましょう。 また思わぬ間違いをしでかしているかもしれないし。
今日は夕刻から親類筋が拙宅に来ることになっている。 お好み焼きをつくることにしたが、少し新風も取り込みたい。 パルミットと呼ばれるヤシの新芽の瓶詰を買ってきた。 これは、クリーム色。 冷蔵庫にあるブロッコリの緑、パプリカの赤と合わせてヴェジタリアンお好みを焼いてみるか。 ライトな味わいだが、箸休み的に悪くはなし。
8月11日(金)の記 冬の農場 ブラジルにて
今日も思うところあっての撮影。 サンパウロ近郊にある、義父の遺した無農薬農場へ。 これまで野菜づくりをお願いしていた人が、老齢と健康上の問題で農場を出ることになった。 いま、植わっている分が終われば野菜もおしまいという。
冬の乾燥で空気の汚れたサンパウロの街から訪れると、空気、土、緑が実に心地よい。 義父の続木善夫が40年来、無農薬の実感農場として維持してきた農場も、いよいよ終焉か。
撮影をしながら、構成やナレーションが湧きあがってくる。 接写レンズを持ってくればよかった。
8月12日(土)の記 土曜劇場 ブラジルにて
船戸与一さんの『満州国演義』第8巻を読み進める。
昨日、アマゾン地方からサンパウロに到着しているはずの知人からようやく連絡あり。 まずは滞在先にうかがう。 会えば、話は尽きない。 いろいろおもてなしをしたいが先方の親類、そして連れもおられるので、むずかしい。 先方の高齢と体調のこともある。 いったん失礼して、先方が欲しがっていたものを店を回って探してみることにする。
午後9時開演の舞台へ。 邦訳すると『ヒロシマの3人の被爆者』。 ブラジル被爆者平和協会の森田隆さんら3人の被爆者が「出演」する出し物。 バイオ・ドラマとかドキュメンタリー演劇といわれる範疇らしい。
僕の顔見知りの3人の被爆者がポルトガル語で体験を語り、寸劇まで演じる。 そして演出担当らしい日系ブラジル人の俳優が、シリアの難民まで散りばめた映像をバックに戦争反対のメッセージを観客席をにらみつけながら延々と語るという趣向。 冒頭で被爆者平和協会は核兵器だけではなく、核の平和利用にも反対するとうたわれながら、福島の原発事故のこともブラジルで稼働中の原発についても語られることがない。 実際の被爆者に、それに幼少で当時の記憶のない被爆者にも、両腕を延ばしてさまよう被爆者を演じさせるという演出は、とても僕にはできないワザだ。 森田さんは齢93、ごくろうさまでした。
8月13日(日)の記 遅々として ブラジルにて
今日のブラジルは、父の日。 連れ合いの実家で、父の日と姪の誕生祝いを兼ねた昼食会。
自分自身は父として、情けない限り。 亡父を想う機会か。
帰宅後、家族は皆おなかいっぱいの由。 うむ、父はなにか醤油味のものが食べたい。
ブラジル製の残りの乾麺のうどんをゆでる。 ブラジル製醤油、ブラジル製米酢とネギでいただく。 出し汁でいただくより、酢醤油で食べたかった。
酢醤油うどんについて、少し検索。 旅の弘法大師を、讃岐でこれでもてなしたという説もあり。 柑橘系でいってみるのもよかったな。 アルコールは、ブラジル産柑橘系を絞っていただく。
8月14日(月)の記 待機晩成 ブラジルにて
一日断食は、明日にしよう。 今日はアマゾンからの客人のおもてなしを想定して。
客人は午前中、東洋人街にお孫さんらと買い物に出るという。 頼まれものをお渡しする用事もある。 宿泊先に落ち着かれたら電話をいただくということになった。
週末で滞ったメール連絡などで、けっこう時間が経過。 郵便局で書留便送りと、近場の買い物。 『リオ フクシマ 2』編集作業再開。
客人からは昼過ぎまで連絡なし。 カフェにご案内するか、あるいは夕食に大衆シュラスカリアか、ブラジリアン「すき屋」か。 月曜なので、最寄りのミナス料理店など、休みのところが多い。 家族の夕食は準備しないと。
客人から電話をいただいたのは、夜8時過ぎ。 明日は午前4時台に僕が迎えにあがって空港にお連れする約束をしたことの確認だった。 明朝は犯罪都市での、尋常ではない時間の出動なので、僕も実は緊張している。 先方は齢80代、これからの外食は、なしということで。
待機していて晩となる、これがホントのタイキ晩成。
8月15日(火)の記 サンパウロのいちばん早い日 ブラジルにて
枕元の目覚まし時計の具合が悪いので、もうひとつのを電池を替えて仕掛けておいた。 午前4時ちょうどに。
小心ゆえにこういう時は眠りが浅く、午前2時ぐらいから覚醒してしまう。 もう3時半過ぎか、起きてしまおうと思ってパソコンの前に坐ると、まだ2時半ではないか。
4時すぎ、ひとけのないガレージにおりて車を起動。 町も見事に無人。
あ、車道をうごめく人影が。 このあたりでは老舗の路上生活者だ。 預言者ヨハネを路上生活者にたとえる話を聞いたことがあるが、まさしくその風格がある。
4時半とお約束していて、数分早く到着するが、先方はすでに宿泊先の屋外柵内の暗闇で待機していた。 荷物を積んで、アマゾン移民の二人を乗せてコンゴニヤス空港へ。 車内、話は尽きないが、空港カウンター前に到着。 駐車場からだとまた距離があるので、ここに直接、お連れして暇乞い。
日本人の老女二人であり、空港内の犯罪者が心配。 先方は、いち早くチェックインを済ませて搭乗口で待機していたいことだろう。 これから駐車場まで行って車を置いて、また戻ってくるとなると、お待たせしてその間に物取りにやられないとも限らない。 そのあたりも考慮しての決断。
こちらも襲われずに、夜も明けずにまだ家族が寝静まっている間に帰宅。 こうした深夜に車を出して、怪人二人に襲撃された体験があるのだ。
仮眠を経て、『リオ フクシマ 2』編集作業の再開。
夜、アマゾンの移住地からぶじ帰宅したとのお電話をいただき、安心。
8月16日(水)の記 翌日の祈念 ブラジルにて
サンパウロは、また寒さがぶり返してきた。 ビーフシチューでもこさえてみるか。 ネットでいくつかレシピを調べる。 出来合いのデミグラスソースなしで、どう対処するか。 赤ワインをたっぷり使用、か。 肉野菜の買い出し、よりワインの安いところへの買い出しと二度、買い物ブギ。
昨日は未明の護送ミッションに集中しすぎて、8・15を失念していた。 ネットの動画で、関連番組をいくつか視聴。 思うこと、多々。
ビーフシチューは、まあいい感じにできた。 色味がイマイチなのは、特売のトマトピューレのせいかな。
8月17日(木)の記 氷雨床 ブラジルにて
顔剃り・蒸しタオル・マッサージ込みの日本式散髪をサンパウロでとなると、事前予約となり、なかなかかなえられないでいた。 今日は、思い切って。 午前11時に予約。
地下鉄代を払ってダウンタウンまで出るので、散髪の前に朝イチで美術展を見ておこう。 ゴヤの、直訳すると「知らされた狂気」、ネットで調べると日本では『妄』と題された晩年の版画シリーズ展。 これは解説を読みこまないと、なんの寓意化もわからないぞ。
外は、冬の雨。 待ち人、来らず。 床屋さんの隣の日系のバールでカフェを飲んで待機する。 店が混み合い、カフェ一杯だけの貧客は席を立つことにして、床屋さんの軒下で待機。 気分は、となりのトトロ。
8月18日(金)の記 行李と茶箱 ブラジルにて
連れ合いの実家での明日の行事のことで、朝から実家へ。 段取りがいろいろと変わって、こちらの撮影計画も臨機応変に。 今日も、尋常ではない「撮れだか」。 祖国はお盆時期なだけに、祖霊がこちらにも来たかな。
行き帰りの運転もあり、そこそこ疲れる。 夜は、スパゲティカルボナーラとする。
さあ明日は、峠だぞ。
8月19日(土)の記 投げ入れで ブラジルにて
寒い、そして雨。 今日は連れ合いの実家でのお祝い事。 思うところあって、撮影をする。
会場でお花をいけてくださる師範を車でお連れする。 この方とは古くからの知り合いだが、お花の話をあまり聞く機会がなかった。 今日は道中もあり、会場での撮影もさせていただいたので、いろいろうかがうことができた。 この先生は、剣山などを用いずに花を投げ入れるようにいける「投げ入れ」という手法をとられている。 生け花では正面を設定している場合が多いが、彼女のはいろいろな角度から見られることを想定しているという。 雨天だと、投げ入れの植物にはいいそうだ。
学ぶこと、多し。 ヒヤヒヤの事態もあったが、歩留まりは撮れたかな。 「ぶどまり」を調べてみると、僕がギョーカイで使ってきたのと少しく意味合いが異なるみたいだが。 最低限は押さえた、という控えめな表現で僕は使っているのかな。
8月20日(日)の記 ミナスの鐘 ブラジルにて
今日も雨がち、寒し。 路上市の魚屋さんでは… 昨日、だいぶ刺身はいただいたので、今晩はパエジャでもこさえるか。 イカとエビのパックをそれぞれ購入。
文庫版にして全9巻の大作、船戸与一さんの『満州国演義』を読了。 一年半ぐらいかけたかな。 読了後の寂寥感を恐れていたが、船戸さんが遺してくれたものをまた読み返そうという思いに。
あまり外に出たくないが… 思い切って気になるドキュメンタリー映画を見に出る。
『O SOM DOS SINOS』、「鐘の音」というタイトル。 ミナスジェライス州の歴史都市のカトリック教会の鐘がテーマ。 40タイプほどの鐘の「叩き分け」があり、歴史遺産にも指定されたという。 朝晩の時の音のほかに、祭礼、葬儀などで叩き方が違うのだ。 これは驚き。 息を呑む音楽、アートの世界だ。 日本のブラジル音楽好きにも、教会の音というジャンルは注目されていないのではなかろうか。 そもそもブラジルでも陽が当たっていなかったのだ。 映画そのものは、今どきの映画祭の審査員ウケを狙ったようなつくりで、映画だけでは基本的なこともわからないのだが。
二人の女性監督による作品で、上映前後に登壇してのトークと質疑応答あり。 スポンサー探しの苦労話が多い。 まあ僕はこのプロセスをあえてぶっとばしているので、経済的には追い込まれて家族には申し訳ない限り。 さて、と。
8月21日(月)の記 食堂にたとえると ブラジルにて
ちょっとややこしい問題発生。 食堂にたとえてみよう。
料理分野を専門にする自分が、古くからの知人がスタッフとして働くことになったレストランに行ってみたとする。 勘定は、自前で。 老齢を迎える知人が店員として奔走するのは、胸を打つ。 しかし店の経営方針、内装、そしてせっかくの食材の料理方法、さらに化学調味料たっぷりの味付けがいただけない。 「おすすめ・地魚定食」というのを頼んだら、地魚に混じってチリ産養殖サーモン、ロシア産イクラが乗っかっているではないか。
自分も料理関係者として、知人には申し訳ないが、ちょっと不特定多数にこのお店をすすめることはできない。 しかし同じく食を求道する仲間たちとは、こういう店のあり方が許されるかどうか、意見を交換したい。
僕が8月12日に見て、その日付のウエブ日記に記した邦訳すると『ヒロシマの3人の被爆者』という出し物の問題は、そういったところだろうか。 この劇場に、ブラジルに来たばかりという若い邦字新聞社の記者が来ていて、終了後に僕がインタビューを受けて感想を求められた。 この日のウエブ日記に書いたのと同様の発言をした。
ところが18日付けの『サンパウロ新聞』の記事で僕の実名の発言として「被爆者が演じる点を見てほしい」とあるではないか。 もちろん記者に悪意はないだろうし、高齢をおしてこうした舞台に立って奮闘する被爆者の方々には胸を打たれる。 しかし、不特定多数の方々に僕が実名で「見てほしい」とは言いかねるのだ。
僕はこれまで、友人知人から、そして恩人からでも書籍や映画の推薦を頼まれても、その作品に自分が本心から感動して、他人にすすめたいと思えない場合は相手との人間関係が悪くなろうとも失礼してきた。 ブラジル、被爆者、あるいは僕の名前で検索をするとこの記事がヒットする。 なんだ、オカムラという輩はこれまでの日本での言動とは異なることをのほほんとブラジルの邦字紙でうそぶいているではないか、ということになってしまう。
この出し物の基本的な問題については、8月12日付拙ウエブ日記で指摘したとおりだ。
3人の被爆者は冒頭でひとりずつ、自分は「本物の」被爆者だ、とポルトガル語で宣言する。 「本物」と自らうたった被爆者が、自分の体験していない、メディアで流布するステレオタイプな被爆者群像を演じる、というのは僕には疑問である。 これはあくまでも演じた被爆者の責任ではなく、演じさせた演出家の問題だが。 「ホンモノの地魚定食」のなかに養殖魚が入っていてもいいのかどうか。
そして「本物の」犠牲者にその惨状の被害者を演じさせるという表現者のあり方に大いに疑問を感じている。 同じく第2次大戦時の被害者を例に考えてみよう。 ナチスの強制収容所の「本物の」生存者に、ガス室でもだえ苦しんでいく犠牲者たちを演じさせられるかどうか。 日本軍の従軍慰安婦の生存者に、日本軍人たちとの慰安婦としての営みを演じさせられるかどうか。 沖縄の地上戦で家族が集団自決を強要されるなか、奇跡的に生き延びたが幼少のため当時の記憶がない人に、集団自決を演じさせられるかどうか。
僕はこの芝居を見ながら、19世紀のヨーロッパの博覧会で見世物にされた南米の先住民たち、そして20世紀の日本の都市部で見世物にされた北海道や台湾の先住民の人々のことを想っていた。
さて、当日の公演では観客に日本人一世らしいのは邦字紙記者の彼氏以外には見当たらなかったし、まずこの記事を読んで岡村がすすめているから、とこれからの公演に来る人がいるとは考えにくい。 先述のように悪意のある話ではないので、邦字紙そのものにわざわざクレームをする必要もないだろう。 僕の方はネット上などでこの記事を見るかもしれない友人知人へのエクスキューズとして、この公演をすすめる発言はしていない由のメッセージをツイッターとフェイスブックで発表しておいた。
するとさっそくサンパウロ新聞の担当記者とデスクのそれぞれからお詫び、そして訂正記事を掲載したいというメッセージをいただいた。 わざわざ訂正にはおよばないと申し上げたが、「言っていない発言を載せてしまった自分たちの信用にかかわるので」と譲らないデスクに感動。
僕としてはブラジルの被爆者の皆さんを応援してきただけに、どのようにしていただくかがむずかしいところ。 担当記者、デスクと何度ものやり取りの末、「高齢の被爆者の方々の舞台での奮闘に胸を打たれたが、被爆者自身の証言と演技を混同する演出には疑問を持った」という発言に訂正していただいた。
いったい何が問題なのか、それほど問題にするほどのことなどか等々、この出し物に関心を持たれた方には、どうぞご自身で足を運んでお確かめいただきたい。 今月26日にもサンパウロ市で公演あり。
オンライン版はさっそく訂正されて、紙面では明日付で訂正記事を掲載する由。 想えば日本でいろいろなメディアからけっこうでたらめな扱いを受けてきた。
間違いは、やむを得ず生じてしまうことがある。 それをごまかさず、逃げずに誠意をもって敏速にこれだけ対応していただいたことが、他にあっただろうか。
日本のメディア関係者に見習ってもらいたい。 まずは安倍晋三内閣総理大臣とその取り巻きに。
さあ、このあたりで他人様のお仕事の云々は控えさせていただき、自分の作業に取り掛からせてもらいましょう。
8月22日(火)の記 本業にたどり着くまで ブラジルにて
まずは、郵便作戦から。 訳あって、さるこちらの知人のご先祖の、関ヶ原の戦い以前からの過去帳をコピーして日本の専門家にお送りすることになった。 お預かりした変形A4サイズのコピーを7枚にわたって糊付けしたものを昨日、改めてコピーして切った貼ったを行なった。 まあ、ひと仕事だった。 今日は添え状を書いてコピー群ととともに大型封筒に収めて、郵便局に持ち込み書留便にて日本に送付。
郵便局には薄い文庫本を持参したが、今日は珍しくそれを開くまでもなかった。
本日付のサンパウロ新聞の訂正記事を確認のうえ、昨日分のウエブ日記をしたためる。 あの舞台を見て考えたこと、記事に書かれた僕の発言を見てから考えたことどもを、ひと通り綴る。
さてさて。 午後もだいぶ進んでから、ようやくメインに取り組むべき『リオ フクシマ 2』の編集作業再開。 これはいつになったら目鼻がつくだろうか。
8月23日(水)の記 思惑交錯 ブラジルにて
さてさて。 これから手掛けてみたいと思っている拙作は、こちらの撮影させていただきたいことと先方が伝えたいことにズレがある。 それを縫っての 解:快 をあみだせるかどうか。 するべきことをして、あとはなにかにお任せするしかない。
『リオ フクシマ 2』の編集もすすめないと。 ナメクジの歩みだな。
アフリカからアマゾンに渡ったプロテスタントの女性ミッショナリーからメールをいただく。 その直後に、ブラジルから日本へ一時帰国中のカトリックのシスターからメールが届く。 面白い連鎖だ。 このお二人、だいぶキャラクターは異なるけど。
8月24日(木)の記 原爆の本当の父 ブラジルにて
まずはカードを2枚ほどしたためて、郵便局に投函に行く。 日中は『リオ フクシマ 2』の作業。 いまの作業はいわば、粗編(あらへん)ということになるかな。
モチ米が少し残っていたので、鶏おこわを夕食にこさえる。
さあ今日は夜9時から『O VERDADEIRO PAI DA BOMBA ATÔMICA』:原子爆弾の本当の父、というタイトルの舞台がある。 先々週に見て、僕のコメントが邦字紙に取り上げられた件で拙ウエブ日記にも紹介した『ヒロシマの三人の生存者』と同じく「平和を舞台で」シリーズの出し物。 『ヒロシマ…』は全3回、公演が行われるが、今日のはこの1回だけだ。
この芝居はブラジル人の劇作家 Murilo Dias César の作で、芝居としてはまだ未公開、2度の読み合わせが行なわれただけだという。 今晩も読み合わせの公開だ。 演出家を含めて7人が舞台にあがって着席、それぞれが台本を読むという趣向。 これがなかなかに面白かった。 そもそも科学者と原子爆弾の話だから、日本語で聞いても理解がむずかしいだろう部分もあるのだが。
原爆の真の父とされるハンガリー人の科学者、レオ・シラードが主人公。 日本語で検索してみると、そこそこの情報があるが理解と把握が難しく、これを演劇の脚本としてまとめるというのは、あっぱれだ。 ネットでざっと調べただけではわからないシラード夫妻のこと、チェスのエピソードなどは、なるほど芝居というのはこうして紡いでいくのかと感心する。
舞台でまさしく「蛇足」なのは、音付けした当時の実写動画の投影。 これは最近見たブラジルのいくつかの舞台で感じたこと。 演劇人が舞台で実写映像をそれこそ添え物的に背景に投影するのは、自分たちの表現が実写映像にはかなわないことへの陰湿な復讐ではないかと思えてくる。 きちんと対峙してはかなわない相手を目隠しして、手足も縛って方向感覚も失わせてから、舞台でなぶりものにするような。
この読合わせは、ラジオドラマのように音で聴いているだけでも、そこそこ面白かった。 『ヒロシマの…』に関する僕のコメントが邦字紙に掲載される事件がなかったら、わざわざ今晩の舞台を見に来なかったかもしれない。 ちなみに今日の公演には被爆者の方々やブラジル被爆者平和協会の方々はいらしていなかったようだ。
レオ・シラードについては著作も含めて日本語で何冊か出版されていることを知るが、すべて絶版。 古本ネットでけっこういい値段である。 日本在住なら、図書館で借りて読むという方法があるのだろうが。
8月25日(金)の記 搾りだし編集 ブラジルにて
さてさて。 『リオ フクシマ 2』は素材の整理というか、アラヘンまでをなんとか終了。 さあ、どうつなぐか。
ちょこざいなことも少しは考えてはいたが、とにかくつなぎ始めてみる。
しばらく放置していた歯磨きチューブや糊の容器を、力づくで絞り出す感じ。
うーむ、荒々しいが、そもそもこれが僕のスタイルかも。 撮った順、時系列で。 まずはお話の語り口も考えつつ。
忘れていた当時の不愉快な記憶も再生されるが、まあそれはこらえてこらえて。
いつ頃までにカタがつきそうか、どれぐらいの尺:時間のものになりそうかは、さてさてどうなるか。
8月26日(土)の記 土曜読本 ブラジルにて
今日は年に一度の、ブラジルのマクドナルドのハッピーデイ。 この日のビッグマックの売り上げは、すべてブラジルの小児ガン関係の医療施設に寄付されるという。 今年で、29年目。 わが家から健脚コースにあるマクドナルドへ、子供と徒歩にて昼前に出向く。 これまでほどの人出はない。 いままではトレイの敷紙に昨年はいくらの売り上げでどこの施設に…といった明細も書かれていたが、今年のには具体的な数字は29年目、というのしか見当たらない。 結果が固有名詞や具体的な数字でわからないと、こっちのモチヴェーションも弱くなる感じ。
午後は、気ままに読書とさせてもらう。 宇井眞紀子さんの写真集『アイヌ 100人のいま』(冬青社)。 これは、すごいお仕事だ。 日本全国に住まう100人にわたるアイヌ系の人たちの写真と、それぞれからのメッセージ。 被写体の人々も見事に多様だが、写真の構図そのものも見事に多様なのだ。 この多様性こそが、宝ではないかと気づかせてもらう。 写真家とひとりひとりの方々の間に流れたやり取り、時間、信頼関係がよくうかがえる。 これは、並大抵なことではない。 いいお仕事だ。
東京都で撮影された方の言葉を引用させていただこう。 「子供の頃は嫌でしたが、今はアイヌに生まれたことを宝クジに当たった様に嬉しく思っています。幸運でした。」
8月27日(日)の記 ハンガリアンネーム ブラジルにて
ふしぎとハンガリー人の名前のことが重なる。 「原爆の真の父」レオ・シラードは日本語でジラートとも表記されるそうだが、スペルは Leo Szilard 。 スペルだけでは、読みこなせないな。
昨晩から、ハンガリー人のカトリック司祭の名前のことで日本の知人とやり取り。 スペルは Peter Nemeshegyi 。 ペトロ・ネメシェギ と日本語で表記されるのがふつう。 日本で40年以上にわたって奉仕され、日本語の著作も多い。 先月、フマニタスにご案内した人も、フマニタスの佐々木治夫神父自身もこのネメシェギ師にお世話になっていたという奇遇。 それも、僕が後でほじくり出してわかった。
僕は名前だけは存じ上げていたが、メネシェギだと思っていた。 メネシェギで検索してみると、ネメシェギ師のことをメネシェギと誤記しているものが複数、見つかるではないか。 昨晩、メールをくれた日本の人も、師と間接的につながるとのことだが「メネシェギ」とあった。 ネメ より、メネ の方が日本語圏のアタマにはなじみやすいのだろうか。
ハンガリーについてWikiなどで見てみると、知らないことばかり。 正式な国名は Magyaroszág 、マシャロルサーグとカタカナ表記するようだ。 温泉文化の国とあり、いっきに親しみが増す。
さてハンガリー、漢字一文字表記だとなんだろう。
「洪」とある。 ハンガリー語の読み並みにむずかしいな。
8月28日(月)の記 月曜のつむぎだし ブラジルにて
土日と二日間、ブランクが空くと… 改めてビデオ編集に向かう意欲が、なかなか。 なにか口実をつくって今日もう一日サボッちゃおうかとも思うが、それを繰り返していると、あとあとが…
自分を追い込んで、しぶしぶでれでれと。 いきなりややこしいシーンであり、ヤマ場であり、撮影当時を想い出すと怒り、そして汗顔の至りで。
こっちの編集も、さっそく字幕も入れてみてナレーションも書き出しながらという手法。 ふむ、想定ほどの著しい困難はないかも。
さて、今日も一日断食。 家族には、チキンの香草漬けオレンジ果汁合わせをこさえる。 それに、多量にやってきた日本タイプのホウレンソウの卵炒めなど。
8月29日(火)の記 Nheengatu ブラジルにて
ナメクジの歩みのビデオ編集と並行して、遅ればせながら先回、日本でお世話人った方々へのメールを五月雨式に送っている。 さっそく返信をくださる方が少なくなくて、またまた恐縮。
京都での上映に来てくれた方からのご返信で思い出した。 その人は日本で Nheengatu というアマゾン地域の先住民の言葉を習っているとのことで、それにはたまげた。
Nheengatu語はブラジル国立パラ大学で講座があるとのことで、僕はてっきりアマゾン中下流域に位置するパラ州に居住する少数民族の言語かと思っていた。
調べてみてびっくり。 この言葉はツピー語のなかに属し、ブラジルの他にコロンビアとヴェネズエラの先住民によって使用されている。 そしてブラジルのアマゾナス州のサン・ガブリエル・ダ・カショエイラ郡ではポルトガル語とともに四つの公用語のひとつとされ、この地域の四分の三の人々が使用しているという。
このサン・ガブリエル・ダ・カショエイラに、僕ははじめてのブラジル取材の時に訪ねているのだ。 西暦1983年。 『すばらしい世界旅行』「私は(インディオ)保護官を殺した」シリーズの取材でブラジル入りした僕に、東京からテレックスが送られてきた。 そのままカメラマンとともにブラジルに居残って、今後の指示に従って新たな取材を企画して撮影に入れという。
東京からの作戦指示は「アマゾン河口-源流」シリーズ。 アマゾン河の河口から源流までたどるという設定のもとで、様々な生物を取材セヨという。 大アマゾンの源流といえばペルーのアンデス山系だが、取材はブラジル国内限定、という条件付きだ。
お話はまずは地元の客船でさかのぼるという設定だが、取材期間はひと月。 僕はディレクターという肩書きながらサンパウロでの税関手続きのため、取材現場に立ち会えたのは2週間程度だった。 そのなかで、実際に客船で移動している時間などはあり得なかった。 ブラジル領アマゾンの中心都市マナウスから当時、定期便のフライトでいける最も離れたところがサン・ガブリエル・ダ・カショエイラだったのだ。
ろくに情報もないまま、ブラジル国内でのアマゾンからの源流を求めて「滝の聖ガブリエラ」と名付けられたネグロ河水系の、この地を訪ねたのだ。あわただしい滞在だったが、その不思議な光景は僕のなかに焼き付いている。 近年になって、この地域の先住民が自分たちの言語で作成したビデオを見る機会があった。
この言語の存在を知っている人は、ブラジル人でも1パーセントもいないことだろう。
今回調べていて、ブラジルでポルトガル語以外を公用語にしている自治体が他にも二つあることを知った。 そのひとつはこの新年早々に訪ねた Pomerodeで、ドイツ語が公用語とされている。 ブラジルでも日本人の自画自賛は盛んだが、こういうところには影を潜めているのが泣かせてくれる。
8月30日(水)の記 大菩薩峠の希望 ブラジルにて
今日は昼から、サンパウロ市近郊の方のお宅を訪ねることになっている。 自分で運転して行ってみるのは初めてのところで、紙版とネットで道順をあたっておくが、それでも緊張。 平日の日中の大サンパウロ圏でのクルマの運転は、なかなか疲れる。 これが仕事ならともかく、自分の仕事になるかどうかもわからないことのための運転である。
しめて、往復の運転が2時間、先方での滞在が2時間。 そこそこに撮影もさせていただくが、どうなることか。
希望は、「大菩薩峠」。 田上正子さん発行のガリ版刷りミニコミ『あめつうしん』305号の巻頭は中村啓治さんという方の書かれた「『大菩薩峠』の悦楽」。 これが読みたかった!という気になる、まさしく僕のための記事で、わが意を得たり。
文庫版で全20巻という中里介山の大著『大菩薩峠』に手を出そうと思いつつ、しそびれていた。 ブラジル住まいが基本の身として、まずは日本で購入の要あり。 船戸与一さんの大著『満州国演義』を読了したところなので、その空白感を埋められそうだ。
「 この小説には軸となる大きな事件があるわけではないからいわゆるヤマ場はない。数えきれないほど多く(200人前後か)の登場人物が次々に主役の座に据えられて、エピソードを連ねていく。だから作者は随所で、自由に、ストーリーとはほとんど無関係な、脱線ばなしを挿入している。」 前提「『大菩薩峠』の悦楽」より。
いま、僕が手掛けようとしている記録は、さすがにそれだけの登場人物はなさそうで、ストーリーとほとんど無関係なエピソードもなさそうだが、それに近いものを想定している。
田上さんによると、田上さんまわりに複数の『大菩薩峠』オタクがいるので、その代表の中村さんに執筆を依頼したという。 振り返るに僕が『大菩薩峠』を読んでみようかと思ったきっかけは、NHKの伝説的な長編ドキュメンタリー番組『大菩薩峠』だった。 作り手の奔放さ、そしてこだわりのほどがあっぱれだった。
この番組の存在が、僕のいまの企画の支えかもしれない。
8月31日(木)の記 むらさきだちたる ブラジルにて
まあ食事中に拙日記を読まれる方も、あまりいないとは思うが。 常にも増して尾籠な話をさせていただくので、お好きでない方はお読みにならないでいただければ。
便通の話である。 昨日朝、紫色を帯びていて驚いた。 ネットで調べると、紫色の便は血便の疑いあり、直ちに病院へ!というのがある。 いっぽう食べ物の色素の可能性が多い、というのがある。
思い当たる節あり。 昨晩、一杯分ごとの袋詰めになっている台湾製のお茶をいただいた。 漢字表記と英語表記を参照すると、デーツと黒豆を用いている。 パッケージそのものも紫色基調で、デーツの紫の色素の可能性が高そうだ。 あまり心配せずに一日、様子を見よう。
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