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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2017年の日記  (最終更新日 : 2018/01/02)
12月27日(水)の記 サルガドとコルボ

12月27日(水)の記 サルガドとコルボ (2017/12/29) サルガドとコルボ
ブラジルにて


『リオ フクシマ 2』の作業がほぼ一段落つき、たまる一方の新聞類のチェックを合間を見ておこない始めた。

12月17日付サンパウロの大手日刊紙 FOLHA DE S.PAULO の日曜版一面トップの写真にたまげる。
ひと目でわかる大サルガドの写真、しかもかつて僕が『すばらしい世界旅行』時代にアマゾンの未接触部族として取材を試みた korubo の人たちだ。

サルガドがアマゾニアと題したプロジェクトに取り組むとは知っていたが、コルボだったとは!

この日のフォーリャ紙には、10ページにわたるサルガドとコルボの特集があった。
この日は早朝から焼き物師の鈴木章子先生のお宅までビデオカメラを担いでうかがい、へろへろになって帰ってきたので当日の新聞の表紙すら見ることがなかったのだ。

特集の見出しは「彼らはおびえている」。
サルガドが自分の最後の大仕事として、苦行に近い場所に自分を追い込むのは、このこと:コルボの人たちが材木盗伐者や金掘り(ガリンペイロ)たちによる侵略や襲撃に脅かされていることを訴えたいからだろう。

僕がコルボと縁を持つのは、日本映像記録センターのスタッフ時代、はじめてブラジルに派遣された1983年のことだ。
牛山純一プロデューサーの狙いは「私は保護官を殺した」と題されるシリーズとして、アマゾン先住民によるインディオ保護官らの襲撃事件を取材することだった。
先にアマゾン入りしていた先輩ディレクターは、若輩の僕にワイミリ・アトロアリとコルボの取材を命じた。

メインの取材は、アマゾナス州州都マナウスの北部を居住地とするワイミリ・アトロアリだ。
彼らのテリトリーに国道を築こうとするブラジル工兵隊との闘争により、両者に相当数の犠牲者が出ていた。
その後、「文明側」との接触を拒んだワイミリ・アトロアリの動向はわからなくなっていたが、生き残った若い世代の一部がインディオ保護局の接触に応じるようになっていた。
先住民に殺された保護局スタッフの遺族へのインタビュー、新たな前線基地での接触活動の「再現」など、重くむずかしい取材だった。

次にわが取材班が訪ねたのは、ブラジルとコロンビア、ペルーの三国国境地帯のアマゾン最奥部だ。
そのさらに奥の奥を居住地とするコルボは、ナゾの部族としてインディオ保護局のスタッフにも恐れられていた。
毛髪を刈り上げ、弓矢を使わず棍棒を武器としていることが知られていたが、彼らの領域を材木盗伐人たちが入り込み、調停を試みたインディオ保護局のスタッフがコルボの棍棒で撲殺されるといった事件が生じていた。

放送日も間近に迫ったテレビ取材の我々の限られた取材日数では、当時のコルボ接触活動最前線基地までたどり着くこともかなわなかった。
大アマゾンの支流の支流が頭蓋骨の縫合線のようにジグザクを繰り返す細流を、モーターボートで何日もかけてさかのぼらなければならなかったのだ。
我々がたどり着けたのはかつての襲撃事件のあった現場までで、あとは前線基地のスタッフへの無線によるインタビューなどを取材したが、中途半端までもいかないコルボのくだりは、放送に用いられることはなかった。

その後も続いた当局による接触活動により、我々の取材から10数年を経て、コルボの一部との平和裡の接触活動が成功していたのだ。

サルガドは密林のなかにトラックの荷台を覆うシートを担ぎこみ、それでスタジオをこしらえてコルボの人たちのポートレイトを撮影した。
レンズとサルガドを見据えるコルボの人たちからは、まぎれもない尊厳が伝わってくる。

はるかなる大サルガド。
せめて、サルガジンニョのまねごとをしてみたい。
(サルガジンニョはポルトガル語で「小さいサルガド」の意味で、小腹がすいた時につまむスナック菓子のことでもある)
前世紀から、こんなことをつぶやき続けている。


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