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岡村淳のオフレコ日記
     西暦2023年の日記  (最終更新日 : 2024/01/02)
8月の日記 総集編 リオのバカ大将

8月の日記 総集編 リオのバカ大将 (2023/08/05) 8月1日(火)の記 ピニョンのリゾット
ブラジルにて


昨日の記で言及した橋本梧郎先生にもちなんで、少し博物風に。

パラナの旅で、シスターたちが採集して煮てくれたピニョンをたくさんいただいた。
pinhão:パラナ松の実である。
パラナ松は学名に由来して Araucária と呼ばれることもしばしば。
チリの先住民 Arauco にちなんだ名前だ。

パラナ松は南米大陸南部のやや寒冷な土地に分布する。
直立したキノコのような幹の樹冠に皿状の枝を広げ、絵ごころをそそるたたずまいだ。

恥ずかしながら今回、検索してみて気づいたことがいくつか。
パラナ松というのは、ブラジルに到来した日本人移民がこの松はパラナ州に多いからと命名したのかと思いきや。
ポルトガル語でも pinheiro-do-paraná という名称があった。

そして pinhão というのはパラナ松の実のことをもっぱら称しているのかと思いきや、そのほかの松の小さな実もこの語で呼ぶのを知った。

パラナ松は松ぼっくりも巨大だが、ナッツも4-5センチと巨大である。
そもそも僕は日本時代に松の実というのを意識して食した覚えがない。

以前、バジルを大量消費する際にジェノベーゼソースにするというレシピに接し、それに松の実はつきもののようだった。
しかしそのためにどこに売っているかも定かでない松の実を探すのもメンドクサイ、とあきらめたことがあったっけ。

茹でたり焼いたりして、皮をむいてそのままいただいても悪くはない。
だがこれだけの量となると、なにか工夫したい。
ポルトガル語で検索してみる…

あまりレシピのヴァラエティはないが、ピニョンのリゾットというのがある。
やってみるか。

ふつうのブラジル米:長粒のインディカ種を用いて…
おや、ブラジル米はリゾットにするとこんなにべちゃべちゃになるとは!
イタリア米:カルナローリ種を用いるべきだったか?

これまでリゾットはパーボイルド米を使っていたせいか、崩れやべたつきはなかったのだが…

むむ、これで三合もつくってしまった責任は重い。
味は悪くはないのだが。
残りは冷凍して断食回復食とするか…


8月2日(水)の記 大いなる根
ブラジルにて


今日は午前午後ともりだくさんだった。

午後からそろそろ終わるミュージアムの展示を見に、ダウンタウンへ。
カトリック聖美術館と自閉症児の団体のコラボ企画。
聖美術館に入館するが、それらしいものが見当たらない。
聞くと、その展示は最寄りのメトロの駅内にあるこのミュージアムの分館で開催中の由。
ふたたび駅へ。
監視員以外、誰もいない。
自閉症児の団体が聖美術館を訪ねて、見学の後、図工をやってみました、という展示内容。

ここはコリアタウンに至近なので、食材を買い出し。
キムチ類が目的だったが…
葉っぱが青々として、球形に近いダイコンがある。

店のおじさんに聞いてみる。
韓国の大根の種をサンパウロ市近郊の日系農家で栽培してもらっている由。
買ってみる。

これをなんと呼ぶか。
日本語で検索してみると韓国大根という言葉があった。
朝鮮大根という言葉よりヒット数が多い。
コリアンラディッシュという言葉もあるが、かの地のものをコリアンという英語で呼ぶとつっかかってくる人もいる。
韓国、朝鮮という言葉もうかつに使うとクレームをいただくことしばしば。
めんどくさいから、それがらみの記載は控えよう、というのは避けたい。
それが先方の思うツボかもしれないし。

特にその方面に通じていない僕などは、いったいなんと呼べばいいのか。
ちなみにミニ大根という言葉もあり。

これをパラナで知った鶏の手羽先とのおでん風煮込みにしてみる。

おお、この大根は煮えるのが早く、やわらかい。
葉っぱは卵と炒めてみた。

韓国大根のキムチではない漬け物というレシピがいくつかある。
やってみようか。


8月3日(木)の記 1973
ブラジルにて


自作の追い込み等々で、他人様の映画鑑賞は控えたいところだが…
シネマテッカ・ブラジレイラで気になる特集が始まっている。

訳すと「1973 / 50年後に」という企画。
西暦1973年の世界、およびブラジルの映画を回顧するというわけだ。

僕が日本でバリバリの映画少年だった時期。
今回の上映作品でも『エクソシスト』『アメリカの夜』『スティング』など僕を銀幕のとりこにした作品群が。

こうしたマスターピースはそこそこDVDで所有している。
気になるのはブラジル映画だ。
当時のブラジルは軍政時代の真っただ中。
いま僕がまとめている『消えた炭鉱離職者を追って』シリーズで言及している記録文学作家の上野英信が『出ニッポン記』の取材でブラジルを訪れる前年でもある。

今日はこの年のブラジルの短編映画5本の上映を見る。
すでに僕は昨今のブラジル映画に、劇映画でもドキュメンタリー映画でもなにやらついていけない感も覚えていて。
1970年代ぐらいまでのドキュメンタリー映画には手法的にも共感・親近感があり、そのあたりを考えるヒントになればと。

うーん、今日の5本は映画史・映画誌的な点では面白いのだろうけど、といった感じ。
売りものかと思うようなカタログをもらえたので、少し勉強してみるか。


8月4日(金)の記 明後日に向って撃て!
ブラジルにて


自作の編集作業も、いよいよ終盤ぎみ。

シネマテッカの「1973」特集、午後の部をひとつたしなむことにする。
ブラジル国産映画をあらたに4Kマスターを作成して上映する由。
タイトルは『TRINDAD...É MEU NOME』とカタログにある。
だがカタログのポスター写真には『TRINDAD É MEU NOME』となっている。

ちなみにウエブ検索すると、シネマテッカのウエブサイト以外は最初の単語が「TRINDADE」になっているではないか。
B級プログラムピクチャーの扱いは、こんなものか…
訳すと『わが名はトリンダッド』ぐらいのところ。

ずばり西部劇の設定だが、ブラジルだとさして違和感もない感じ。
とにかく女好きのイケメン・トリンダッドと弟の巨漢をめぐるお色気どたばた。

名作『明日に向って撃て!』のテーマ曲『雨にぬれても』をイメージショットに合わせて延々と使用しているぐらいだから、そのオマージュのつもりもあるのだろう。
『明日に向って撃て!』のアメリカとブラジルの公開はいずれも1969年だった。

このブラジル映画ではグリンゴ:アメ公と呼ばれるお尋ね者のガンマンがいわば悪役なのも軍事政権時代につくられた映画だけに、意味深かも。

こうした名作とは言い難いBC級大衆映画から公開時の時代を推し量るのも一興。


8月5日(土)の記 ワイズマンを観る
ブラジルにて


シネマテッカの「1973」特集は明日まで。
今日はフレデリック・ワイズマンの原題『Juvenile Court(邦題『少年裁判所』)』がかかる。

ドキュメンタリー映画界の名匠ワイズマンの作品をブラジルで、スクリーンで拝めるチャンス。
ちょっとめんどくさくもあるが、思い切る。

ワイズマンの膨大な作品を恥ずかしながらほとんど未見。
かつてなにかしら見た記憶があるのだが、これまた情けないことにはっきりと思い出せない。

さて50年前のこの作品、今日の人権や肖像権等々をめぐる状況では撮影も公開も極めて難しいことだろう。
罪をおかしてしまった未成年者をモザイク等の加工なしでストレートに撮影しているのだ。

そして語られる問題はまるで色あせていない、今日的にして普遍的な問題といえそうだ。

当時は16ミリフィルムでの撮影であり、その時代を知る後進として、この撮影が技術的にもコスト的にも尋常ではない取り組みであることを痛感。

被写体の人たちとの関係性も含めて、どのように撮影されたのかを見たい・知りたいものだ。
技術的にはいったい何台のカメラと何人のカメラマン、そして録音マンがいたのだろうか?

最後のスタッフクレジットを見て驚く。
カメラマンの名前はひとり、それと撮影助手。
録音担当の名前は見当たらない。
おそらく監督のワイズマン自身もマイクをもって録音にあたったのではないか。
それにしても、音もよくとれていて、画面にはまるでマイクの映り込みなども見受けられなかった。
存在自体が奇跡、マジックのドキュメンタリー映画だ。

太陽のもとに新しいものはない、とはよく言ったものだ。

またブラジルでワイズマンを観る機会があることを願う。


8月6日(日)の記 乾いた人生
ブラジルにて


あらたに身内の世話や来客ラッシュが始まる。

思い切って見に行くか。
マスターピースの鑑賞は液晶モニターではなく、銀幕で、

ブラジル銀行カルチャーセンターにて邦題『乾いた人生』を見る。
1963年の作品。
日本で映画ファンに知られるブラジル映画の古典として屈指だ。

原題は『Vidas Secas』、邦題はずばり直訳だが…
ちなみに現代の「人生」は複数形だ。

日本語のコメントを見ていると「イッヌ」という奇妙な表記が複数の人にある。
検索すると…
「イヌ」を「イッヌ」と近年、表記する傾向がある由。
どんどんだんだんついていけなくなる。

古典を見に行って、希望と絶望が錯綜。


8月7日(月)の記 サバビアン
ブラジルにて


今日の午後からこちらの親類高齢者の付き添いを再開。
いくつかわが家で準備した食材を持参する。
贖罪の念を込めて、というシャレでもないが。
自分のなき肉親には忸怩たる想いも。

初持参は、シメサバ。
こちらで売っている小ぶりのサバは冷凍ものかと思っていた。
聞いてみて、新鮮なものとのことで、シメサバにしてみてうまくいった。

今回は二作目である。
まさか異国に移住して、自分でシメサバをこさえる日が来るとは。

日本での学生時代。
当時の大衆居酒屋のツマミの種類は、昨今の数分の一ぐらいだったかと。
さして値の張らない好みのツマミがシメサバだった。

気鋭の若手生物研究者と、当時われわれがションベン横丁と呼んでいた新宿の線路わきあたりに飲みに行き・・・

出てきたシメサバに箸をつけた彼は、これは何度も凝固と溶解を繰り返している!と叫んだのを想い出す。
細胞が破壊されている!とも言ったかな。

あれ、ひょっとするとあれはシメサバではなかったかな?
あの人、どうしただろうか?
探したものの、行方がわからなくなってしまった。

僕の考古学徒時代に出会った彼には、僕がテレビ屋に「変態」したあとのナメクジ取材でも大変お世話になっている。


8月8日(火)の記 知的遺産としての広島と長崎
ブラジルにて


出先に持参した『神々の遺産』㊦を読了。

最終章のこの部分を写経しよう。

「われわれ人間は、動物界で唯一、祖先の経験から学ぶ能力を持った存在だ。たとえば広島と長崎の後、すでに二世代が生まれて大人に育ち、核兵器がもたらす恐るべき破壊について皆が知っている。子供たちもまた、直接に体験していなくても、核兵器の危険性を知っており、さらに子供たちに伝えていくことだろう。こうして、原子爆弾がもたらすものについての知識は、人類の永遠に残る歴史遺産の一部となった。この遺産を生かそうとするかしないかは、われわれ次第だ。」

筆者のグラハム・ハンコックはアメリカ人のジャーナリストで、この原著は西暦1995年発行だ。

それから四半世紀以上、経たいまはどうだろうか?
映画『オッペンハイマー』はブラジルで劇場公開中だが、見もせずにとやかく言う愚は差し控えよう。

「唯一の被爆国」日本でのマンガ『はだしのゲン』に対する体制・行政の扱いにニュースで接している。
人類は、日本人はこのジャーナリストの想定をはるかに下回る愚かな存在かもしれない。

そんななか、日本のコンビニでこの時期に『はだしのゲン』の廉価版が売り出されたとの報に希望を見る。


8月9日(水)の記 日本接近
ブラジルにて


パンデミック直前に日本からブラジルに逃げ帰って以来の国内巣ごもりが続いたが。
ついに今年の祖国の秋の時期に里帰りを計画中。

空の事情も、こちらがうわのそらのうちに、だいぶ変わってしまったようだ。

そもそも1回の日本往復可能をうわまわるマイレージがたまっていて、それを維持するための出費も続いたのだが…
これを用いるつもりが、マイレージ利用可の空席は来年に至るまでないではないか。

やむをえず、ネットで格安便の情報をいろいろ調べたうえで、こちらのなじみのエージェントと連絡を取っているところ。

今回はこれまでよりは短い期間で、これまでのような息も付けない予定は入れない、つもりだが…

まずは今週中にはフライトをフィックスする必要がありそうだ。


8月10日(木)の記 民族から民俗へ
ブラジルにて


日本から来た友人とこちらで再会することに。
なかなか「通」な人なので、それ相応の店や場所、イベントを紹介しないと。

さてSNS時代のイベント情報のプラスマイナスを認識することに。
利点としては、活字時代にはたどり着かなかったような情報が入ってくること。
不利点としては、こちらからいちいちアクセスしないとプログラムがわからない場所もあること。

ええ、こんなイベントやってたのか!と後で知ってガックリ来ることも少なくない。

おお、サンパウロカルチャーセンターで先住民音楽映画特集というのをやっているではないか。
これは知らなかった。

長時間のフライトで到着した友人にこれを伝えると、見てみたいという。
彼はかなり咳きこんでいて、翌日からのミッションもあるので、静養をすすめるが、時差ボケ調整のためにも行きたい由。

短編2本ずつのセッションを二つ、供にする。
これは見ておいてよかった。
先住民のこうした映画では無理にでもほんらいのネイティヴな言語で話させて、それにポルトガル語字幕をあわただしく被せるというのがフォーマットの感があったが…

先住民がほとんどポルトガル語で会話する作品の方が多かった。
グループにもよるだろうが、無理にポルトガル語で話している感じでもなく、僕あたりよりずっと流暢である。

この人たちとポルトガル語の接触の歴史は数百年から数十年までさまざまだろう。
かたやブラジルの日本人移民とその子孫は、すでに第二世代で日本語の読み書きどころか、聞いて話すことにも不自由しているケースが少なくないではないか。

かつてのアマゾン先住民のドキュメンタリー撮影では、銃器で脅して先住民が日常的にまとっている「西洋的な」衣服を脱がせて「裸族」を再現させたケースもあると関係者から聞き及んでいるが…

すでにいでたちは普通の地方のブラジル人とさして変わらない若い先住民たちが、祖先の言葉の唄を歌いながら舞い、盛り上がっていく。

前世紀のテレビ屋として、感無量。


8月11日(金)の記 早起きは三レアイスの
ブラジルにて


今朝は、早朝から思い切ってみる。

7月23日付に書いたブラジル人の初聖人・ガルヴォン修道士が生前に築き、自らの遺体が堂内に埋葬されているルース修道院での午前7時からのミサにあずかることに。

ちなみに今日のメトロ車内の印象は…
マスクをしている人より、ノーマスクで咳こんでいる人の方が多い感じ。

ルース修道院は、カトリック聖美術館の並び。
中心街だが、静謐。
こんな空間がもっと身近にあれば。

さて午前中の次の重大案件まで少し時間がある。
近くのコリアンタウンでカフェ、ついでに訪問先へのお土産を購入。

ブルゴギバーガーというのを話のタネに試してみる。
おや、これはいけるではないか。

朝から盛りだくさんで、夕方までイレギュラーな展開となる。


8月12日(土)の記 70分待ち
ブラジルにて


昼過ぎ、なかなか会えなかった在ブラジルの日本人の知人にわが団地までお越しいただく。
団地内のカフェで、異常に盛り上がる。
どんな知識でもけっして無駄にはならないと改めて思う。

夜はわが子とコリアンタウンのレストランへ。
わが基準からだと、かなりのお値段。
18時過ぎに出家、道を間違えて少し遅れ。

ぎょぎょ。
19時過ぎで、すでに空席待ち客があふれている。
以前、近くのより格安なコリアンレストランに夜の開店時間に行ったら、開店後もしばらくほかに客も来ず、寂寥感を覚えたのだが…

今日に限って待ちの間の読み物を持参しなかった。
けっきょく70分待ち。
飲食店でこれだけ待った記憶は、ないか思い出せないかといったところ。

まあ、それだけのクオリティのものだったけど。
肉質は、ブラジルのいい肉はみんなこういう店に来ているのかと思わせるほど。

ああしたら、こうしたらという点はいろいろあるけれども。
人気店であわただしい店に関わらず、店員にこのヤロウめ、と思わせるのがみあたらないのがよかった。


8月13日(日)の記 梅割り桜
ブラジルにて


…そういえば、サンパウロは桜の開花の季節のようだ。
僕はこちらで見る桜にさして萌えないのだが。

さて、今日はブラジルの父の日。
こちらの家族が集まって、手巻きズシでお祝いしてくれることになった。

とはいえサシミ用の魚の買い出し、いくつかの具材の準備は不肖の父が行なう。
路上市でアジとマグロを買ってきた。
冷蔵庫に自家製シメサバもあり。

昨日、知人が日本の友人からもらってきたといういわくつきの梅干しをいただいた。
…梅チューハイでいってみるか。
ブラジル国産ウオッカ、トニックウオーター、ライム絞りでどうだろう。

ふむ、濃度を調整。
けっこうなり。

キッチンドリンクが進み、昼の手巻きタイムにはだいぶ出来上がってしまう。
さすがは不肖の父。


8月14日(月)の記 ひとり仕事のひとりごと
ブラジルにて


手直しした『消えた炭鉱離職者を追って・リオデジャネイロ編』を全編試写。
…もう一度ぐらい、確認の試写をしておこうか。
ひとり仕事は思わぬチョンボがつきものである。
それなりに慎重にしないと。

今日は一日断食を決行。

明日は夕方からお泊り料理人業務。
その前に車を出しての日本からの友人家族のもてなし、そして週後半も日本からの知人のお相手が続く。
どうなるか読めないことが重なってしまった。

祖国は大型台風上陸が迫り、日本のニュースメディアを騒がせている。
その間、お盆休みを利用してブラジルまで来た人が少なくないのだ。
帰っても、まだ祖国はあるかな。

さあ自分の訪日の準備もすすめないと。


8月15日(火)の記 あれから20年
ブラジルにて


今日はよく先が読めないまま、早朝に車で出家。
南回帰線直下方面へ。

渋滞懸念のサンパウロ市内を抜けて、カステロ・ブランコ街道へ。
やれやれ。
最初のサービスエリアで朝のカフェを飲み、彼に連絡しよう。

彼と出会ったのは、ちょうど20年前とか。
といっても僕の方はおそらく個体識別をしていない。
日本のさる地方の大学で拙作が上映され、彼は学生として鑑賞したという。

彼はポルトガル語を学び、ブラジルの映画を研究。
東京での僕の上映会にも来てくれることになり、出身の中部地方でオカムラ上映会まで主催してくれた。

その後、彼は日本で日系ブラジル女性と結ばれ、一女を授かった。
今回は彼女のブラジルの実家への里帰り。
サンパウロ州内陸のソロカバの町だ。

滞在中、サンパウロ市に資料購入に出るつもりで、その折にお会いしたいと連絡をもらった。
それもあわただしいだろうし、ご家族にも会いたいから僕がソロカバまで行きましょうということに。

ちょうどソロカバ近郊にある国立公園の写真をSNSで見て、機会があれば行ってみようかと思っていた。
それを提案すると、ぜひにということに。

お嬢ちゃんはまだ就寝中とのことで、友人夫妻と妻の兄を乗せて遠足。
映画でも撮りたくなる場所だった。

戻ると、実家の皆さんが昼食を用意してくれている。
はじめてお会いする方々ばかりだが、前からの知り合いのように盛り上がる。

帰路、近くでグラフィティ探しをして。
今夕からこちらのファミリーのところに僕が料理番で泊りだ。
間に合った、さあなにをつくろうか。


8月16日(水)の記 オッペンの像
ブラジルにて


いろいろあったが、午後に帰宅。
あとは家でゆっくりしようとも思うが…

いつロードショーが終わってしまうか気がかりの封切り映画が2本あり。
『インディ・ジョーンズ』と『オッペンハイマー』。
水曜なら、料金もいくらか安い。

明日からまた来客のアテンドだし。
思い切る。
前者の方がすでに公開中の館もまばらだが、時間的に後者とする。
うまくいけばハシゴもありか。

「原爆の父」ともされるオッペンハイマーの伝記映画でありながら、日本では公開予定もないというので話題らしい映画。
サンパウロの平日午後、シネコンとして経営が成り立つのか心配なぐらいの人の入り。

さてポルトガル語字幕版を見るが、字幕が多い
あわただしく字幕を追いかけるので精いっぱい、読み漏らしも多い。

しかも白黒映像とカラー映像が時間経過とは違う意味合いでまぜこぜで、そもそも予習をしておかないとストーリーをフォローするのもむずかしい感じ、僕には。

こちらも映像作家として、いくつかの音響表現に目を見張った。
いっぽう長い審問シーンが続くのだが、その間ずっと音楽が流され、これは僕には厳しい。

原爆問題にはいろいろなカタカナの名前が出てくるが、恥ずかしながら第二次大戦後のオッペンハイマーについてはよく認識していなかった。

あらたな原爆使用が懸念される状況になってしまったが、そんな折にそもそもの核の現代史を振り返る貴重な機会だ。


8月17日(木)の記 サンパウロのオフ会
ブラジルにて


今日は日本からの客人にサンパウロで会うことに。
この人とはパンデミック中に知り合い、メールでのやり取りをしていたが直接お会いしたことがない。

まさしく「オフ会」の機会だ。
お互いが「お不快」にならないように。

東洋人街のホテルで待ち合わせ。
歩くのは苦にならないとのことで、先方の関心と希望に沿って歩き始める。
先方にはいろいろ聞いてみたいことがあった。

途中、日本からの頼まれごとのことで相談を受ける。
あまり得意ではない分野で、少し考える。

あ、ちょうど行ってみたいもののうまくかみ合わずに未踏だった場所があった。
その場所について、確認を取る。

ソコソコ迷ってしまったが、そのおかげで近くの面白い店を知ることができた。

客人はさすがに疲れが出たようで、早めに切り上げる。
それでも今日は2万歩以上、歩いてしまった。

重いもの、かさばるものもいただいてしまい、恐縮。


8月18日(金)の記 2万歩つづき
ブラジルにて


今年はソウルメイト級の友人知人の訪問が続き、うれしい限り。
ロスが応えるかもしれないが、その頃はこちらが訪日準備中だろう。

昨日、初めて出会った日本からの客人と今日も昼過ぎからサンパウロ市内を歩く。
歩くのをいとわない人で、こちらもありがたい。

僕自身「お気に入り」ながらひとりでは行きにくいダウンタウンのアフロ混沌スペースを、いたく気に入ってもらえたようだ。
フツーの日本人なら、いやがる・こわがる人の方が多いかと思う。

夜間、ホテルから空港に向かうためのクルマをつかまえて、運転手に念を押すまでお付き合い。

おう、昨日も今日も一日2万歩以上、歩いていた。
過去のデータを見ると、2万歩超えはあっても二日続きは見当たらないようだ。

『あるくみるきく』という雑誌の名前を想い出す。
そんな二日間だった。


8月19日(土)の記 ブラジル南部の怪談
ブラジルにて


来客接待が続いた。
パンデミック前なら、土曜の今日は終日わが家でごろごろと飲んだくれていることだろう。

いまや、日課のウオーキング+グラフィティ撮りがある。

午後、思い切ってシネマテーカへ。
ただいまブラジルのWALTER HUGO KHOURI監督の回顧上映中。

この監督の英題『LOVE STRANGE LOVE』という1982年の作品は日本でも上映されたように記憶する…
検索。
ひゃー、『体験』というタイトルで1986年に公開されたようだ。

これは日本ではウリにならないが、この映画ではのちにブラジルの国民的アイドルになる女性Xuxaのヌードと濡れ場があるため、話題と問題になっている。
不肖私も、この監督名を聞くと即、この映画を想い出して。

今回の特集上映のフィルモグラフィーをざっと見て、気になる内容のをまずは見てみることにした。
『AS FILHAS DO FOGO』:「火の娘たち」というタイトル、1978年制作。

金持ちの娘どうしの女性のカップルが主人公。
サンパウロに住む一人が、南部のリオグランジドスルにある相方の実家に遊びに行く。
ドイツ語も使われているドイツ系移住地の豪邸だ。

豪邸にふらりとやってきた謎の男。
付近の森で録音をするドイツ系の女性は、自分は死者の声を録音していると明かす…

いわば余白の多いストーリーで、けっきょくなんだかよくわからないのだが、それがまた味わいのようだ。
ブラジルのホラー映画の巨匠の作品より、この映画の方が僕には不気味である。

むむ、この監督の映画、あとをひく。
どの作品も一度しかかからず、残念な作品がいくつか。
しかも特集上映は、明日まではないか。

明日もまたヴィジターのアテンドがありそうだが、もう一本ぐらい見ておきたいな。


8月20日(日)の記 『生きものの記録』とブラジル
ブラジルにて


今日はブラジル国内遠征中の友人が夕刻にサンパウロに戻ってくる。
そのあとで打ち合わせ、ということに。

その前に、今日で終了のWalter Hugo Khouri特集を一本見ておこう。
彼の遺作となった西暦1998年製作『PAIXÃO PERDIDA(失われたパッション)』。

サンパウロの大金持ちの家族の話。
マルセリーノ少年は、母の死のトラウマで発語も歩行も困難になってしまった。
彼の世話に、アナという経歴不明の女性がやってきて…

少年の姉はアマスポーツの選手で世界各地に遠征している。
彼女が極東をまわった時の、京都で撮影したビデオを家族に披露する…

清水寺あたりか、京都の観光スポットのショットいくつか。
京都にいるという設定の彼女の「より」のショット。
最後のクレジットから、この彼女込のショットはサンパウロ州内の日本的スポットで撮影したことがうかがえる。

あ。
黒澤明監督『生きものの記録』の真逆ではないか。
こちらは1955年公開。
東京で町工場を経営する主人公は、水爆戦争の恐怖から一族でブラジルに移住することを計画。
彼の同郷で、ブラジルに移住してコーヒー園で成功した男が自分の農場を写した映画フィルムと映写機を持ってきて上映する。
「本場」ブラジルのコーヒー農場の作業風景。
農場のなかの移民住宅。
移民住宅にいる「成功者」。

これもブラジルでの実写と日本でのセット撮影のモンタージュだろう。
黒澤組の常連であり、この映画でもスクリプターをつとめた野上照代さんに直接、お尋ねする機会があった。
黒澤映画のなかのブラジルを、3本の例から語り…
「あなた、よく見ているわねー」とあきれられる。
野上さん自身、『生きものの記録』のこの映画内映画については記憶していなかった。
だが、おそらくスタッフをブラジルに出して撮影したのだろう、とのこと。
俳優込の日本のシーンは御殿場あたりにセットを組んだのかもしれない、とご教示をいただいた。

さて、ブラジルのKhouri監督。
回顧上映のパンフレットを繰ると、襖と床の間のある部屋での「ガイジン」の濡れ場のシーンの写真がある。

なかなかの日本趣味があったようだ。
さてこの京都のビデオは、黒澤のこの映画へのオマージュ、というのはさすがに読み過ぎかな?


8月21日(月)の記 インディマンデー
ブラジルにて


一日断食。
明日明後日は親族奉公。

今週は、他州への車での遠征を決行するかもしれず。

もう来週はやっていないかもしれない。
邦題『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』。
月曜なら、料金も安くなるはず。
夕方一回のみの上映のあるパウリスタ地区の映画館へ。

これもシネコンというのかと思ったが、シネコンとは5館以上を有するところとか。
ここは3館。

ああ、あのインディ・ジョーンズもこの入りか。
それでも銀幕でこのおそらく最終作に落とし前を着けられそうで、胸キュン。

うーん…
目にもとまらぬ激しいアクションが続くが、なんだかさほどノレない。
またナチかよ…
同時代のナチの同盟・大日本帝国にも、われらがインディにムチをいれてもらいたいところだった。
こっちはヒトラー以上の「現人神」だ。
巨大天皇陵なんか、お宝ザクザクかも。

それでも後半の、いわば考古学者の究極の夢の実現にはたまげたな。

このシリーズの諸作を見たのは、忘れもしない・・・
日本での大学時代、絶望的な就職活動時期。
予想もしていなかった夢の日本映像記録センターから、奇跡的に採用通知をもらった直後。

これまた絶望的な考古学界に暇乞いできることになった。
その時期に、史上最強クラスの考古学者がヒーローのこの映画。
素直に楽しませてもらった。

ムチというのは、おそろしい。

さあて、自分の方の物語をつむぐか。
なんちゃって。

こっちはまさに、インディーズ。
しかも小文字の単数形だ💖


8月22日(火)の記 あおげば上弦の月
ブラジルにて


今日はいろいろな好展開が一気にあり。

・今年後半に訪日を予定していたが、あたりを付けていた航空券が一気に倍近くまで値上がりしてしまった。
うろたえつつ日にちを重ねてしまったが、新たにそこそこ格好なのが出てきた。
さっそく予約を進める。
・数か月にわたって連絡を取れなかったさる日系移住地の方に、サンパウロの友人の機転と尽力のおかげでついに連絡が取れた。
・僕の訪日予定を知った日本のさる地方の知人から、思わぬ、そして願ったりかなったりの上映計画について連絡あり。

今日は午後からこちらの親類の付き添いの泊りだ。
夕食を済ませてから、集合住宅の敷地内を散歩。
その間もブラジル、日本のあちこちとスマホで交信。

このあたりは他に高層ビルがあまりなく、天空がそこそこ開けている。
あ、上弦の月がだいぶ膨れた。

あのほっそりとした月を見上げたのは、何日前に、どこでだったっけな?


8月23日(水)の記 ブラジルのクィア
ブラジルにて


明後日から他州まで車で遠征することになりそうだ。
それに備えての宿題をすすめないと。
まあ、明日一日ある。
別の刺激・気分転換も求めて、サンパウロ市内のイベント情報をあさる。

ブラジル銀行カルチャーセンターで北欧映画祭というのをやっている。
今日は「Queerのディアスポラ」というのがかかる。
この単語がわからない。

ブラジルでcuiáといえば、ヒョウタンのことだが。
ほう、Queer:クィアとは「性的マイノリティや、既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称」とな。

上映されるのは、ブラジルとノルウエーが大使館レベルで相互の国で開催された両国のクィアの人たちの交流のイベントの記録。
記録といっても、スマホ撮りしたレベルのものに、参加者にあとでインタビューしたものを合わせて編集した程度のもの。

ノルウエーでもクイアの人たちがヘイトにより殺害される事件が生じ、こうしたイベントが行なわれるに至ったようだ。
今日、上映された短編からは、そういうイベントが行なわれました、ということ以上は僕には伝わらなかったけど。


8月24日(木)の記 DVDからFUNAIを想う
ブラジルにて


出発予定が一日あとになって、だいぶ楽だ。
さほどドタバタせずに残務宿題に着手できる。

まずは「最新作」被写体になられた方々、関連の方々にお渡しするDVD焼き作業。
…しばらく手掛けていなかったので、失敗が続いたが。
ようやくなんとか軌道に乗った。

受け取られた方々が再生できるかどうかという問題もある。
ペンドライブではこちらのコストがかかり過ぎる。
YouTubeなどにあげたのでは、しかるべきwi-fi環境以外の方々にはご覧になれない。
…こうしたアフターケアを一切されない方々がうらやましい、とも思わないけど、いやはやである。

かつてはVHSテープをひたすらダビングしてお送りしたっけ。
自分のところはベータマックスだ、というところにはベータにダビングして。

世のなかはストリーミング配信が主になり、DVDレンタル業者も廃止に追い込まれているという。
一般的にDVDを見る、という習慣もすでに過去のものになりつつあるのを感じる。

VHSテープの在庫もわが家のみならず、世の少なからぬお宅で処分できていないだろうに。
僕はDVDよりVHSテープのモノとしての質感にずっとなじみがある。

とはいえ、わが家のVHSデッキもおそらく再生不能になっているかも。
…いまもVHSデッキは購入・入手可能だろうか?

日本での状況を調べてみると…
中古のもので、トンデモな値段ではないか。
「最盛期」には1万円を切る「再生機」があったと記憶するが。

ブラジルの状況は…
中古のもので、日本以上の価格だ。

たしか日本ではFUNAIというメーカーが最後までVHSプレイヤーを生産していたと記憶する。
ブラジルでFUNAIといえば、国立インディオ局だけど。

そうか、2016年までだったか。
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1010490.html
最後はアメリカ合衆国向けが主だった由。
あの国の人たちは、意外と時代遅れになったものを大切にするようだ。

いま新たにVHSデッキを再生産したら、そこそこいけるのではないか。
LPレコードが世界的に復権して久しい。

VHSよ、続いてくれ。


8月25日(金)の記 リオのバカ大将
ブラジルにて


午前5時台にマイカーで出家。
東洋人街のホテルで友人をピックアップ。
幹線道路への入り口が閉じられていて、うろたえてうろうろ。

ひたすらリオデジャネイロ州へ、東へ。
自らの運転ではリオ州の「サンタクロースの里」ぐらいまでしか行っていない。
そもそも車でのリオ州乗り込みは何年ぶりだろう?

リオ州をしばらく行ってから、なかなか強烈な山下りと大型トラックのこっちの車線入り込みがあってビビる。

目的の山峡の日系移住地訪問は明日として、今日は最寄りの町の宿へ。
ここがまたよろしい場所だった。

カショエイラス・デ・マカクという面白い名前の場所だ。
実はここはニッケイ抜きに取材で訪ねたことがある。
トンボのヤゴ探しだ。
http://www.100nen.com.br/ja/okajun/000061/20060325000573.cfm?j=1

その時、どんなところに泊まったのかなど、思い出せないのだが。

広いブラジルで、なぜかいろいろな件で何度も訪ねることになる場所がある。
地縁、だろうか。
ここでの日暮れ、白装束の集団と出会い、日本からのアミーゴはビビる。


8月26日(土)の記 グァバ再発見
ブラジルにて


リオの山岳地帯。
熱帯雨林、昨晩から雨。

前世紀末に訪ねた日本人移住地を再訪。
いろいろな僥倖、友人知人の尽力があってこの再訪がかなった。
感謝。

20年ぶりの再会。
訪問したお宅は熱帯アメリカ原産のフルーツ・グァバを栽培している。

庭先に広がるグァバの果樹園を案内していただく。
今回の旅の相棒は、台湾等でグァバを食べ歩いていた由。
すすめられるまま、果実を丸かじりしてみる。

うまい、あまいではないか。
そもそも恥ずかしながら、グァバを皮ごといただけることも知らなかった。
ブラジル生活ウン10年…

想えば。
グァバの存在を知ったのは、日本の高校時代ぐらいだったろうか?
グァバのジュースが発売されて、グァバがどうのこうのといった能書きのCMがあったように記憶する。
40年近く前だ。

検索してみるが、「昔のグァバジュースのCM」では僕の知らないオリエンタルというメーカーのものばかりがヒットする。

いずれにしても当時は一度飲めばもういいや、という味覚だったかと。

ここでいただくものは別格・絶品だ。
ひとつひとつ袋がけをした丁寧な栽培。
リオ州で日本人が改良した品種だという。
そこいらのものとは大きさからして違う。

お土産に箱詰めにしていただくが、そう日持ちはしないという。
サンパウロに戻ったらさっそく・・・

誰と誰にお届けしようか。


8月27日(土)の記 雨あめ降るフル500キロ
ブラジルにて


リオデジャネイロ州山間地の高原都市テレゾポリスで起床。
うわ、寒いぞ。
早朝、町の中央にあたるカトリック教会まで歩いてみる。

いいグラフィティがいくつもあるではないか!
町の好印象度がいっきにあがる。

今日中にサンパウロの町まで戻ることに。
約500キロ。
しかも雨だ。
暗くなるまでに帰りたい…

食事にトイレに給油もある。
原因不明の渋滞も。

いやはや、リオ州もサンパウロ州も雨。
日の入りは18時前。
いっきに暗くなってしまうのは昨日も体験済み。

真っ暗、雨、そこそこ以上の交通量に大型トラック群。
いやはや。

相棒の宿のある東洋人街に向かうにあたって、ナビは思わぬ裏道を示してきた。
のってみるか…

真っ暗な道でがつんと何かにぶつかった。
先で停車してみるが、車に損傷は見られず。
決して治安のいいあたりではないので、そこそこに立ち去る。

運転開始から10時間あまり。
つかれました。

途中のリオでの昼めし屋が面白かった。
今日も店のおばちゃんとバカ話で大笑い。


8月28日(月)の記 ジャポネ―スのバール
ブラジルにて


いやはや、疲れた。
三日間で走行1100キロ以上。
しかも車で初めてのところ、山道、雨、夜道。

運転者の都合としては、もう一日あればもう少し楽だった。
今回は事故らしい事故もなくて済んだが、年齢・体力気力も考えなくては。

今日は日本から来ている友人の誕生日。
それを知っていて、もし先方が夜も一人で過ごすとなると気の毒である。
彼の食指の動きそうなところをいくつか提案してみる。

釣れた。
齢90代の日系人のおじさんの経営するバール。
もっとも昨今はおじさんは店にはめったに出ず、娘たちで切り盛りしているようだ。

ブラジルの新聞の一面にカラー写真で紹介されていた。
開店以来、60有余年。
わが家から歩いて30分あまりのところだが、まだ行ったことがない。

月曜は…
17時30分開店か。
開店早々でテーブル席が埋まることしばしばの由。

アミーゴと最寄りのメトロの駅で待ち合わせ。
山超え谷超え歩いて、18時過ぎ。
まだ店内のテーブル席があった!

さて、システムは…
日本の大皿料理のようにカウンターに並んだその日のツマミを物色して頼む、ようだ。

ジロ(ニガナス)のヴィナグレッテ乗せ、アーティチョークの酢じめにキンキン瓶ビールから始めて。
このボスキ・ダ・サウージ地区はもともと日系の住宅地として知られていた。
このバールの至近にブラジル東本願寺もあり。

とはいえ、いまや客は非日系人ばかり。
絶滅危惧種の日本人一世など、めったに来ないことだろう。
アミーゴは僕以上に日本のニホンジンに見えるので、日系の店員からポルトガル語で「日本からだね?」と聞かれる。

40年前に僕が初めてブラジルに来た頃には、まだまだ日本人経営のバールがあちこちにあったものだが…

いまやリベルダーデのキンタロウと、ここぐらいだろうか。
値段ばかりは張りそうなイザカヤはあちこちにできているけれども。

日系バールという文化をいとおしむ。


8月29日(火)の記 グァバ配達夫
ブラジルにて


さる週末の長距離運転疲れがなかなか抜けない。

して、現地でちょうだいしたグァバをあちこちにお届けせねば。
グァバの賞味期限等、まるで考えたこともなかった。

そうとう持ちそうに思ったが、生産者は一週間以内にとのこと。

午前中は植物学者の故・橋本梧郎先生関係者のお宅に。
先生とグァバ談義でもしたかったもの。

午後はまず、このリオ州のグァバ生産の日系移住地と僕をつなぐきっかけをつくってくれた方に。

夜は、電話連絡の取れなくなっていたこの日系移住地の世話人の方の連絡先を調べてくれた方のお宅に招いていただいて。

グァバを二箱ちょうだいしていたが、のこり数個となった。
こちらの身内にも届けたいし。


8月30日(水)の記 旅の重さ 2023年ブラジルの冬
ブラジルにて


…昨晩の飲み疲れだろうか。
連れとは夜10時ぐらいにはお暇しましょうねと打ち合わせしながら。
メトロの終電が危ない時間になってしまった。

とはいえ、激しい自己嫌悪を伴なう二日酔いには至っていないようだ。

今日は「ブラジル学」を提唱した故・中隅哲郎さんのお連れ合いにグァバをお届けする連絡をしていた。
会えば話は弾む。

近くで昼食をと誘っていただくが、午後は長めの映画を見ようと思っていて、また今度とさせていただく。

北欧から移民船でアメリカ合衆国に渡った女性の実話にもとづく映画。
一回こっきりの上映。
尺は2時間以上。

となると、夕食の準備をしておくのが望ましい。

が、疲労の臨界越えを覚える。
映画でも眠ってしまうかもしれない。

昨晩の飲み疲れというより、週末の強行軍の長距離運転の疲れが抜けてないと見た。
映画は惜しいが、諦めるか…

まずは帰宅して、横になる。

いくらか疲れも抜けて、夕食の支度。
どっしりとした大根を豚リブと煮る。

わが家での料理もなんだか久しぶり。


8月31日(木)の記 解凍の回答
ブラジルにて


今日は午後からこちらの身内のところに料理人として泊まり込む当番。
先方は日本茶を切らしたとのことで、ブラジル産の緑茶と茶菓子を買って。

16時過ぎ着。
先方の夕食時間は、18時。

ご飯は電気釜で炊くとして。
メインとするオカズは持参しなかった。
冷蔵庫と冷凍庫を物色。

冷凍庫のマグロを解凍するか。
このお宅には電子レンジがあるが、刺身の解凍には避けた方がよさそうかも。
そもそも電子レンジは使わないので、よくわからないけれど。

大根をツマに切って、刺身でと思ったが…
1時間半ぐらい経っても、シャケのルイベ状態。
カルパッチョにしてみようか。

玉ネギを刻んで水にさらして。
わが家からミズナを持参するのを忘れた。
半凍結状態のマグロを薄くおろして。

ポン酢醬油にオリーブオイル、さらにライムも少し絞る。
色味にローズペッパー、パセリ。

ほかにヒジキの煮つけ、味噌汁、持参した自家製漬け物。

先方は例によって「よくこんなにいろいろなものを」とは言うが、おいしいとは言わない。
これがサーモンのナマだと「おいしいね」が出るのだが。
マグロでも悪くはないと思うけれども。

今度はこの図式をふたたびサーモン使用で検証してみよう。










 


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