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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳/ブラジルの落書き:改訂版  (最終更新日 : 2023/02/08)
金魚売りと原爆報道

金魚売りと原爆報道 (2020/08/05) 金魚売りと原爆報道
―森田隆さん(在ブラジル原爆被爆者協会理事長:当時)の聴き書きー
/広島原爆投下50周年の節目に


これは毎年の年中行事なんです。
8月が近づくと、ブラジルの新聞やテレビが次々にその日の惨状を話してくれ、とやってきます。
昔、日本で夏の盛りに「きんぎょーや、きんぎょぉー」と町に金魚売りがやってきました。そして時期が過ぎるとパッタリ来なくなる。
それと同じで、8月が終わると取材はパッタリ途絶えてしまいます――私にとって50年目の長い夏がやってきます。

私は生まれた時には、死んでおったんです。
母のお腹のなかでは逆子で、それは難産だったそうです。お産の時には、村の医者が駆けつけました。仮死状態で産まれたので、医者は「お母さんが助かっただけでもええと思え」と私をボロ布に包んで家の縁に置いておきました。
北米帰りだった父はいろいろな場数を踏んでいたのでしょう、死んだとみられた私の足を持ち上げ、お尻をパンパン叩いてみました。すると「オギャー」と声をあげたというわけです。1924年のことでした。
父は広島県佐伯郡砂谷(さごたに)村の出身で、北米移民としてシアトルやサンフランシスコで農園や鉄道工夫の仕事をしました。母は「写真花嫁」としてアメリカに渡り、父と結婚しました。
苦労を重ねて、ようやく貯えもできて故郷へ錦を飾りに帰ることができました。そして村で商売を始めていた頃に、こうして私が生まれたというわけです。

私と軍隊の関わりは、小学5年の時から始まります。
「子供は苦労しなければいかん」というのが父の方針で、私は広島の歩兵11連隊の酒保(しゅほ:軍隊内の売店)の手伝いをすることになりました。
13歳になると時計屋に奉公に出され、21歳で兵隊に行くまで広島市内の時計店で働きました。

1944年に軍隊に召集され、浜松の航空隊に入隊しました。軍隊の要領はもうわかっていましたが、内部の制裁や暴力が許しがたく、憲兵の募集に志願しました。
そして部隊で2人だけ選ばれて、東京・中野の憲兵学校に入ることになったのです。浜松は「イモどころ」と言われながら、食糧不足で戦友たちが栄養失調になって亡くなっていったものでした。ところが東京の憲兵学校では三度の食事とも白飯に肉や魚がつくほどで、矛盾をつくづくと感じました。

1945年7月、憲兵学校を卒業して、故郷広島の中国憲兵司令部に憲兵兵長として配属されました。
広島に向かう道中、東京や大阪をはじめ多くの町や駅が米軍の空襲で焼け野原になっているのを目にしました。
ところが広島は想い出の町がそのまま残っており、感動しました。広島からはアメリカにだいぶ移民に行っておるから敵も爆撃を控えているんじゃろう、などと安易に考えてみたものです。それでも空襲に備えて、市内では防火地帯の家屋の取り壊しが進められていました。

8月6日の朝は、一晩まんじりともしないで迎えました。5日の夜から警戒警報が発令されており、6日の朝7時半にようやく解除されたのです。
朝から真っ青な空で、きょうもいい天気で暑くなるじゃろうなぁ、と思いました。

私は己斐(こい)の山腹の防空壕づくりに向かうため、補助憲兵12人を連れ、8時に憲兵司令部を出発しました。
土橋から電車に乗り、3つ目の停留場で降りて、横川橋を渡って左手に折れた時――爆心地から1.3キロの地点です。
私が一命をとりとめたのは、爆心に背を向けており、後ろ左手に大きな壁があったせいでしょう。
突然、ものすごい光線です。ピカッと光った瞬間に、何メートルも飛ばされていました。頭を上げた時、熱いものが後ろからくるのを感じました。目の前にあった学校が、マッチ箱のようにガチャッと潰れました。周囲は、真っ黒いモヤに包まれました。

……ようやく私は我に返って立ち上がりましたが、薄暗くて付近の様子はわからず、人の声も聞こえません。私は最初、近くの陸軍の火薬庫が爆発したものと思いました。
とにかく目的地の壕に向かうことにしました。太田川の土手を行くと、ポツリポツリと雨が降り始めました。黒い雨です。これはアメリカが飛行機から重油をまいて、市民を火あぶりにするのだな、と思いました。
雨のなかにうずくまり、うめいている女学生たちがいます。
「お母さん、お母さん」「助けて、お水をちょうだい」と体を焼かれ、着ているものもぼろぼろで「兵隊さん、仇をとってちょうだいね」と言いながら亡くなっていった女の子たちのことを50年経っても忘れられません。

憲兵隊の防空壕に到着すると、将校たちが広島で何が起こったのかを調べなければ、と話し合っていました。私は自分から名乗り出て、市内の憲兵隊本部に向かうことになりました。
市内に入って見たのは、平和な時に見たら気が狂いそうな地獄でした。
まさしく「死の行列」に出会いました。無言のまま、両手を前にぶら下げて早足で西の方に逃げていく人たちの群れです。
爆心地近くでは、手を広げて、口を開けて驚愕した姿のまま、体は真っ裸で紫がかった遺体が、マネキンのようにいくつも道に転がっていました。
電車のなかには何十という人々が黒こげになっており、骨はむき出し、肉がブスブスと煙を上げていました。

憲兵隊本部は、焼け野原になっていました。そこで救助にかけつけた呉の憲兵隊の一行に出会いました。
その隊長が「これは原子爆弾である」と言いました。
「アメリカが原子爆弾を使ったならば、日本にはそれに勝る分子爆弾がある。我が軍は敵にこれを使う」。
実際にそんな計画もあったのか、それとも私たちを励ますためだったのかはわかりません。

私は原爆の前に、東京大空襲も体験しています。東京の空襲では逃げる余裕がありました。避難する人は服をまとい、貴重品や書類を持って逃げる人もいました。
いっぽう広島では一瞬のうちに服も体も焼け焦げ、そして誰も知らない放射能の後遺症に、いつまでも苦しまなければならないのです。

6日の夜は、憲兵司令部の焼け残ったビルで迎えました。
実に不気味な夜でした。人間の焼ける異様な臭いが、町中から漂ってきます。あちこちでまだ人間がブスブス燃えているため、紫がかった青白い燐(りん)が光を放っていました。

翌日は、次々と憲兵司令部に集まってくる被爆者のお世話をしました。
ところが自分の首の火傷が大きく膨れ、ベトベトに化膿して、臭いを発して痛み出しました。軍医に入院をすすめられ、大野浦の臨時陸軍病院に入りました。
ここでも多くの被爆者の死に立ち会いました――

敗戦の翌年、身につけた技術を活かして小さな時計の修理店を広島市内で始めました。当時、原子爆弾に遭った者は2年足らずの命と言われたものです。
しかし焼け跡に草が生え始め、花も咲き、翌春は桜も咲きました。私は自分の運命の時が来るまで、いつ死んでもいいわいと思いながら、かえって節制して過ごしました。そして今の家内と結ばれました。
家内も被爆者でしたが、私たちは自分たちに不具の子が生まれることはない、という自信を持っていました。子供は2人とも元気に生まれました。

戦後の日本の生活は、夢がありませんでした。
外地からの引揚げ者があふれ、そして不景気で、今のブラジルのように盗難も多かったのです。お客さんからお預かりした時計を30個以上も盗まれて、弁償に苦労をしたこともあります。
そして私たち被爆者には「ブラブラ病」と呼ばれるような疲労感がいつもあるのです。私の場合、夏になると白血球が異常に増えて、マラリアのようにガタガタとふるえました。

そんな時、ブラジルに渡った知人から私に呼寄せの手紙が来ました。
「森田さんなら技術もあるし、ブラジルで必ず成功するから、ひと儲けしにいらっしゃい」というのです。
当時は国が海外移住を奨励する風潮もあり、私はブラジル熱に浮かされました。
そして1956年、「ぶらじる丸」で神戸を発つことになったのです。
家内や子供たちが行きたくない、と言うのをなだめすかして「ピアノを買うてやるからね」「とうちゃん一生懸命に働いて、うんとお金を儲けて日本に帰ろうね」などと言い聞かせたものです。私自身、10年経ったら日本に戻るつもりでした。

ようやくブラジルに着くと、呼び寄せてくれた人はサンパウロのポロン(半地下室)に住んでおり、便所もシュベイロ(シャワー)もありません。
私はブラジルの到着の翌日から言葉もわからないまま、家探しを始めなければなりませんでした。
――そして1984年に子供たちがこの日本食料品店を年老いた両親に、と開けてくれるまで時計修理職人として働いてきました。

これは誤報なのですが、ブラジルの日本語新聞に「海外の被爆者も日本の年金を受けられる」という記事が出たことがあります。
夫婦で領事館を訪ねると、
「あんたたち被爆者だと言うけれど、証拠があるんですか。そんなことはどうにもならないし、領事館も困っています」という、けんもほろろの返事です。
帰り道、これでは被爆者も浮かばれない、と家内と話しました。少しは生活に余裕ができたこともあって、個人で訴えても相手にされないのなら、私たちが立ち上がって同じ仲間で手を取り合っていこう、と考えたのです。

そして1984年に、それまでに知り合っていた被爆者仲間と「在ブラジル原爆被爆者協会」を設立することになりました。
さまざまな障害がありました。まだまだ大きな問題があります。私は天に与えられた余生を、今後ともこの問題に捧げていくつもりです。
ブラジルの被爆者の多くは今も日本国籍で、それも国の奨励で移住してきたのです。日本にいる被爆者と同様の権利をいただくのが私たちの願いです。

被爆者も老齢で、徐々に亡くなっています。ひとりの被爆者が亡くなる前に、私に言い残しました。
「自分は日本人であることをブラジル人に誇って死んでいきたい。日本の国は、移住者にもあたたかい援助をしているんだと。森田さん、まだ日本からいい話はありませんか」。

もし今後また核兵器が使用されれば、人類が滅亡することを私たち被爆者は知っています。
私は最後まで平和を叫び続けます。

(『オーパ』 No.144 西暦1995年発行 に掲載)

採録寸言:
広島への原爆投下から50年を祈念しての聴き書きを、75周年の祈念日に拙ウエブサイトにてアップします。
四半世紀を経て、森田隆さんは96歳。
サンパウロのわが家の近所の日本食材店「スキヤキ」の入り口で近年は日向ぼっこをされていましたが、コロナ騒ぎ以降、お目にかかれず、気になっていました。
すると今年も「金魚売りの季節」が到来、8月のブラジルの新聞のトップを森田さんの最近のお元気そうな写真が飾り、舌を巻きました。
お歳のこともあり、父親思いのお子さんたちやお店のスタッフが店頭にいるのを止めていたのでしょう。
晴れて再会できる時を心待ちにしています。
森田さんについては、日本の福島原発事故を踏まえて、拙著に一章を設けてさらに重ねてお話をうかがってまとめています。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000236/20141218010515.cfm?j=1
日本のテレビ局の広島支局に勤務していた友人から、被爆者たちの証言の年毎の「変化」について興味深い話を聞いています。
聞き手の方の変化は、どうか。
森田さんは僕自身を問う鏡でもあります。
(西暦2020年8月6日、サンパウロにて記す)


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