移民百年祭
Site map
移民史
翻訳
---- 移民百年祭 目次 ----
- ホームページ
- 青木カナ・ド・ブラジル
- ありあんさ通信
- 憩の園
- イタケーラ植民地
- 宇江木リカルド作品集
- 岡村淳のオフレコ日記
- Quem e Quem
- 紺谷君の伯剌西爾ぶらぶら
- 在ブラジル原爆被爆者協会
- サンパウロ人文科学研究所
- 水耕栽培プロジェクト
- たこ焼きマンが行く
- 炭素循環農法【無施肥・
無農薬による自然農法】
- トッパン・プレス
- 南米漂流
- 農拓協
- PAISAGEM
- 伯国東京農大会
- バストス日系文化体育協会
- 福博村
- ブラジル沖縄県人会
- ブラジルの植物
- ブラジルの落書き
- ブラジル日和
- 北海道日伯協会
- マツモトコージ苑
- マツモトコージ写真館
- 山中三郎記念バストス地域
史料館
- ユバのホームページ
- 老人クラブ連合会
ブラジル沖縄県人会
--- ブラジル沖縄県人会 目次 ---
- トップページ
- ブラジル沖縄県人会小史
- 100周年日程表
- 100周年記念事業
- 沖縄県人会だより
- 会務報告
- ニュース・出来事
- スナップFOTO
- 歴史写真
- 母県新聞記事
- 筝曲興陽会ブラジル支部
- オピニオン(OPINION)
- 支部所在地
- Noticias(Portugues)
- 刊行本
ブラジル沖縄県人会小史
(最終更新日 : 2007/06/09)
--- ブラジル沖縄県人会小史 目次 ---
- ブラジル沖縄県人会小史
ブラジル沖縄県人会小史
ブラジル沖縄県人会小史 (2007/06/09)
(1)
ブラジルへの日本移民は、1908年(明治41年)6月18日、第1回笠戸丸移民で始まった。781名を乗せた笠戸丸には、その半数に近い325名の沖縄県出身者が乗船していた。
移民屋の「金のなる木」の宣伝にのせられてコーヒー耕地に就労した彼らは、過酷な奴隷的労働と赤貧の生活に耐えかねて、夜逃げする者が続出した。この事態に直面して総領事館は、各耕地を調査し、これを外務省に報告した。その報告書によれば、夜逃げ、騒擾(そうじょう)、契約違反の不良移民はそのほとんどが沖縄移民である、と上申されている。
しかし、それは事実に反する歪められたものであった。そのために沖縄移民は、不当にも移民禁止や渡航制限の差別を受けたのである。日本移民全体にかかわる問題を押し付けられ、差別を強いられた県人移民たちは憤慨し、有志が集まって総領事館へ再三善処すべし、と訴えた。しかし、日本政府・外務省はそれを受け入れなかった。それどころか、1919年4月に次の理由をもって、呼寄せ以外の県人移民を全面禁止したのである。
その理由――@耕地逃亡するもの多きことA定住する風を欠き、移動甚だしきことB団結心強く、他県人との融和に欠け、紛争を醸しやすきことC同盟罷業起し易きことD偽家族多きことE生活程度低く、裸体その他の悪習慣を改めざるもの多きこと。
ところが、1926年(大正15年)6月、外務省は沖縄移民の解禁策として県人が結束し、新来移民の定着、指導・育成に責任をもって対処する、という条件を提示してきた。時あたかも1926年(昭和元年)8月26日、ブラジル全国から県人有志が相集い、県人内部の反省すべき諸点を明らかにしつつ、大同団結を誓って球陽協会を創立したのである。
県人移民禁止問題解決のために創立された球陽協会には、全伯46支部2300余名の会員が参加し、ここに名実ともに全伯沖縄県人会組織が誕生した。初代会長は、翁長助成であった。彼らの奮闘によって、1936年に県人移民禁止問題はようやくにして解決のメドがついた。
だが、1941年12月、太平洋戦争が勃発し、ブラジルと日本は敵対国となり、日系団体はすべて解散に追い込まれた。球陽協会もまた、解散を余儀なくされた。
(2)
1945年8月15日、日本は無条件降伏し、太平洋戦争は終わった。しかし、「日本敗戦」のニュースは日系コロニア社会に天変動地の衝撃を与え、「皇軍不敗」を信念とする戦勝派と、敗戦の現実を直視せよと主張する敗戦認識派とに分かれて、同胞相打つ「勝ち負け抗争」の流血の惨事が繰り返された。この悲劇的対立の余燼(よじん)は、50年代に入っても続いた。
県系人社会もこの抗争に飲み込まれ、かつての県人結束の絆は大きく乱れた。
しかし、やがて灰塵と化した郷土沖縄の戦災救援運動が起こり、翁長助成、上原直勝、賀数輝俊、城間善吉らが中心となって沖縄救援協会を組織。そして沖縄文化救済協会へと発展した。
その頃沖縄は、敗戦の混乱の中にあって、本土疎開者、海外引揚げ者さらには、米軍による軍事基地建設のための土地の強制接収などによる人口過密・食糧不足問題解決のために移民問題が叫ばれていた。
それに呼応し、その受け入れのため1953年2月に県人移民たちは「勝ち負け抗争」の対立を乗り越えて、大同団結して全伯海外協会を創立したのである(創立会長=花城清安)。これが戦後初めての正式な県人会の始動である。郷土の戦災救済運動を通じて、県人団結の絆はより一層強められたのである。
(3)
全伯海外協会の結成は、戦後沖縄移民の再開にとって大きなインパクトとなった。1956年に琉球移民金庫の渡航費貸付が始まった。また、日本政府の移住者渡航費貸付が沖縄移民にも適用され、沖縄からのブラジル移民は堰を切ったように始まり、1958年〜60年にはその頂点に達した。
その間の沖縄移民は呼寄せ移民を含めると、実に1万人を数えた。在伯沖縄協会(1955年第3回定期総会において名称変更)は、サンパウロ市アベニーダ・セナドール・ケイロス605番地23階に事務所を置き、そこを拠点にその受け入れのために全力をあげた。そして多くの戦後移民を迎え入れて、移民50周年、60周年記念式典を盛大に開催した。
(4)
1977年に名称を「在伯沖縄県人会」に改称して、時の県人会長・屋比久孟清を中心に先輩たちは、移民70周年記念事業の一環として、わがウチナーンチュの活動拠点としての県人会館の建設方針を打ち出し、これを実現した。
これが今日のブラジル沖縄県人会館である。それは、移民70周年時点の在伯沖縄県人会56支部3650名会員の団結の賜あであり、沖縄県系人のブラジルにおける発展を如実に示すものであった。
在伯沖縄県人会は、1988年に移民80周年記念祭を挙行し(会長=山城勇)、その記念事業として会館屋上に体育館を建設し、活動拠点をひとまわり大きくした。そして同時に、74年以来定着化してきた県人会主催の「年中行事」を7つの部門に整理し、明確化した(現在は12部門)。とりわけ、琉球音楽・舞踊など沖縄芸能の定着と、県人会組織の強化・発展のための活動基盤の確立に努めた。
こうして、1993年の移民85周年祭(会長=宮城滋)前夜祭において、リベルダーデ広場・ガルボン・ブエノ街に沖縄の歌と踊りと琉球衣装をはじめて繰り出し、ブラジルにおける琉球芸能の着実な定着と県人会組織の底力を示して、大観衆の拍手喝采を受けた。
90年代前半は、県人会組織の地力と質を高めるための地方支部との交流事業や文化公演、そして組織活性化のためのシンポジュームなどが活発に行われた。
1998年の移民90周年祭(会長=仲川実留)は、4000会員の結束をいかんなく発揮し、盛大に開催された。このことを象徴するかのように、記念事業の一環として発刊された『ブラジル沖縄県人移民史』(編集長=山城勇)は、ブラジル国内においては2000年度コロニア文芸賞、そして母県においては沖縄タイムス出版文化特別賞の栄誉に輝いた。
2007年現在、わがブラジル沖縄県人会は創立81周年を迎え、先人たちへの敬意と感謝を込めつつ、来年の移民100周年記念事業に向かってその準備のために邁進しているのである。
上へ
ブラジル沖縄県人会 :
Rua Dr. Tomás de Lima, 72, Liberdade, São Paulo, Cep:01513-010, São Paulo, Brasil
Tel: 11-3106-8823, Fax: 11-3241-0874, E-mail:
Click here
© Copyright 2008 ブラジル沖縄県人会. All rights reserved.