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岡村淳のオフレコ日記
     岡村淳/ブラジルの落書き:改訂版  (最終更新日 : 2023/02/08)
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日伯往来こぼれ話/骨ふれあう縁 (2020/09/07)
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サンパウロのカテドラル(2020年8月)
これまで私は、日本と南米を何回往復したのだろう、と数えてみて自分でも驚きました。
西暦1983年から1995年末(本稿執筆時)までで、合計26回にわたって日本と南米大陸を往来していたのです。

いずれも単なる遊びや金もうけのための旅行ではないつもりで、私の携わる特殊な作業によるものです。
特に昨今は、ソロバンをはじいたらまるで間尺に合わない仕事が多く、自分でもあきれています。

いっぽうブラジルで謙虚にひたむきに働き続け、望郷の念を抱きながらも一度の訪日もかなわない日本移民のお年寄りも多いのが現実です。
そうしたことを肝に銘じて、自分の訪日がなにかのお役に立てることがあれば、頼んでいただけることを喜びとして、できるだけのお手伝いをさせていただいてきたつもりです。
とはいっても、なかには私の常識と忍耐の限界を逸脱した頼みごとをされる方もいらして、そのあたりがむずかしいところです。


今回は、私が訪日のついでに関わったユニークな体験をお話しましょう。
ブラジルから日本へ出稼ぎに行って、亡くなった方のお世話をしたことがあるのです。

西暦1990年代のはじめ、私が東京でさる民放のドキュメンタリー番組の編集作業をしている時でした。
サンパウロに残した連れ合いからの電話で、彼女の友人(仮にマリアさんとしましょう)の日本に働きに行っている兄(仮にジョゼさんとします)が、危篤になったといいます。

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京都の伏見稲荷にて(2020年3月)
会社からの連絡を受けて、急ぎ妹のマリアさんとジョゼさんの夫人(仮にモニカさんとします)が日本に向かっているというのです。

けっきょく妹のマリアさんとモニカ夫人は集中治療室に入っていたジョゼさんに会うことはできましたが、臨終間近で会話のできる状態ではありませんでした。
死因は肝炎でした。


奇遇なことにジョゼさんの職場は東京都下で、ブラジルから当時、留学していた私の義弟がその付近のアパートに住んでいました。
日本の事情もわからず、身寄りも無いマリアさんとモニカさんは、とりあえずそのアパートに身を寄せることとなりました。

私は編集作業を中断してスタッフに待機してもらい、なにはさておきブラジルから来た遺族の二人のもとに駆けつけました。
ジョゼさんとマリアさんの兄妹は日系人です。私は未亡人となったモニカさんも日系とばかり思っていたのですが、会ってみると、バレーボールの選手のような大柄の非日系ブラジル女性でした。


ここで、思わぬ問題が起こりました。
初対面とお悔やみの挨拶を同時にする私に、モニカ未亡人が激しくまくし立ててくるのです。
夫は会社の奴隷的搾取的労働によって殺された、そのうえ会社側は保険金の詐欺までしている、と怒りをあらわに声を張り上げるのです。

亡くなったジョゼさんは30代半ば、モニカ夫人は何歳か年上でした。
モニカさんによると、ジョゼさんはブラジルでは健康そのものだった。
訪日前に会社側から白紙にサインを要求されたこともあり、おかしいと思っていたら殺されてしまった、と泣きじゃくります。

しかも死亡の場合は保険金が500万円はおりるはずなのに、会社は50万円しか出さないと言う。
自分はまずブラジル大使館に訴える、と息巻いています。
またブラジルで看護師をしている妹のマリアさんは、会社と病院が兄の死因をごまかしている疑いがある、と言います。


モニカ未亡人はまったく、妹のマリアさんもほとんど日本語が理解できません。
しかもジョゼさんは日系ながら日本に身寄りもないので、彼女たちは私に会社側とわたりあってくれ、と頼むのです。

その会社というのは当時、日系ブラジル人雇用の大手として知られていて、なにかのトラブルで新聞ダネになったこともありました。

いきなりこんな話を聞かされると、敵は日系ブラジル人の生き血をすする極悪企業といったイメージが沸き上がってきます。
私はあまりおっかないのは苦手です。
仕事が放送を控えて追込みで忙しいから、というのは偽りのないところですが、このまま身を引いてはブラジルに戻ってからも卑怯者呼ばわりされかねません。
しかたがない、この数年前にアマゾンで金採掘人の親玉たちにすごまれた体験を思い起こし、あの時ほどのことはないだろう、と覚悟を決めました。
武者震いを押さえつつ、問題の会社の担当者に面会を申し込んだのです。


さて、モニカ未亡人の話を聞いていて、ちょっと待てよと思う点もありました。
モニカさんは、会社は夫の死をコメルシャリザ(商売化)している、と言うのです。

どういうことかと尋ねると、主人には日本の親戚や友人はいるのか、いるとすれば何人ぐらい葬式に列席するのか、と聞かれたと言います。
それによって式の段取りも違ってくる、と言われたが、自分がひたすら悲しみに浸っていたい時に、あまりに非人間的な質問ではないか、と訴えるのです。

私はなにやら両者の間に誤解があるのでは、と思いつつ、インチキなポルトガル語通訳として間に入ることになりました。


会社の担当の業務課長は、ドスのきいたコワモテのおじさんかと思いきや、いかにも地方の素朴なお父さんという感じの人でした。

「いやあ、あなたのような方に仲介してもらって助かります」といきなり感謝されてしまいました。
課長さんによると、ポルトガル語のわかる社員を介して未亡人と話し合おうとしたものの、彼女は会社を悪の固まりと決めつけており、冷静な話し合いができずに困っていた、と言います。

葬式の「商売化」問題についても、会社としては葬儀会場が大き過ぎて列席者がまばらでも遺族が気の毒だし、かといって場所が小さくて人々があふれても失礼だと考えて、日本の親戚の有無などを聞いた次第だと言うのです。

ジョゼさんの死因についても、当時「非A・非B型」といわれた肝炎であり、会社の労働との因果関係はないものの、なるべくスムースに保険金がおりるように死亡診断書に肝炎とは記入しないように病院にお願いした、と課長さんは打ち明けます。

保険金の件について尋ねてみると、これまで出稼ぎのブラジル人が掛け金を惜しんで払わないまま事故にあって、会社が往生したことがあるので、今では全員に強制的に加入させるようにしているため、かえって文句を言われている、と言います。
ジョゼさんの場合は規定の500万円がスムースに支払われるように手続きを進めているし、モニカ未亡人にも金額を含めて説明した、と言うのです。

モニカさんが50万円と勘違いしたのは、おそらく誰かが日本語とポルトガル語の数字の位取りを間違えて通訳したためでしょう。

このことが気がかりで、課長さんとの面会の後、近くの公営葬祭場の通夜の席にいたモニカさんに「こういう時にカネの話をする僕は非人間的だろうけど……」と金額の勘違いの話を持ち出しました。
その時の彼女の瞬時にニタリとした表情は、今でも忘れられません。


お通夜の晩のことです。
マリアさんとモニカさんが滞在することになった私の義弟のアパートに、ジョゼさんの仕事の同僚たちが何人も集まってくれました。

ブラジルから来た二人の遺族は、日本的接待の習慣がありません。
私は近くのコンビニに走って酒とビールにジュース類、ツマミに夜食類などを身銭を切って買い込んできました。

亡くなったジョゼさんと同じ仕事をしていた日本人の同僚たちは、自分たちの作業はそれほどきついものではないと言います。
日本でのジョゼさんの心のありようをうかがわせる興味深い話も出てきました。

そんな彼らに未亡人は「悪徳会社による奴隷的搾取的労働の犠牲者」を繰り返します。
その間に入って通訳をする私は、空しいものを感じるばかりでした。


一夜明けて、告別式です。
ブラジルでジョゼさんはクリスチャンだったことを聞いた課長さんは、手を尽くして日本人の牧師を連れてきてくれました。

日本の葬儀の場合、故人の未亡人が遺族を代表して列席者一同に挨拶するといったケースを私は寡聞にして知りません。
そんなこともモニカ未亡人に予備知識として伝えてましたが、彼女は皆さんに挨拶をすると言います。

告別式に列席したのは、会社の関係者ばかりでした。
私を含めて黒い喪服の日本人集団の前に出て、ジーンズ姿でポケットに手を入れたモニカさんが挨拶を始めます。
スタイルこそ日本の斎場では異様に映りましたが、その言葉には私も通訳をしつつ、胸を打たれました。

「亡くなってしまったジョゼは、私の夫として、そしてそれ以上にブラジルに残した息子の父親として、かけがえのない、すばらしい人でした……」


さて今度は火葬場で、また文化摩擦がありました。

ブラジルから来た遺族の二人は、お骨拾いなど恐ろしくて見たくもない、とかたくなに焼場に入ることを拒みます。
しかたがないので二人を場外に待たせて、私は生前に会ったこともない人のお骨を、私が今回、巻き込んでしまった義弟と共に、最初に箸で拾うことになりました。


こうしてお骨は壷と木箱に納まりました。
場外に待機していたブラジル人の未亡人に渡したのですが、すぐに「重いし、気持ち悪い」とアスファルトの路上に置き去りにしようとします。
さすがにこれは私がたしなめました。


ユニークで得がたい体験をしました。
しかし私はただでさえ追込み中だった編集作業の数日間のブランクをどうカバーするか、そして今回の葬儀関係で自分の持ち出した金額がバカにならないことに気付いて、目まいがしました。


ブラジルから来た未亡人は、その後も義弟のアパートをベースにしてブラジル大使館などに抗議を続けたと義弟から聞きました。
今度は義弟が通訳と案内人です。

ブラジルに戻ったモニカ未亡人は、今度は自分も日本に出稼ぎに行きたいと言い出した、と後にマリアさんから聞きました。
本人から私には、香典返しどころか何の音沙汰もありません。


さらに思わぬ後日談があります。

後に今度の件でも金が儲かる一方だった出稼ぎ斡旋のサンパウロの日本人旅行社の社長に偶然、会うことがありました。
彼はまったくの善意の、ある意味では被害者である私の義弟がジョゼさんを殺した、とあまりにもデタラメな話を私の前で吹聴したのです。
これには私も激しく怒りました。
殴ってやるべきだったかもしれません。
ひどく下劣な人間が世の中にはいるものです。


亡くなったジョゼさんは、ブラジルでコンピューターグラフィックの仕事をしていたそうです。
焼場で箸から伝わったジョゼさんの大ぶりな骨の感触を思い出します。

至近距離にいながら、生前にブラジルで知り合えなかったのが、つくづく残念でした。

(『オーパ』No.151 西暦1996年発表、 西暦2020年9月加筆)

再録後記:
25年前の時点ですでに日本とブラジルを26往復。
その後、多い年では年に5回半の往復というのもあります。
合計すると、100往復を越したかもしれません。
さて、ここに書かれたのは約30年前の事件です。
まだ僕が「ひとり取材」に開眼する前のできごとでした。
ブラジルからのデカセギも、当時からまさしく1ジェネレーションが経過しました。
補足として、当時の日本円の500万円は、ブラジルでは今の数倍の使い出があった大金だったと思います。
さてその後、記録映像作家として僕はこの問題にどうかかわったか。
振り返ってみると、試行錯誤をしながらも『ばら ばら の ゆめ』『未来のアミーゴたち』といった作品を編んでいます。
いずれも南米から日本に渡った労働者たちの子供たちに焦点を当てることになりました。
コロナ問題ですっかり遠くなってしまったわが祖国に生きるアミーゴアミーガたちに、サウダージを覚えるばかりです。
(西暦2020年のブラジル独立記念日に記す)


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