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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2020年の日記  (最終更新日 : 2020/08/07)
6月2日(火)の記 東京焼盡2

6月2日(火)の記 東京焼盡2 (2020/06/02) 東京焼盡2
ブラジルにて


昨日のウエブ日記をアップしようと思い、読み終えた内田百閒『東京焼盡』の表紙を、わが家のクリーム色に塗った木肌イミテーションの上でスマホ撮り。
これをいったんフェイスブックにアップしてみるが、チラ見えするバックが面白くない。
思いめぐらせて、詳しくは明かせないが置き場に困っていたもらいものの上に置いて撮ってみた。
おう、これはいい感じ。

この強烈な表紙画の作者のことを調べて、米良道博という画家のそのほかの作品の画像を見てびっくり。
そもそもこの本と黒澤明監督のことも触れたい。
分量的にも肝心な本の内容に立ち入れず。

さてさて。
この本は随筆家として知られる内田百閒の米軍による東京空襲下の日記だ。
1944年11月から1945年8月の敗戦受諾のあとまで。
この時の百閒の歳は…
5月に麹町の自宅を焼かれた直後に満56歳を迎えている。
今の僕より若いではないか。

初期の頃に、短く「無為」と書かれている日が何日かある。
サンパウロでコロナ禍巣ごもりのわが身に通じて親近感がわく。
それにしても圧倒的な武力を持った敵の大型爆撃機の編隊が頻繁に、いつともわからず殺戮に飛来するのだから、注意して巣ごもりしていれば不意に殺されることもないだろうコロナとは雲泥の差である。
世界屈指のコロナ感染国となったブラジルで確認されているこれまでの死者の総数は、そろそろ3万人になる。
1945年3月10日の東京大空襲では、一晩で10万人近くが殺された。

黒澤監督の『まあだだよ』でも描かれていたが、百閒は教員時代の学生たちに異常なまでに慕われて、食糧酒類日常品の差入れが絶えなかったことがこの日記からもうかがえる。
しかも当時の百閒は日本郵船の嘱託の職に就き、大空襲の続く東京でも稼働していた!現在のJRの電車に乗って出勤、少なからぬ棒給を得ている。
さらにこれまでの印税が入り、新たな執筆依頼も断るほどに入ってくる。
その百閒先生でも飢えて薬にも不自由してしまう状況だった。

一般市民はどのようにこの国難の日々を生き抜いたのだろう。
僕の父母は、祖父母たちは。
この人たちからは、さして話を聞いていなかったことが悔やまれるばかり。

旧仮名遣いでみっちりと活字が詰まっていて、なかなかホイホイとは読み進まず、あの本この本に浮気をしていた。
そうこうしているうちに、コロナ禍の東京上空で曲芸戦闘機隊ブルーインパルスが色付きの煙を流しながら飛行した由。

東京空襲の時に百閒は夜空のサーチライトと敵機が「綺麗」「面白い」と書いている。
ブルーインパルスや「東京アラート」やらと比べてみると面白いかも。

昭和天皇の玉音放送の四日後、8月19日の日記より。
旧かな旧字を変換して書き出しておこう。

「こわいことをこわいと思うまいとしたり何かに気を取られて或は遠慮して中途半端に恐れるのは恐怖以上の不快感を伴なう。
この節の生活では恐れると云う事以外に人生の意義は無いのではないかと云う様な事も考えた。」


はからずも今日は在ブラジルの90代の戦後移民の方々ふたりに郵便物をしたためる。
お二人とも電話のやり取りも困難になった。
日本の亡母の形見のフエキ糊を絞り出して使う。
亡母は3月10日の東京大空襲の体験者だった。



  


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