処女作はナメクジ (2020/05/09)
再録寸言: 日本で小説家としてデビューされる前からお付き合いのはじまった畏友の星野智幸さんのご厚意に甘えて、星野さん管理のウエブサイトに収録公開していただいていた拙稿群を、ようやくわがウエブサイトに移行し始めることにしました。 ブラジルでコロナウイルスに肺を侵される前に、背中を押された形です。 星野さんと日本で出会ったのは、西暦1997年。 わが壮大なるトラウマ、そして下記の文中で私にナメクジを振った牛山純一プロデューサーが亡くなって間もない頃でした。 下記の文章の初出は1995年、その2年前です。 ブラジルで当時は月間で発行されていた『オーパ』という日本語雑誌の編集スタッフだった日本人の友人からの依頼でした。 僕にとって連載で書くというのははじめての体験でしたが、こんなことをやってみたいなと思っていたタイミングでした。 僕はエンターティナーのつもりですから、自分の書きたいことを書くにしても、どんな享受者を対象するかを想定して、それにかなった表現を心掛けるようにしています。 この連載では、雑誌の読者である在ブラジルの日本語の読解力のある方々。 日本から駐在員などで派遣された人とその家族、および日本人移住者です。 15年近く経過して、あらたにこれまた畏友の編集者・淺野卓夫さんの仕掛けにより自伝的な著をしたためることになった際にもこのナメクジのエピソードをより詳しく書き込んでいます。 本稿はそのベースになったものです。 今回、最低限の加筆をしました。 もちろんナメクジを忌み嫌われる方に読んでいただくにはおよびません。 (西暦2020年5月13日 サンパウロにて記す)
処女作はナメクジ
最近、ナメクジを見たことがありますか? 日本ではアルミサッシの普及とともに、かつては木造家屋の風呂場や台所で私たちと共生していたナメクジも、すっかり目につかなくなってきました。 ブラジルにお住まいの方なら、庭や石壁の片隅で、祖国のものとはだいぶ趣の違う異形で巨大なナメクジに鳥肌をたてた経験をお持ちかもしれません。 日本とブラジルのナメクジは、それぞれ体のどの部分からウンチをするか、ご存知でしょうか? 日本の、南西諸島などを除く本土のナメクジは、体の側面からウンチをします。これはナメクジがカタツムリから、ひいては海中の巻貝から進化したことの証左です。 巻貝はラセン形の殻の中に体があるので、内臓の位置がねじれています。そのため、陸上に適応して貝殻が退化・消滅したナメクジの内臓と肛門の位置は、ねじれたままになっているのです。 いっぽうブラジルの在来種のナメクジは、体の後部からウンチをします。これはブラジルのナメクジが巻貝やカタツムリを先祖に持たず、同じ軟体動物でもアメフラシやナマコの類が、陸上にあがって進化した生物であることを物語っています。 同じようにナメクジと呼ばれても、日本とブラジルでは全く進化のルートを異にしているのです。 さて、私はナメクジで世に出ることになりました。 テレビドキュメンタリーの番組ディレクターとして、私が一本立ちした作品の主役が、このナメクジなのです。 ベテランのドキュメンタリー作家が、何十年たっても自分の処女作を越えられない、と語ることがしばしばありますが、私のような若輩は、なおさらです。 デビュー作「すばらしい世界旅行」『ナメクジの空中サーカス 廃屋に潜む大群』(日本テレビ、1983年放送)は、私自身、いまだに愛してやまない作品です。 「どこでもいいから、すぐに海外へ行ってナメクジで番組一本撮ってこい!」 日本のテレビドキュメンタリー界の鬼と恐れられる大プロデュ―サーの命令が下りました。 少しでもキャリアのあるディレクターなら、この無謀ともいえる企画を、嘘八百を並べてでも引き受けることを避けたでしょう。しかし当時の私は、大学を出て一年も経たない若造です。わけもわからないまま「ハイ」という他、ありませんでした。 仮にも長さ30分の、しかもゴールデンアワーの番組です。ハイ、どこそこの国です、サア、奇妙なナメクジがいます、ホラ、塩をかけたらやっぱり溶けました――では、1分半と持たないでしょう。ドキュメンタリー番組たるもの、ドラマあり、ハプニングあり、そして何よりも感動が不可欠です。 私はナメクジについて、日本国内でリサーチを始めてみました。 しかしカタツムリの専門家というのは少なからず存在するものの、ナメクジそのものの研究者というのがいないのです。 カタツムリの場合は、殻の形態が地域によってバラエティに富んでいるため、生物地理学的な研究などが進んでいます。また美麗・珍妙なカタツムリを求めて世界中をまわるコレクターもいて、マニアの同好会もあるほどでした。 しかし海外のどこにどんなナメクジがいるかについては、ほとんど手がかりがないのです。 カタツムリの方は童謡にも歌われ、ファンが多いのに対して、ナメクジの方は人気がさっぱりな理由について、さるカタツムリ研究者は言いました。 「家を持たないものの悲劇でしょう」。 これらのリサーチをもとに、私は「カタツムリなら何とか番組になるかと…」と大プロデューサーに報告したところ、すかさず怒声が飛びました。 「オレはナメクジでやれと言ったんだ!ナメクジでできんのか、できねえのか!!」 なぜ我が大プロデューサーは、ナメクジにこだわったのでしょうか。 テレビで動物モノのドキュメンタリーが珍しい頃には、ゾウだのキリンだのが写っていれば、視聴者は満足していました。 しかし1980年代ともなると、お客さんも贅沢になり、ありきたりの動物モノではチャンネルを変えてしまうようになりました。 いっぽう、人喰いザメ、毒蛇大蛇といったゲテモノを扱った番組が、なぜか高い視聴率を稼いでいたのです。お茶の間で人喰いザメや毒蛇のアタックに見入る家庭というのは、どんなものでしょう。危険なものを安全なところから眺めながら、家族の絆を確認しようというのでしょうか。 さて我が大プロデューサーは、毒グモ、サソリといった毒虫モノもまずまずの視聴率なので、ゲテモノの極みとしてナメクジもいけるのではないか、と考えたわけです。その意図を解さない若造ディレクターが、かわゆいデンデンムシなら、などと言ったものだから、どやされてしまったのです。 その後、私は全く見通しもないまま、あやふやな情報をたどり、シンガポールでナメクジ番組を取材することになりました。 そして自分のドキュメンタリー人生の原点をなす作品を完成することができたのは、ナメクジをも創造された創造主の思し召しによるものでしょうか。 当時の自分のいじらしさ、数々の協力者の方々のご好意、そしてナメクジという生き物への賛美と感謝の気持ちで、今でも目頭が熱くなってきます。 そして映画少年上がりの若輩ディレクターは、映画『2001年宇宙の旅』へのオマージュ、などと気張りながら番組を仕上げました。 作品は業界筋では及第点をいただいたものの、視聴率は散々でした。 夕食の団らんにシオカラを食べているときに、ブラウン管いっぱいにナメクジのアップを映し出されてはたまらない、といった抗議もあったほどです。 サメやヘビなら許容される時世になっても、ナメクジへの人々の偏見はまだ厚く、いわば時期尚早の作品でした。 いっぽう予算も期間もさほど使わずに、出来もソコソコだった私は、とりあえず首をつなげることができました。 そしてナメクジ男、骨なし軟体ディレクターなどと嘲笑されて、塩までまかれながら、陽の当たらないゲテモノ番組路線を這っていくこととなったのです。
(初出『オーパ』No.147 西暦1995年に2020年5月、加筆)
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