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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2020年の日記  (最終更新日 : 2020/12/01)
2月の日記 総集編 ブラジル楯状地のはてに

2月の日記 総集編 ブラジル楯状地のはてに (2020/02/18) 2月1日(土)の記 セッパラム
日本にて


朝、広島を発つ。
大阪の桃谷駅で猪飼野セッパラム文庫の藤井さんが待機していてくださる。
セッパラムとは朝鮮語で「東風」のことだそうだ。
https://sepparam-bunko.jimdofree.com/
チャリの荷台に荷物を載せてもらって、付近のトポグラフィーの説明をいただく。
なるほど、大阪市中にこんな台地があるとは。

まさしく本で潰れるほどのセッパラム文庫に荷物を置かせていただき、自転車にて付近を案内していただく。
この歳にしてはじめて猪飼野コリアンタウンに入域かなう。
東京の新大久保だけではなく、知っておきたいスポット。
日韓はなんとも密で濃い。

しばらく石鹸で洗顔をしていない。
付近の銭湯を教えていただき、夕方の打合わせ時間まで徒歩で付近を回る。
鶴橋駅近くの「母の味」と書かれたオモニのお店で遅い昼食。
オモニたちと盛り上がる。
打合せ時間を遅らせてもらって、ようやく入湯。

富山妙子プロジェクトの徐さんとセッパラムで再会、打合わせ。
土曜午後のみオープンのセッパラム文庫の閉庫時間より、富山妙子関連作品のクローズド上映会。
非公開上映会ながら、後悔しないぎっしりの人たちにお集まりいただいた。
在日コリアンの、当事者としての声を重く受け止められる。
高飛車の断罪発言までいただくが、アウエーの地でもあり、気色ばらずに収める。
終電時刻で人が少しずつ欠けていくなか、今日も残ってくれた人たちが盛り上がり続けてくれた。


2月2日(日)の記 鳥取倉吉の目高
日本にて


昨晩は猪飼野セッパラム文庫に泊めていただいた。
未明に出発。
大阪駅より特急で、鳥取倉吉へ。

倉吉駅に鳥取のアーサ王と呼ばれる主催者が待機してくれていた。
まずはアーサ邸で洗顔させてもらう。
さっそく午後の上映会場、倉吉ブックセンターで機材セッティング。
お気に入りの志ある書店での上映がかない、うれしい限り。

岡山のシンパ赤木さんに教えていただいた近くのお店でこだわりのカレーをいただく。
ひと足先に会場に戻り、戦前に両親がブラジルに移住していたという方のお話をうかがう。
今回、チョイスしてもらった作品は、
『未来のアミーゴたち』
『ブラジルの土に生きて』の2本立て。
ほどよい数の方々にお集まりいただいた。

お手洗いは至近の無料で鑑賞できる歴史建造物のものを使わせてもらう。
用足しから戻って倉吉ブックセンター店主の円谷さんが選び抜いて並べた本を見やる。
すでに知的好奇心も枯れてきている僕でも手に取りたくなる本が何冊もある。
荷物料、金額も考えてセレクトしていると…
沖縄産のヒーリングについて書かれた本を買うべきか迷う。
円谷さんが「お目が高い!」。
目利きの本のソムリエにそんな言葉をいただいてしまっては、買うしかない。

上映と質疑応答をつつがなく終えて。
けっこうな量になった購入本の束を円谷さんは伊藤若冲の絵柄の風呂敷で包んでくれた。
こうした演出と気配りが心憎い。

アーサ王夫妻が選び抜いた懇親会場は、なんとラーメン屋さん。
ここ15年程のライブ上映歴でも、ラーメン屋での懇親は初めてかと。
このラーメン屋さんが楽しかった。
なんと、鉄道仕立てなのだ。
それでいて、鉄道仕立てをウリにするわが地元祐天寺のカレー屋より3倍以上はゆったりとしている。
東京の満員電車とオリエント急行、とまではいかないが、それぐらいの比喩をしたいぐらいのゆったりさ。
地元で知る人ぞ知るというミュージシャンのマスターも、腰が低く気が利く。
これまた東京あたりのえらそうなラーメン屋とは、東京都と鳥取県の人口に反比例したような差がある。

いろいろな出会いが錯綜して盛り上がり続け、よきかなよきかな。


2月3日(月)の記 二人三脚四國五郎
日本にて


倉吉のアーサ王に早朝、倉吉駅まで送ってもらう。
駅の売店で鬼太郎の塩を買う。
米子と岡山で乗り換え、広島の三原駅へ。

今日午後の三原市大和町での上映主催者ふたりが迎えに来てくれた。
まずは海辺の三原駅から中国山地を縫うように大和町の廃校活用スペースへ。
ここはお気に入りの画家・故四國五郎さんが幼少時を過ごした地で、四國さんのギャラリーもスペース内に併設されている。

上映会場の機材を確認、おいしいお弁当をいただいてから開場時間までギャラリーに。
四國さんの少女像があるではないか。
直前に迫る上映を忘れるほどの濃密な作品群。
来てよかった。

主催の住田さんは集客に悲観的だったが、どうしてどうして東京での上映に勝るとも劣らない人数が集まった。
はじめての上映の場所でもあり、テレビ時代のものをはじめ短めの3本を上映。
いい手ごたえあり。

主催メンバーとともに懇親。
横山大観が愛したという三原産の日本酒をいただく。


2月4日(火)の記 〇年は高野をめざす
日本にて


広島県三原市大和町の白竜湖リゾートで目覚め。
なんともオカムラの分際にはもったいない宿だ。

昨晩は入浴をパスして床に就いた。
朝も岩風呂に入れるとのことで、開始時間を過ぎてから部屋を出る。
浴場までたどり着くと、おじさんがこれから風呂場を開けるところで、しばらく待っててちょうだいとのこと。
ここはブラジルか。
温泉でもないのでバカにしていたが、なかなかどうして快湯だった。

ホテルの外には人造湖。
冬の朝の光景は、千住博さんの滝以前の絵画を思わせる。
人工的な自然っぽい世界、というところかな。

かなうことなら丸一日、ぼーっとしていたい環境。
が、8時前にお迎えが。
いくらなんでも早いのではと思ったが、三原駅近くのスポットを案内していただく約束をしていたのを失念していた。
拙作『ラテンアメリカとの出会い』のなかでも言及している長崎26聖人殉教のひとり、トマス小崎の像に対面。

さあ、今日は高野さんに向かう。
三原→新大阪→和歌山→。
和歌山線の高野口駅で降りてから、高野山に公共交通で向かうにはこの二つ先の橋本駅で南海電鉄に乗り換えなければならないことに気づく。
次の電車は1時間後。
高野口駅には、待機タクシーもなく。
いやはや、今日の予定がだいぶくるってしまう。

そうこうしているうちに、老人の病院への送迎で出払っていたというタクシーがやってくる。
スマホのアプリの情報を頼りに、高野線の九度山という駅までタクシーで。
九度山は高野山へのトレッキングの起点のようで、それなりに面白い。
電車とケーブルカーを接続しての登山。
リオデジャネイロのコルコヴァード登山ぐらいに例えようと思っていたが、はるかに奥深いではないか。
さすがは弘法大師空海の結界霊場。

今晩、はじめて会う予定の学僧が予約してくれた奥の院近くの宿坊へ、バスで。
この宿坊の宿泊者は、僕の他はカナダ人のカップル、そしてオーストラリア人のカップル。
学僧は般若湯まで予約していてくれた。
精進料理に舌鼓をうっているうちに学僧到着。

話は尽きない霊場の夜。


2月5日(水)の記 高野の用心棒
日本にて


氷点下の冬の高野山の朝。
学僧の準備してくれた使い捨てカイロを耳なし芳一のように全身に貼付。
午前5時台に宿坊に迎えに来てもらう。
2万基といわれる墓石の並ぶ奥の院を、森々と歩く。

奥の院の未明の法要にあずかる。
いまだ存命とされる弘法大師に朝餉が運ばれる。

午前中は学僧がレンタカーを手配して、山内を案内してくれる。
圧巻は霊宝館の快慶仏。
20世紀後半以降のフィギュアの造形をしのぐ。
学僧とわかれ、精進料理「花菱」で昼食。
女将と話が弾んでバスを逃し、ケーブルカーの駅まで送ってもらう。

下山。
新幹線。
目黒駅にまだバスのある時間にたどり着く。
JRレールパス一週間の旅の終わり。


2月6日(木)の記 高円寺のトラウマを超えた感
日本にて


特集上映の疲れも引きずっての一週間の強行軍から生還。
さすがに疲れ切り、風邪の初期症状あり。
しかし今日はいくつか約束が入っている。

少し咳も出るので、シンパの方からいただいていたマスクを着用。
覚えているマスク使用は…
小学校の給食当番以来かも。

まずは午後イチの大学での打ち合わせ。
そのあとの夕方からの高円寺での会合まで時間がある。
スマホでいちばん格安な移動の方法を調べる。
少し歩くが、丸ノ内線の新高円寺まで行こう。

高円寺駅まで歩く…
商店街で、歌舞伎揚げ専門店を見つける。
やたらに安く、ブラジルへの土産物にどっさり購入。
ついで、これまで行きそびれていた「ゴジラ屋」さんへ。
店主にご挨拶。

今宵、会う人にこのあたりで本の読める喫茶店はあるかと聞いておいた。
いくつかオプションをもらう。
そのなかの「アール座読書館」というのに行ってみる。
これは絶妙。
学生バイトっぽい女性の店員の不愛想っぽさも愛嬌か。

最後に会ったのはサンパウロ。
日本人の若いカップルの選んでくれたお店は、高校時代の国語教師・渡部先生ゆかりのブック居酒屋だった。
そこになんと、岡村京都上映会を主催してくれた人が来店。
ヤラセか?

高円寺、面白すぎ。
わが高校時代の筆禍事件の後始末で、高円寺には愉快でない記憶があった。
今日で克服感あり。

疲労にして風邪気味。
明日は上映会もあるので、ハシゴは遠慮して実家に戻る。


2月7日(金)の記 学大満員御礼
日本にて


疲れは抜けず、風邪の初期症状あり。
風邪には静養がいちばん、なれども。

今日は今回訪日中の最後の上映会。
日本のホームグラウンド、鷹番にて。
ひとりでは準備もままならないが、今日も流浪堂さんに有志が集まってくれた。
ありがたい限り。

ギャラリー古藤さんでの特集上映のおかげで、あらたにこの目黒の上映会に来てくれる人たちがいる。
風邪で来場を見合わせたという人からの連絡も入る。
けっきょくちょうど椅子いっぱいの入場者となった。
満員御礼だ。

僕の選んだ上映作品は「ブラジルのユーカリ植林と日本」と「クリチバの挑戦」。
1990年代に『フリーゾーン2000』シリーズで放送したものだが、なかなか今日的意義も深いかと。
質疑応答、懇親会もいい感じに盛り上がる。
あなかしこ。


2月8日(土)の記 土曜の動揺
日本にて


身心が休養を求めているが、そうもいかず…
マスクでメガネがくもらない方法をネットで調べて。
午前中、世田谷の富山妙子さんを訪問。
会えば話が弾んでしまう。

昼食を気遣わせないように失礼して。
展示開催中で午後はイベントのあるギャラリー古藤さんに、挨拶にうかがう。
まもなく始まる音楽のイベントに誘われるが、予定が詰まり体調不良もあって失礼させてもらう。
お世話になったコスモナイトαさんにも挨拶に。

渋谷で買い物をして、体力的限界を覚える。
学芸大学によるつもりだったが、明日以降にさせてもらおう。
祐天寺下車、実家で床に就く。


2月9日(日)の記 学芸大学の潮時
日本にて


東京では、カトリック教徒の日曜のミサ出席の義務が風邪気味の人には免責、とのお触れが出された。
僕は先週、地方巡礼で物理的にミサ出席が不可能だった。
風邪気味ではあるが、マスク着用して実家から徒歩圏の聖ミカエル聖堂へ。
祈りの時間が欲しい。

午後2時から祐天寺境内の稲荷社で餅撒き行事があると知る。
これはイカネバ。
僧侶たちの読経の後、参列者に紅白のお餅が配られた。
ミサでパンをいただいてから稲荷社で餅ももらう人はあまりいないかも。

夜、学芸大学の流浪堂さんに挨拶に。
一昨日の上映でいただいたアンケートのコピーを届ける。
近くの出版社エクリさんのフリーペーパー『kinrin』で紹介されていたレストラン「ラ・マール」さんの前を通ってみる。
シェフひとりで経営しているとのことで、気になるお店だった。
どうやらそのシェフらしい人がひとりカウンターに座っていた。

うーむ、思いきるか。
かつてのサンパウロの有名寿司屋のような無愛想系も想定していたが、真逆。
おフレンチかと思っていたが、イタリアのフィレンツェが長かったという。
フィレンツェだけで話が合う。
会話が楽しく、勉強になる。
カウンターに並ぶワインのコルク細工にも驚いた。
グラスワインを2杯いただき、海幸に舌鼓を打つ。

気になるお値段は格安系の10食分ぐらいいく。
ま、たまにはいいだろう。
ひとりでやる、という気構えがわが意を得たり。


2月10日(月)の記 稲荷の近くで
日本にて


今日は日本の実家近くにお住いのシンパの方と茶飲み話をすることに。
彼女は店の選択からして、何度もしびれさせてくれている。
付近の稲荷社の裏にあるカフェで、と彼女の提案。
話がかみ合わず、別の稲荷社をお互い想定していることに気づいた。
それほど稲荷社は多い。

十日森稲荷神社で待ち合わせ。
彼女の言う、その裏にあるはずのカフェがない。
キツネに化かされた?

学芸大学駅に近いバス通りのカフェに。
店の女性がなかなか感じ悪し。
話ははずみ、かけがえのないソフト、そして技術的指南をいただく。

お昼を過ぎ、流浪堂さん開店の時間だ。
お店によると、これまたかけがえのない本が。

まだ疲れも残り、風邪の初期症状もあり。
明日の大仕事に備えて、そして明後日の離日に備えて実家に戻る。


2月11日(火)の記 取材班の取材
日本にて


離日前日に、大仕事。
今日は画家の富山妙子さんのお宅に韓国のテレビ局の取材班が訪れる。
それを富山さん側としてサポートしながら、富山プロジェクトの一環として撮影するというミッション。

こういう時の事前の富山さんは冴えていて、こちらが記録したいほどのいい発言がある。
が、客人もてなし側として茶菓の準備や不足分の買い出し業務あり。

午後、訪れたのは韓国のテレビ局から二人。
そして通訳、およびプロジェクト代表。
僕は先方のカメラに入らない位置で。

富山さんから、こちらの聴きたい話を引っ張り出すのはなかなかの難儀である。
通訳が入ると、なおさら。
数時間にわたるトライのあと、富山さんの「日常」を撮りたいとアレンジがはじまった。
すでに日も暮れて、韓国側の今後の取材についての打ち合わせが続く。

僕は明日の出国の荷造りもできていないので、このあたりで失礼する。
実家の冷蔵庫の残りものも、たいらげないと。
富山さんに熱く手を握られて、感無量。

また会いましょうね、すぐです。


2月12日(水)の記 パンデミックの前に
日本→アメリカ合衆国→


今日はいつもよりフライトの時間が早い。
早朝よりあわただしく実家の使用空間の片づけ。
午前中に祐天寺裏出家。

ANAはプレミアムエコノミーにアップグレードしてくれた。
エチオピアン航空は、こういうサービスは皆無だった。

機内では「乾燥防止に」とマスクが配られた。
客室乗務員もマスク着用者多し。
乗客は大半がアジア系、そして多くがマスク着用。

シカゴの空港に到着。
ユナイテッドのラウンジに入るが、マスク着用者ゼロ。
マスクをつけていると、かえって不審に見られそうだ。
ガラス窓の下のゲートを行き交う人をしばらく見やる。
ようやくひとり、非アジア系っぽいマスク着用の人を発見。


2月13日(木)の記 帰宅だヤッホー
→ブラジル


ANAの機中で見た映画『ジョーカー』は強烈だった。
身につまされる。
シカゴからのユナイテッドでは話題の韓国映画『パラサイト』がある。
英語字幕版だが、だいたいの感じはつかめた。
延世大学がらみのエピソードもあり。

シカゴ離陸後にはそこそこの食事が出るが、サンパウロ到着前はパン一個にヨーグルト、あと飲み物という質素な朝食。
まあとにかく、サンパウロに着いた。

おう、入国審査官はマスク着用か。
今回は税関のおとがめもなく。
なじみのタクシー運転手にピックアップを頼み、サンパウロ市内へ。

サンパウロは数日前の豪雨で空港への道路も冠水とのニュースがあり、気をもんでいた。
今はとりあえず通れるようだ。

とにかく疲れた。
わが家到着。
シャワーを浴びて、こちら風の朝食をいただき、ブラジル産タタミで横にならせてもらう。
やれやれ。


2月14日(金)の記 さっそくつづき
ブラジルにて


今日一日はだらだらデレデレさせてもらおう。
日本の人に「今週中に」と約束した書類があるが、明日がある。
来週さっそく長時間運転の旅が控えているし。

これまた、さっそく3月に予定している次回訪日のフライトをあたる。
ネットであたりをつけてから、お気に入りの旅行エージェントに打診。
意外と格安なのがある。

発券リミットを聞くと、今日中の由。
さすがに日本側との調整も必要で即決はできない。
ああ、さっそく落ち着かない。


2月15日(土)の記 エクセルしよる
ブラジルにて


エクセルで書類をつくる必要がある。
エクセルとはなにか:表計算ソフト、だそうだ。
苦手以前に、そもそもよくわからない。

せっかくつくったのが消えちゃったり、コピペできなかったり。
そっくり同じものをまた入力するというのは、なんとも徒労感。
土曜で在宅のわが子に聞いてみると、 さしたる困難もなくコピペしてくれた。
いやはやいやはや。

昼は近所の大衆シュラスカリア(ブラジル風焼肉屋)へ。
大衆のよろこび。
ここにはサシミがいつもあるのだが、ちょっと箸をつける気がしない。

さあて来週の今ごろは…
神父のみぞ知る。


2月16日(日)の記 筋入りで
ブラジルにて


ヨーロッパから来ている親類が本日、帰国。
昼食にサシミでも、と日曜の路上市へ。

スズキをすすめられるが、安くない。
ついでアジをすすめられるが、小ぶりだ。
アジを3尾ほど買うか。

これだけでは物足りない。
マグロの、こちらで「トロ」と称する部位を購入。
マグロの脂身なのだが、日本で供されるトロとはいささか異なる感じ。
筋が多く、なんとなく臭みがある。

これを刺身でいただくには、ヅケにするのがよろしい。
ニンニクスライスとともにオリーブオイルで焼くのも好評。

昼のヅケも夜のオリーブ焼きも好評でした。


2月17日(月)の記 ガルンガンをつなぐ
ブラジルにて


さあ今日は一日断食だ。

して、本業再開。
『富山妙子 自作を絵解く』シリーズ「ガルンガンの…」の編集に着手。
これはそうスムースにはつながらないな。

次回3月の訪日フライトを発券。
サイは投げられた。

明後日からブラジル国内遠征が始まる。


2月18日(火)の記 お役所もうで
ブラジルにて


本業の動画編集に今日も着手するが。
午前中は先方の都合で昨日、キャンセルされた日系診療機関の歯科医へ。
風邪気味の人はマスクをお使いください、と受付に使い捨てマスクが置かれている。
気弱で、もらいそびれる。

午後は在サンパウロ日本国総領事館へ。
家族の件での手続き。
なんと、思わぬ落とし穴が。
詳細は、いずれ余裕のある時にでも公にしようかと。

家族に連絡して奔走、なんとか切り抜けられた…
やれやれ。
さあブラジル国内の旅モードに切り替えねば。


2月19日(水)の記 聖州内陸行
ブラジルにて


国際交流基金サポートのプロジェクトで「愛竹家」と称する世間師の畏友、橋口博幸さんが僕のあとを追うようにブラジルにやってきた。

橋口さんはブラジルのパラナ州奥地で零細農民たちのサポートの一環として竹の利用を模索する佐々木治夫神父のところに、ブラジル滞在を延ばしておうかがいしましょうという。
渡りに船。

一日でも多く橋口さんに現地に滞在してもらいたい。
橋口さんはバウルーというサンパウロ州内陸の町での竹ワークショップが本来のミッション。
サンパウロ市から400キロほど内陸に入ったところだ。
僕が橋口さんのミッションの終わる日に僕がバウルーまで行けば、翌朝、ともにパラナに行けて一日かせげると気づいた。

で、今日の昼過ぎにクルマでサンパウロを出る。
クルマ旅では、その地方地方のFM局を聞くのが楽しみのひとつ。
バウルーが近づくにつれて「デング熱は死病です、ご用心!」といったニュースが。
新型ウイルス危険圏から、デング熱危険圏に突入。

トイレとカフェの休憩も入れて、約5時間のクルマ旅。
橋口さんと同じホテルにイン。
彼は今日、プロジェクトの打ち上げだ。
明朝、会うことを約す。

部屋が広いのはいいのだが、その分、やかましい空調をマックスにしても効かない…


2月20日(木)の記 世間師ブラジル紀行
ブラジルにて


朝、サンパウロ州バウルー市のホテルの朝食会場で愛竹家の橋口博幸さんと再会。
のちにバウルーでの竹プロジェクトのシルヴィアさんも加わって、諸々の話。

さて橋口さんと拙車で出発。
ひたすら西へ。
道中、目に入るタケのこと等々、話題は尽きない。

15時過ぎ、パラナ州サンジェロニモダセーラの佐々木神父のところにぶじ到着。
これで僕の大きな役目は終わった。

日本以来、風邪気味だと伝えていて、佐々木神父に新型ウイルスではないかと何度もメールで聞かれていた。
「流行とは無縁ですので」と答えておいたが。

到着の安心とともに、諸々の疲れがリヴァイヴァル。
まずは休ませていただく。


2月21日(金)の記 ササキ農学校にて
ブラジルにて


パラナ州サンジェロニモダセーラで朝を迎える。
今日は午前中、隣のサポペマ市にあるササキ農学校で橋口博幸さんに講演をお願いする。
「竹利用の多様性について」。
すでにカーニヴァル時期に突入したため、学校は休みではないかと懸念していた。

雲海の山越えをして農学校に到着すると、生徒たちは帰宅の準備をしながら講演を待ち受けていた。
学校外の人たちにも声がかかったようだ。

階上のイベントスペースが講演会場。
僕は撮影体制で。
まずは映像パソコン出しの不都合。

途中になって後方にまわって気づいたのだが、ただでさえ日中の明るい場所での投影なのに、電灯をつけたまま。
スイッチがわかれば消灯したいところ。

ついで「ささら」を鳴らすような音が会場に響く。
タケの楽器の音を使った橋口さんの演出かと思った。
これは屋根の部分に発泡スチロールの断熱材を使っていて、それが日射で熱を持つと鳴り出すのだと教えてもらう。

橋口さんの映像を用いた講演はグローバルな広がりと彼自身によるフィールドワークの知見が盛り込まれて、もったいないほどの内容。
生徒たちからの質問もあり。
講演がお開きになっても橋口さんを取り囲んで学生たちとの記念撮影や質疑応答が続いた。
これは意外だった。

僕は拙作『ササキ農学校の一日』をさらに膨らませて掘り下げた作品をつくろうと思って、その後もこの農学校に通っていた。
拙作制作のあと、農学校は火事になり、再建とともにこれまでの初等教育から高等教育レベルにグレードアップしていた。
あらたな落成式にも参加したが、特に学生たちにがっかりすることばかりだった。

あれから数年。
いい学生が出てきたではないか。
今の僕には、新たに手掛けたミッションがいくつもあり、余力も時間も資金もない。
いまのミッションをきちんと続けるしかないだろう。


2月22日(土)の記 アサイの竹談義
ブラジルにて


今日はパラナ州にある有名な日系人移住地アサイでの橋口さんの「竹利用の多様性」講座。
佐々木神父のアレンジによる。
いかんせんカーニヴァル期間なので、今日も人の入りが心配。
しかし、そこそこの人が集まってくれた。
昨日の農学校よりは暗くなる会場。
質疑応答も続く。

河岸を変えての昼食会。
生産者としての質問もあった日系の方と、橋口さんと共に近くの席でお話しできた。
アサイは第2次大戦前に開かれた移住地で、すでに長老の世代も日系二世三世になっていると思っていた。
しかし、なんとこの方は戦後、家族ともに移住した日本人移民だった。
ご自身の土地に何種類かの竹があるという。
しかもそこはいつも僕がパラナミッションの際に近くを通っているところだというではないか。
帰りに寄らせていただく。

百聞は一見に如かず。
橋口さんとともに、当事者にじかに話を聞いて現場に行く、といういろはの「い」のたいせつさと醍醐味を改めて痛感。
僕も橋口さんも、ブラジルの竹利用状況について大きな誤解をしていたことを思い知らされた。

 アサイにて
  タケの深さを
     教えられ


2月23日(日)の記 サンジェロ竹談義
ブラジルにて


かつては佐々木治夫神父のところをあらわすのに「フマニタスの」と形容していた。
しかしすでに佐々木神父はフマニタス慈善協会をブラジルの、これまた長い形容詞のついたフランシスコ会という修道会に譲り渡して運営には一切かかわっていない。
そのためサンジェロニモダセーラという、フマニタスがあって今も佐々木神父がお住まいの町の名前で形容したいが、これもまた長い。
こちらでシスターたちが用いている略語「サンジェロ」を用いようか。

さてサンジェロで日曜の朝を迎える。
今日はパラナ州の州都クリチーバから竹利用と竹加工についての打ち合わせのため、二人がやってくる。
ひとりは佐々木神父の弟さん、もうひとりはその友人の西亀さんという戦後移民。
この西亀さんという人がカッコいい。
橋口さんがほれぼれしていくのがわかって面白い。

僕は主に聞き役だが、四人で昼前から夕方まであれやこれや話しているうちに、意外な妙案にたどり着く。
タケ世間師・橋口さんの見聞のおかげだ。

佐々木神父のお歳と体調、そしてカーニヴァル時期ということもあり、どうなることかと思っていた侠客橋口さんの今回のサンジェロミッション。
フタを開けてみると、三日間ともそれぞれあっぱれだった。
今回の佐々木神父のプロデュースは見事だったな。

さあ僕自身の次のミッションの覚悟。


2月24日(月)の記 カルナヴァルから遠く離れて
ブラジルにて


日本の大手新聞の記者のOBである知人が、佐々木神父の居城からブラジルのスケールでは至近のパラナ州の町に滞在している。
彼がフェイスブックで「ブラジル中がカーニバルに染まって…」といったステレオタイプを現地からも発信していることに、ほほえましい思い。
日本から来た愛竹家の橋口さんにも佐々木神父にも、そして僕にもカーニヴァルはまるで無縁だった。

振り返るとここ数年、確信犯ではないのだが、カルナヴァル時期は訪日していたことに気づく。(いくつかの表記をしているのは、確信犯だけど。)

朝のカフェーをいただいてから、サンジェロの佐々木神父のところを暇乞い。
また、会えますように。
橋口さんを乗せて、600キロ近くの運転。

サンパウロ州に入ってしばらく南下すると、ワイパーを最速にしても視界ほぼゼロの豪雨が続く。
安全第一。

サンパウロ市内の、橋口さんが知人らと夕食をすることになったレストランまでお送りしよう。
今日は月曜日、しかもカルナヴァル休暇時期なので、先方もお店の設定に苦労したことがうかがえるチョイス。
ナヴィで示す住所に行くと、ショッピングモール系の連なる巨大な駐車場。
入ってみるが、ない…
長時間の運転疲れ、そして夜の照明の暗い街でうろたえる。

もう一度、ふたりのナヴィで照らし合わせて、別の住所に。
お、若い人だかり、ここか。
僕も声をかけてもらうが、疲労困憊で失礼して家族のもとへ。


2月25日(火)の記 狂乱の聖市
ブラジルにて


思い切って行くことにした。
拙著に書いたマットグロッソ州にお住まいの溝部さんのお見舞い。
バスで片道25時間。
飛行機は高く、乗りに行くのもやっかいで到着は深夜だし。

昼、バスターミナルまで明後日発の切符を買いに行く。
メトロの構内、そして車内に度肝を抜かれる。
今日はカルナヴァルの最終日。

市内各地で行われるイベントに出向く若者たちが湧き出ている。
それぞれが奇想天外なスタイルで。
露出度の高い男女入れ替えのスタイルが多い。

メトロの車内は騒然。
音楽機器を鳴らす者、男女入り混じってビンのアルコール飲料の回し飲み。

海水浴場並みに「小股の切れ上がった」海パンいっちょうの男、素肌に網タイツの男。

上半身ハダカの女までいたのは驚いた。
胸のてっぺんだけ黒ビニールテープで申し訳程度にバッテンを貼っているようだ。
白人系で、年のころは30代半ばぐらいだろうか、公共交通の場ではさすがに…
衣類とは、みにくいものを隠す大事な役割もあるのだなと気づく。

切符を買って地元の駅に帰る頃には、連中はほとんど消えてしまった。
それにしても、ブラジルに住民票を移して30年以上になるが、こんなのを目にしたのははじめて。
ネイティヴに聞くと、どんどんひどくなっている由。
あの人たち、ふだんはどんな格好で何をしているんだろう?


2月26日(水)の記 灰の水曜日
ブラジルにて


カルナヴァルが明けると、カトリック暦の「灰の水曜日」。
わが家の徒歩圏にある聖ユダ聖堂の朝のミサにあずかりに行く。
だだっ広い聖堂内の座席がほぼ埋まっているのに驚いた。

カルナヴァルでどんちゃん騒ぎをしていたムキがこの朝のミサに来るとは思えない。
あらためてこの国の奥行きを体感。
「灰の水曜日」にはミサ中に司祭らからオデコに十字に灰を塗ってもらう。
これの解釈もいろいろあるのがカトリックの面白いところ。

基本は、いずれ灰に還る我々の虚しさをさとれよ、という教訓。
灰は再生のもと、よろこびのもと、という解釈も。
(いま調べてみると、かつて灰は石鹸の代用であり、洗浄の意もあるとか。)
いわゆる四旬節のはじまりだ。

この日は食事の一部を抜く、控えるなどの断食をする習慣あり。
僕は昨日一日断食をしているから、きょうも飽食も飲酒もカラダが受け付けない。


2月27日(木)の記 今日の忘れもの
ブラジルにて


午後からマットグロッソ州に向かって片道25時間のバス旅だ。
ブラジル産和菓子系の土産ものを購入。
道中の供にどんな本を持っていくかのチョイスが楽しみでもあり、悩みのタネでもある。

わがブラジルで人身事故による電車の遅れは、まずない。
が、その他の理由での遅れは日常的。
そこそこ余裕をもってバハフンダ駅バスターミナルに向かう。

バスの到着を待ちながら、身辺を確認。
あれ?
スマホの充電用ケーブルがない。
外付けのバッテリーは持参したが、これではお手上げ。

ターミナル階上には、そのあたりの品を売る店がある。
上りのエスカレーターはない、荷物をかついで階段を駆け上がる。
うーむ、安くはないが背に腹は代えられず。

近郊都市あっちこっちに寄っていくバスだ。
とりあえず隣客はいないが、油断はできず。
エグゼグチブ・バスとかいいながらUSBのコンセントもないじゃないか。
(日付が変わってから足元近くにあるのに気づく。)

目を通して不要だったら捨てられる新聞類から目を通す。
ほう、もらいものの日本の「カトリック新聞」の数年前の号、著作権についてわかりやすく書いてある記事あり。
これは取っておこう。


2月28日(金)の記 ブラジル楯状地のはてに
ブラジルにて


ブラジルの長距離バスの旅は貴重だ。
日本の夜行バスのようにカーテン開け厳禁などということがない。

広大な平原を行き、夜間になると星明りと対向車のライトが交差して。
闇の地平線のかなたに最寄りの街明かりが浮かびあがる。
僕は大陸にいる、地球にいると体感。

ほう、このバスは南マットグロッソ州を通るのか。
まもなくミナスジェライス州、そしてゴイヤス州。

明け方、前方の座席の男が咳を連発。
ブラジルでもイタリア帰りの新型ウイルス発病者が出ている。
いっぽう長距離バスの休憩地のトイレには石鹸もない。

今回の旅の目的は、取材でさんざんお世話になってきた僕の「ブラジルのおじさん」溝部さんのお見舞い。
先回、うかがった時は歩行器を使って歩いていたが、最近は歩けなくなったという。
これまでは溝部ビルの溝部さんと同じ部屋に泊めてもらっていた。
家族にも溝部さんにも気を遣わせないように、今回は近くのホテルをBooking取りした。

奇岩地帯を経て、そして『郷愁は夢のなかで』の西佐市さんゆかりの地のあたりは豪雨。
雨あがってサンパウロと1時間の時差のあるロンドノポリスに明るいうちに到着。

タクシーの運転手にさっそく「中国人か?」「ウイルス持ちか?」と聞かれる。
同じような視線は道中、感じていた。
まずはホテルにチェックイン、旅の汗を流す。

勝手知ったる中心街を歩いて溝部さんのお宅へ。
間に合った。
溝部さんは寝た切りになっても帽子は被りっぱなし。
御年92歳。
僕のことはしっかり覚えていてくれた。
話すこともやや大儀のようで、口数は少なくなった。
テレビでディスカバリー系のチャンネルをつけっぱなしにしている。
時おりNHK。

明日明後日もある。
お疲れを懸念して、そこそこで今日は失礼する。

ホテルの空調は効きすぎ、適温に調節ができない。
窓を開けるとムンとくるし、あたりはなぜかカビ臭もあり、蚊が入ってくる。
新型ウイルスのニュースが気になるが、テレビもうつらなくなった。
とにかく横になるか。


2月29日(土)の記 稲葉カメラマンの傑作
ブラジルにて


マットグロッソの目覚め。

今回のホテルの朝食はすごい。
ただでさえブラジルのホテルの朝食:原則として宿泊料金に含まれる:はフルーツやパン類、デザート類の豊かさで外来の客を驚かせている。
このホテルには食パンとバゲットのサンドイッチもある。
サンドイッチをホテルの朝食で見るのは、三度目、ではなくてはじめてだ。

溝部さんのお宅にうかがう。
溝部さんは眠っていた。
旧知のアドンが僕を待ち構えていた。
アドンはブラジル南部出身。
長年、農薬販売などで一帯をまわっていて、いろいろと詳しい。
溝部さんと親しくしていた。
僕がこの地域を先史岩絵探しでまわっていた頃の仲間だ。
アドンは何本かの拙作にも登場している。

彼がその後、見つけた遺跡の話などを持ちだしてくる。
僕のサポートを期待しているようだ。
いまの僕にはこうしてお見舞いに来るのが精いっぱい、とはっきり伝える。

いったんホテルに引き上げる。
パウロからいつでも迎えに行くよと連絡あり。
彼も南部出身。
彼がサーカス一家の長男として、アマゾン開発最前線の地をまわっている頃に出合った。
当時の僕は『すばらしい世界旅行』の番組ディレクター。
一家を取材した番組のタイトルは牛山純一プロデューサーが「アマゾンをさすらう」と命名。
奇遇奇跡の再会を遂げた。

僕の名前を襲名したジュン君:といってもすでに30代の壮健だが:がシュラスコを焼いてくれる。
一家が34年前にロンドニア州を巡回中で、わが取材班とともに撮った記念写真の話となった。
いい写真だ。
僕の知らないうちに「ブラジルのノスタルジー」といったウエブページにも載っていた。
なぜか岡村がイケガミのビデオカメラを抱え、稲葉カメラマン、通訳兼助手のレオナルド、そしてハレー一座の面々がきれいに収まっている。
誰が撮ったのだろう?

イナバがセルフで撮ったんじゃないか?
パウロの意見を、連れ合いのリタさんが裏書き。
そうよ、イナバが撮ったのよ。
稲葉さんが三脚にオートに設定したスチールカメラで撮ったのか。
稲葉さん自身もきれいに収まっているので、僕にはそれは思い浮かばなかった。

稲葉寿一カメラマンは、すでに鬼籍に入られた。
僕の3度のブラジル領アマゾンの長期取材の最初と最後のカメラ担当。
僕とは父子ほど年齢が違う。
おだやかな性格とされるが、僕はだいぶいじめられた。

伝説の名ディレクター、豊臣靖さんに仕えたベテランカメラマンとしては、若造の岡村などちゃんちゃらおかしかったのだろう。
その不平不満を、任命した牛山プロデューサーに陳情せずに現場で僕にぶつけられても。
あまり思い出したくない。

イグアスーの滝の取材の時も稲葉カメラマンだった。
イグアスーの滝に圧倒された稲葉さんが「やっぱりアマゾンはすごい」と言う。
稲葉さんはイグアスーの滝がアマゾン河にあると思っていたのだ。
いいえ、イグアスーの滝はパラナ河というアマゾン水系と別のずっと南にあるのですよ。
通訳兼助手のシロウ君も、イナバさん、アマゾンだったと思ってたんですかと驚き笑う。
稲葉さんはますます不機嫌になるが、さすがにこれは譲れない…

それはさておき、こうして構図もナイスなオート撮りを決めるとはさすがでした。

思い出した。
豊臣さんのためなら死ねるが、岡村ちゃんのためには死ねない。
稲葉さんにそう言われた時があった。
稲葉さんは、なき豊臣さんをディレクターとして背後に感じながら、ファインダーをのぞき続けたのだろう。


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