南米大陸 とんだ体験 (2020/06/05)
| サンパウロの街なかでみつけた中南米の地図型のグラフィティ |
| 採録寸言: 執筆いらい四半世紀が経過しています。 採録に値するかと危惧しましたが、読み返してみて、これはこれで自分でも楽しめました。 21世紀も五分の一を経過して、世はすでにアマチュアがドローン撮影を 駆使する時代となりました。 僕あたりは完全に乗り遅れていますが、負け惜しみ抜きにドローン撮影をしてみたいという気もありません。 自分にとってのドキュメンタリーの「リアル」ということを考えてみて「自分自身がその現場にいて、レンズを通して記録した映像のみを編集する」方法であるべきだと最近になって気づきました。 さて、この項の後半に登場する通訳君の後日譚です。 彼は紆余曲折を経て、その後、日本でのプロサッカーが始まるとブラジルの超有名選手の通訳として日本に渡りました。僕自身はサッカーにまるで関心がないのですが、日本のJリーグ関係者と話してみて、彼のことを知らない人はいませんでした。 僕との「とんだ体験」がそれに活かせたどうかは尋ねる機会を逸したまま、彼はまた消息不明になってしまいましたが。 (西暦2020年6月5日 記す)
人類には、古来から鳥のように空から地上を見下ろしたい、という欲望があったようです。 そのいい例が、ペルーの海岸砂漠地帯にある「ナスカの地上絵」でしょう。 南米大陸の先住民によって、およそ2000年前に荒涼とした平原に描かれた巨大な動物画や幾何学紋様の地上絵は、今日では世界各地からの観光客の人気スポットとなり、UNESCOの世界遺産にも登録されています。 この地上絵は、地上から見たのでは自動車の轍(わだち)ほども目立ちません。空から見ないと、それぞれの絵が何を描いたのかもわからないのです。 このため、ナスカの地上絵は古代人の築いたUFO発着場の標識である、あるいはズバリ宇宙人が描いたものだ、などと宇宙人に結び付けて取り上げられることもありました。 しかし、「地球人」の計り知れないイマジネーションの所産であり、古代人が天空からの視線を意識してこうしたモニュメントを築いた、と想像する方が、より豊かに思えます。
私がドキュメンタリー番組の制作で、初めて空撮(エアー・ショット)を体験したのが、このナスカの地上絵でした。 1980年代前半のことですが、当時から地元には観光客用のセスナ機がありました。 日本人の観光客にも慣れていたペルー人のパイロットが、上空から「ハチドリ!」などと日本語で絵柄を叫んでサービスしてくれたのを思い出します。 飛行機の座席が窓側になり、視界が利く間は飽かずに機窓に眺め入った経験をお持ちの方は多いことでしょう。 同様に、空撮の映像はテレビの視聴者にとっても見ていてさほど退屈しないもののようです。 そのため、予算のある取材でしかもネタがあまりない時には、空撮は特に頻繁に行なわれます。 しかし取材する側にとっては、天候の心配、機材と生命のリスク、そしてフライト時間が延長した場合の予算オーバーの危惧など、胃の痛くなることばかりです。 空撮は、ひたすら武運長久を祈るばかりの苦行となります。 本格的に空撮をする場合は、セスナやヘリの扉を外して、カメラマンは身を機外に乗り出して撮影します。 ディレクターは、安全第一のパイロットと迫力至上のカメラマンの板ばさみとなります。 いいショットを決めたいという思いと、予算オーバーの心配の葛藤もあり、いずれにしても楽ではありません。 そもそも空撮というのは、撮影の技量というより、パイロットのセンスが決め手となることが多いものです。 そのうえ現場を知らない人には、撮れていて当たり前と思われがちで、なかなか労の多いものなのです。 私は、かつては日本のテレビのドキュメンタリー番組のディレクターでしたので、撮影の方は別に専門のカメラマンが担当するのが常でした。 しかし昨今は、映像記者とかビデオジャーナリストなどと呼ばれるような、小型ビデオカメラを用いて撮影から編集まで、すべてひとりで行なう取材方法をとっています。 このため、いざ空撮となると自ら身を空に乗り出して撮影しながら、操縦するパイロットに指示をしなければなりません。
初めてひとりで空撮に挑んだのは、イグアスの滝でした。 高所の恐怖から逃れるためには下を見ないこと、とよく言いますが、空撮の場合は下を凝視しないわけにはいきません。 ヘリが浮上すると、ドアを取り外しているため、強風が体とカメラを叩きつけてきます。 これから身を機外に乗り出さなければなりません。 だいぶくたびれた頼りないシートベルト一本に命を託すのです。 私は自分の選んだ道を呪いました。覚悟を決めて身を乗り出すと、まさしく地球の引力が自分を引き付けていくのを体感します――。 多少、映像の通になってくると、例えばイグアスの滝が世界一だといっても、比較するものが同一画面になければ、その大きさを表現できない、などと理屈を言うものです。 しかし上空から実際に眺めてみると、そんな理屈抜きに、周囲の亜熱帯林の広がり、そしてイグアス川と大瀑布の巨大さがダイレクトに感知できました。 怪獣映画や戦争映画などの特撮映画の父として知られる故・円谷英二氏は、特撮映画でどうしてもだまし切れないのが水の大きさだ、と述べています。 いくら精巧に連合艦隊やゴジラの模型を作っても、舞い上がる水しぶきの大きさとの比較で、いかにもミニチュア臭く見えてしまうというわけです。 いっぽうイグアスの滝を上空から見ると、水面のなめり具合などから、自分のいる高度と滝のスケールが自然と知覚できました。 滝の大きさとの比較のために、隣接するホテルや舗装道路などの人工物を同一画面で見せよう、というような不粋な考えは見事に吹き飛んでしまいます。 数ある空撮体験のなかで、特に苦労したのが、アマゾンの大逆流・ポロロッカでした。
ポロロッカについてはいずれ詳しくお話ししたいと思いますが、今回は空撮のこぼれ話を披露しましょう。 ポロロッカとは、大潮の前後の時期に、アマゾン河口付近の川の流れが逆流する現象です。 いつでも変わらない景色の空撮の場合は、天候を心配しているくらいでいいのですが、動きと変化があり、何よりも確かな発生時間も場所もわからないものを撮影しようとなると、大変な困難を伴います。 あまりあてにならない現地の情報をもとに、時刻と場所のおおよその見当をつけ、空中からポロロッカの発生を発見してフォローするというのは、神経がクタクタになる作業でした。 莫大な予算をかけての取材のため、失敗しましたゴメンナサイでは済まされないのです。 そしていざポロロッカの発生をとらえたら、取材班としては数あるポロロッカ取材番組のなかから群を抜く作品をモノにしたい一心で、より迫力を出そうと低空飛行で逆流をフォローしようとします。 いっぽうポロロッカは気流にも影響を与えて、付近に乱気流を発生させます。また岸辺には樹高数十メートルもの熱帯林が繁茂しているため、低空飛行は危険この上ありません。 機内は吹きこむ烈風とスタッフの罵声で、阿鼻叫喚の世界と化します。 私はこれまで、日本の三つのテレビ局の番組でディレクターとしてポロロッカの取材をしています。 最初の時は、セスナで空撮に挑みました。パイロットと私、そしてカメラマンと若い日系二世の通訳件助手が乗りこみます。 ドアを外しての飛行のため、ベテランのカメラマンが助手の青年に、機内に強風が吹き込むので厚着をするよう注意します。 しかし日系青年は「へいきですヨ」と聞き流しています。 学徒出陣のごとき若輩ディレクターだった私には、そんなディテールまでとても気が回りません。 熱帯林を開いた牧場の、デコボコした滑走路を舞い上がって間もなくのことです。 カメラマンの予測通り、助手君は「サムイ、オリタイ、オシッコ」などと爆音のなかで訴え始めました。 これから決死のポロロッカ撮影に向かうというのに、士気も何もあったものではありません。私とカメラマンとで、どやしつけます。 もはや助手が役目を果たさないので、私が受験英語とインチキなポルトガル語を駆使してパイロットとカメラマンとの意思の疎通を図り、さらにVTRの操作も行なうことになりました。 いつのまにか、おとなしくなっていた助手君は、私にビデオテープを入れるチャック付のビニール袋をくれ、と言います。 出発前に、機内は水しぶきをかぶる恐れがあるので、撮影済みのビデオテープはすぐにビニール袋に入れて密封するよう、打ち合わせをしていました。 助手君にもようやく我々の熱意が通じたか、と後部座席の彼にビニール袋を渡します。 上空を旋回しながら、ポロロッカの発生を待っていた私が、ふと後部座席を振り返った時です。 私には助手君のしていることが、瞬時には理解しかねました。 私とパイロットとカメラマンが怒鳴り合っているなか、彼は不自然な姿勢でビニール袋を前にあてがい、普段からその大きさを自慢していた体の一部を取り出して、用を足していたのです。 この日の空撮は、見事な失敗でした。 我々のセスナが飛び立った時、ポロロッカはすでにはるか上流を遡行していたのです。 私とカメラマンがガックリと落ち込んでいるなか、助手君が私にクレームをつけてきました。 「オカムラさんのくれたビニール袋は、穴が開いてたじゃないですか。ヒドい目にあいましたヨ」 これぞまさしく、とんだこぼれ話でした。
(初出『オーパ』No.145 西暦1995年、西暦2020年6月微改稿)
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