貧しくなりたい - ある日本人シスターの聞き書き① (2022/11/14)
キリスト教の修道女(シスター)と呼ばれる人たちが、どんなスタイルをしているかは日本の皆さんにもだいたい見当がつくと思います。 しかし彼女たちと直接、話をしたことがありますか?となると、国民の4分の3がカトリック信者ということになっているブラジル在住の人でも意外と少ないようです。 ましてや日本ではカトリックとプロテスタントの信者数を足しても国民の1パーセント足らず、子供がカトリック系の幼稚園にでも通っていない限り、接点はほとんどないでしょう。 私自身、日本で暮らしていた頃の修道女のイメージといえば、せいぜい梅図かずおさんの怪奇マンガ「ミイラ先生」ぐらいのものです。 当地ブラジルや欧米でも、修道女たちはコメディからポルノの題材にまでされているのを見受けます。 ブラジルに移住してから、権力から抑圧されたり、社会から疎外されたりしている人たちのところを訪ねるようになりました。 そうした人たちのところで献身的に働くカトリックの神父や修道士、修道女たちにしばしば出会います。 なかにはシロートの私でさえ、ちゃんと聖書読んで出直せよ、と言いたくなるヒンシュクものの自称キリスト者もいます。 そういうのに関わってしまったこぼれ話は別の機会に譲るとして、私が心うたれたひとりの日本人シスターの聞き書きをご紹介しましょう。
ブラジル南部のパラナ州にサン・セバスチャン・ダ・アモレイラという小さな町があります。 この町の経済的に貧しい家庭の子供たちのための託児所で奮闘する日本人シスター、堂園(どうぞの)ヴィンセンシアみつ子さんとご縁をいただくようになりました。 堂園シスターは、日本の長崎純心聖母会という修道会からブラジルに派遣されました。 西暦1997年9月、現地での彼女の活動に同行しながらお話を聞いてみました――
| 日本のえほんをポルトガル語に訳して語るシスター堂園 |
| 私の名前は堂園みつ子、洗礼名はヴィンセンシアといいます。 生まれは鹿児島県日置(ひおき)郡市来(いちき)町、砂丘で有名な吹上浜(ふきあげはま)のあるところです。 父は建設業で、母は農業をしていました。 私は五人兄弟の三女で、家の宗教は仏教でした。 姉が鹿児島のカトリック系の女子高校に入り、姉からカトリックの話を聞きました。 姉の影響で、同じ女子高に入ったんです。
私は高校に入って、初めてシスターという人を見たんですね。 わぁ、気の毒な人たちだなと思いました。 人生にはいろいろな楽しいことがあるのに、それをみんな捨ててしまって、あんな修道服を着て…なんて思ってたんです。 そして自分の高校にシスターの志願者がいるって聞いて、びっくりしました。 そういう人たちが本当に存在するんだろうか、ていう感じで。
私、中学校の時に学校でもクラブ活動でも、わりと充実してたんですね。 バレーボールのセッターをしてました。 朝早くから夜遅くまで、真っ黒になって。 それに生徒会活動や、コーラスもやっていました。 高校に入ると電車通学になったので、クラブ活動が全然できなくなったんです。 それに女子校だから女子だけで、自分と話題の合う人もあまりいなくて。 お金持ちのお嬢さんが多くて、流行を追いかけて。 それでいて、けっこう悪いことをしていた人たちもいました。 自分が生きているんではなくて、ただ息をしているだけ、といった無力感、そして自分に何にも価値がない、そんなことを感じていたんです。 何か精神的なものを求めていたんですね。
私は幼稚園の先生か、新聞記者になりたいって思っていました。 子供っていうのは、神さまに近いですよね。 けがれてないっていうか。 それでそういう世界で働けたらいいな、と。 新聞記者になったら世界中を走り回って、いろんな事件に出会って、いろんな人たちとの出会いがあるんじゃないかな、って。 それで、幼稚園の先生になろうと思って、長崎純心聖母会の経営する長崎純心短期大学の保育科に入りました。 ある時、学生寮の友達にカトリックの勉強に一緒に行かないかって誘われたんです。 信者になるとかは全く頭になくて、教養としてカトリックのことを知ってたらいいな、と思ったんです。 それで土曜の午後に、シスターと一緒に勉強を始めました。 シスターがこんな話をしてくれました。 「神さまは、私たちひとりひとりを愛して下さったのよ。それで私たちは生まれてきたのよ」。 これを聞いて、高校時代からの悩みが一気に喜びに変わってしまいました。 「あぁ私、生まれてきてよかった」と心の底から思ったんです。 そして、このうれしさを誰かに伝えたい、という気持ちが起こりました。 その時にいちばん手っ取り早いことは、シスターになることだ、と思ったんですね。 修道服を着ていれば、この人は神さまと関わりを持っている人だとわかりますからね。 でも私は自己主張が強いし、何でも好きなことをやりたい方で、自分はぜったいシスターになれない、と思いました。
20歳の時にいちおう洗礼を受けて、3年間、考えてみようと決心しました。 そして鹿児島の川内(せんだい)の幼稚園に勤めました。 その幼稚園をシスターたちが手伝っていたんですけど、彼女たちの姿を見ていて、これは自分にはとても無理だ、と思いました。 そして3年経ってから、私に洗礼を授けた神父さんのところに行きました。 「3年経ったんですけど、やっぱり私には向いていないと思います」って言ったんです。 すると神父さんは私を見て「恋人はいますか」って聞きました。 「今のところ、いません」と答えると、 「私からみたら、あなたはシスターに向いていると思います。でも歳をとるほど決心が鈍るから、もうそれでいいでしょう」って言われました。 私はもうこれで修道院生活を考えなくっていい、と思うと心が晴れ晴れしました。 それから、修道院にいた先輩に会いに行きました。 そうすると、短大の時の宗教の先生が修道院にいらしたんです。 彼女に言われました。 「残念ね。あなたは一回も試していないのに、それでもう決心するわけ?」この言葉がものすごく心に残って。
実際、私は修道生活を外から見ていただけだし、これはもう、仕方なく入ってみなければいけないんじゃないか、って思ったんですね。 でも職場も長い休みを取れないし。 結局、行きたくもない修道院のために仕事を辞めることになりました。 親を説得するだけの準備もありませんでした。 ただ私は後悔したくないから、試してみたい。それだけだったんです。
私は貧しくなりたかったんです。 物質的に、本当に貧しくなりたかったんですけど、それが日本では難しくなってしまって。 イエスさまは、本当に貧しかったですよね。 貧しく産まれて貧しく生きて、貧しく死んでいかれた。 私たちはイエスさまの後を行く者として、貧しくなければいけない、と思うんです。 私自身、環境が変われば自分も貧しくなれるんじゃないかな、という頭だけの考えがありました。 そんな時、うちの修道院からブラジルに人を派遣するという話があって。 私が一番に応募したそうです。
ブラジルに来て、もう17年になります(西暦1997年当時)。 本当に貧しくなりたくてこちらに来たんですけど、貧しくなれない自分の限界が、はっきりわかりました。 自分のなかの自我というか、いろいろと引きずっているものがあって、それをすべて捨てきれない。 本当の貧しさのなかに、飛びこんでいけない、という限界です。 日本で考えていた貧しさというのは、精神的な貧しさの方が強かったですね。 ブラジルに来て貧しさというのを考えると、社会的な不正義からくる貧しさというのを、ものすごく感じます。 社会的構造、不正義からくる貧しさ、そのためには私たちは貧しい人たちの権利を主張して闘っていかなければいけない、と思います。 そして自分の限界はわかりますけど、そういった貧しい人たちと、環境的にも精神的にもつながりを本当に大切にしていかなければいけない。 そういう気持ちは、ブラジルに来た当初よりも強まっています。
これまでシスターたちは、社会福祉とか教育の場でがんばってきたと思います。 でも、修道女の本来の姿は祈ることだと思うんです。 本来の姿に戻って祈る人たち、それがシスターじゃないかな、と思いますね。 今の私は「祈り」についてこんな風に考えています。 神さまのことをわかろうと努める、神さまに心を向ける、いつも神さまとの一致を心がけて今、自分が何をすべきかを見つめていく。 それが祈りじゃないかと思っています。 祈りの方法も、いろいろな形があっていいと思います。 ひとつひとつ、いろいろな形のなかに自分の心を入れていく。
神さまをもっと深く知るために、そして本当に神さまのことをよくわかるようになったら、自分というものが無くなっていって、もっとみんなのことが見えるようになってくるんじゃないかな、と思っています。 <『オーパ』(No.166 西暦1997年)に掲載。西暦2022年11月改稿>
再録寸言:パンデミックの始まった翌年の2021年、私は自分の取材人生でかけがえのない人を何人もなくしてしまいました。 そのひとりが、シスター堂園です。 わが代表作に掲げるべき『あもーる あもれいら』三部作の主人公であるシスター堂園は西暦2016年に日本に戻り、昨年11月15日に日本で帰天されました。 シスターのことを祈念して、まずブラジル時間のお命日にこの記事の前編をアップします。(西暦2022年11月15日・記)
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