大西洋の壁 (2021/05/17)
私が初めてジャンガーダのことを知ったのは、新宿の裏通りにあった会社の小さな図書室で開いた民族学の本でした。 ――ブラジル北東部の海岸部では、今日でも漁師たちはジャンガーダと呼ばれるイカダで大西洋の沖合いに出て漁をしている。ジャンガーダは丸木を並べたイカダに布の帆を張った簡単な構造だが、先住民インディオの文化にヨーロッパとアフリカの文化が融合した産物で、大西洋の荒波のなかをスムースに航行して漁業をするのに適している―― だいたいこんな内容だったと記憶しています。
1980年代初めの頃です。 私は祖国でテレビドキュメンタリーを専門に制作するプロダクションの若年ディレクターでした。 当時、日本のテレビでブラジルといえば、私の担当していた番組を始め、ほとんどが大アマゾンの裸族(当時は普通に使われていた言葉です)かジャングルの猛獣といったところでした。 インディオとヨーロッパ、そしてアフロの知恵の結集という、いかにもブラジル的なイカダ漁をいつの日か取材してみたい、と思ったものです。
1984年のこと、アマゾン取材のためサンパウロに滞在していた私に東京から「ブラジルの珍しいフィッシング」についての番組企画を早急に送れ、という指示が届きました。 私の担当していた番組は、毎週放送される海外取材のドキュメンタリーでした。 毎回「裸族の祭典」ばかりとはいかず、時には地味な企画がパスすることもあります。 特に「裏番組」にプロ野球・巨人戦のある夏場や、年度末の2、3月などは、さほどセンセーショナルでもないネタでも放送されたものでした。 そんな時期の企画として「ブラジルのイカダ漁」はGOとなったのです。
私の取材班はジャンガーダの本場とされるブラジル北東部セアラ州の州都フォルタレーザに向かいました。 フォルタレーザの海岸を目指すと、ケバケバしい色とデザインの帆がいくつも並んでいました。 タクシーの運転手が、あれがジャンガーダの帆だと言います。 「伝統的なイカダ」とはだいぶ遠い第一印象です。 ジャンガーダの帆には、それぞれ様々な企業の宣伝や製品のロゴがあざとくプリントされていたのでした。 後にわかったことですが、これは定期的に行なわれるジャンガーダ・レースの際、スポンサーが宣伝入りの帆を提供しているためだったのです。
さらに近づいてみて、愕然としました。 ジャンガーダの船は、構造は簡単なものの、板を組み立てたもので、丸太を並べたイカダではなかったのです。 ジャンガデイロと呼ばれる漁師たちに聞くと、今どき丸太のイカダなど使っちゃいない、と言うではありませんか。
最近、新しく発行されたポルトガル語辞典でもjangadaとひけば「いかだ」とあります。 そして手元の国語辞典を見ると「いかだ」とは、竹や木を結び合わせて水に浮かべるもの、とあるのですが・・・!
私の所属していたドキュメンタリー番組の老舗会社は、今でも悪夢にうなされるほど、それは厳しいところでした。 一度、ブラジルから「イカダ漁」と企画を送ってOKを得た以上、「今はイカダではありませんでした。辞書を見ても・・・」では許されません。 絶望のあまり、フォルタレーザの海岸にへたり込む日本人を、漁師たちはどこか田舎の海岸なら今でも丸太を組んだジャンガーダが残っているかもしれない、と慰めてくれました。
ブラジルの北東部の海岸は、砂浜と砂丘が続いています。 地元で雇った観光ガイドの運転するサンド・バギーで、私たちはフォルタレーザをベースに南へ北へと砂上を走り、漁村を訪ねて回りました。 熱帯の強い陽射しを浴びた砂丘地帯で、さながらミラージュのような光景や人、物を垣間見ました。 しかし残念ながら私は「イカダ、イカダ」と呪文のように唱えるばかりで、それ以外のものを受けつける余裕はありませんでした。 東京からどやされて失職するのは仕方がないでしょう。 それはともかく、人間の伝統文化というものが、そうたやすくあまねく形を変えてしまってたまるか、しかもここは多様性を誇る広大なブラジルだぞ、という祈りにも似た気持ちがあったのです。
そんな海岸巡りが数日続きました。 とある砂浜に、まさしくヒョッコリと、丸木を組んだイカダが日干しにしてあるのに出遭いました。 誰かがアホな日本のテレビ屋をからかおうと博物館から持ち出してきたヤラセではないか、と疑ったほどです。
このイカダの持ち主は、近くの町に住むパレドン(大壁)と呼ばれる六十歳を越した老ジャンガデイロでした。 パレドンは板組みの「近代的」ジャンガーダも所有しているものの、ふと数年前にかつての丸太イカダのジャンガーダを作ってみたくなったと言います。 しかし今やイカダに適した木材を探すのにも苦労して、道楽と呼ぶには金がかかり過ぎてしまったとか。 パレドンは実にもの静かな人でした。 小柄ながらも屈強な身体、そして実直で物に動じない性格、そして半世紀にわたるというジャンガーダ漁師歴から、人々に「大壁」と呼ばれて敬愛されていたのです。
丸太のジャンガーダは作ってはみたものの、あまり使うこともないと言います。 そのイカダのジャンガーダで漁に出てもらえないでしょうか、とお願いすると、簡単に応じてくれました。
丸太のジャンガーダの大きさは畳四畳ほどで、通常二人の漁師が乗ります。 いっぽう最近の板組みのジャンガーダはそれよりひと回り大きく、三~四人の漁師が乗り込みます。 さて海上というのは、海水の飛沫、潮風、揺れなどのため、デリケート極まる電子機器のビデオカメラを駆使するには最悪のシチュエーションです。 そのうえイカダの上は狭いばかりか常に波を被るため、カメラマンが重く大きい機材を持って乗り込むにはリスクが大きすぎました。
私たちはイカダに乗り込むことを断念して、撮影のために別にエンジン船をチャーターしてイカダ漁に同行することにしました。 パレドンのイカダは大西洋の沖合い20キロほど、地平線が見え隠れする辺りの漁場に向かいます。 ジャンガーダの動力は風力のみ、もちろん無線機などもありません。
その日の大西洋の波は、特に荒れました。 我らが僻地取材専門のスタッフ3人とも船酔いでダウン、まるで取材になりませんでした。 そして海上では丈の高いエンジン船よりも、シンプルなジャンガーダの方がはるかに安定していることを知ったのです。
大壁・パレドンは実に渋い人でした。 彼に海のことをどう思うか、と尋ねたことがあります。 パレドンは言葉少なく答えました。 「海は、すべてだ・・・ 喜びも悲しみも、みな海からやってくる・・・」 すでにパレドンの人となりに敬服していたスタッフ一同、ますますしびれてしまいました。
そんなパレドンも、若い頃には実に怖い思いをしたと語ってくれました。 第二次世界大戦中のこと。 少年漁師パレドンは世界戦争など別の世のことと思い、その日もジャンガーダで大西洋の沖合いに出ました。 すると海上に巨大な黒い塊が現れ、辺りを轟音と水煙、火炎が覆いました。 ちっぽけなイカダの前で、アメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦Uボートの死闘が繰り広げられたのです。 パレドンはこの世の終わりを感じたと言います。
ビデオカメラには、画像と音声が同時に記録されます。 ジャンガーダ漁の撮影中はスタッフの罵声や叫び声、船酔いの嘔吐の音などまで記録されてしまいます。 こんな音ばかりしか録音していないと、番組の仕上げの際に音響効果担当から「使えねえぞ!」と激しく責められてしまいます。
このため、ジャンガーダ漁の自然な状況音を録音しようと、パレドンのイカダにカセットテープレコーダーを仕掛けさせてもらったことがあります。 宿に戻ってから、テープを再生してみました。 波と風の音が延々と続きます。 気長に聞いていると、途中で小さく人の声がしました。 パレドンと相棒の漁師の会話です。 ボリュームを最大にして、何度も聞き返してみました。 相棒「なんであのジャポネーズたちは、地球の反対側からわざわざオレたちのことを取材に来たんだろうね?」 大壁「・・・きっと彼らはオレたちの仕事に、月に行った人間と同じなにかを見つけたんじゃないかな」。
もの静かな老ジャンガデイロ・パレドンは、漁業の大型化と機械化の進む現代社会からは前時代的で貧相にも見えるジャンガーダの仕事に、強い誇りを持っていたのです。 と同時に、私たちのドキュメンタリーのあるべき姿を、私たちよりずっとよくわかっていたのでした。 大切なのは、丸太のイカダか板組みの船かではなく、人間そのもの、だと。
(『オーパ』No.158 西暦1996年発表、西暦2021年5月加筆)
再録寸言: ああ、自分はこんな取材もしていたんだな、と思うと感無量です。 僕はこの2年後にもセアラのジャンガーダ漁を取材していますが、いずれも不本意な扱いとなりました。 パレドンとの取材はブラジル南部の「イルカ漁」と混ぜこぜに編集されて放送されました。 二度目の取材成果に至っては番組総指揮の牛山純一プロデューサーの虫の居所が悪く、まったくのボツとされてしまったのです。 二度目の取材では、本稿で書いたようにまさしく人間そのものに迫れた手ごたえがありました。 しかし牛山御大は企画にGOを出しておきながら、登場人物の人間をとらえなければ持たないようなネタでは『すばらしい世界旅行』という番組は成立しない、と「その時は」宣言したのでした。 これが、僕がフリーの道を決意する大きな契機となりました。 (西暦2021年5月18日 記す)
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