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ブラジル沖縄県人会
     人物伝  (最終更新日 : 2010/03/02)
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花城淑子(はなしろ・よしこ)さん (2010/03/02)
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 2008年4月15日に、ちょうど100歳の誕生日を迎えた花城淑子(はなしろ・よしこ)さん(沖縄県出身)。これまで大病を患ったことがないばかりか、今でも目や耳は不自由がない。大好きな琉球民謡を口ずさんだり、趣味の俳句などを行う日々が続いている。
 夫は、ジアデーマ市にあるブラジル沖縄文化センターの初代理事長で、第5代沖縄県人会長を務めた故・花城清安(せいあん)さん。
 淑子さんは夫と家族を支え、自らも沖縄県人会の協和婦人会長などの役職を歴任してきた。
 2人は親戚同士で、親の薦めによって淑子さんは清安さんの許婚(いいなずけ)となっていた。
 清安さんは、伯父の呼び寄せで1926年に渡伯。外国に出ることに不安感を抱いていた淑子さんだったが、女学校を卒業した28年、清安さんのもとに嫁ぐため、「まにら丸」で海を渡った。
 船内では酔いがひどく、淑子さんは経由地で上陸するたびに「命をつなぐ思いだった」という。
 サントスに到着後、ジュキア線のイタリリに入り、その日に正式に結婚式を挙げた。
 清安さんは同地でバナナ農園を経営する傍ら、日本語学校の教師として日系の子弟だけでなく、ブラジル人の子供たちの教育にも力を注いだ。
 「本当によく働きましたよ」という淑子さんは、家事、育児と農園での生産活動の合間に、サンパウロの赤間学園で数か月間裁縫の技術を学び、イタリリの町で寄宿舎とペンソンを開くなどして女性たちに裁縫をも教えた。
 1940年、花城夫妻は5人の子供を連れて沖縄に戻った。子供たちを日本で勉強させることが大きな目的だった。
 しかし、翌年には戦争が勃発。沖縄のみならず日本国内全体が食糧不足で、淑子さんは育ち盛りの子供たちを連れてきたことを悔やんだ。
 日増しに生活が苦しくなる中、41年に再びブラジルに戻ることを決意したが、5人全員の子供を連れて行く余裕がなく、花城夫妻は幼い3男だけを連れていくことしかできなかった。
 結果的に日本に残してきた子供4人は、戦後の49年に無事ブラジルに戻ることができた。だが、戦争の混乱での8年間、淑子さんは、「沖縄には子供らを殺すために連れて行ったようなもの」と日々、後悔の念に苛(さいな)まれたという。
 41年にイタリリへと戻ったが、伯国内では日本人が敵性国民として扱われる中、清安さんが日本語学校の教師をしていたことや地元でも以前から日本人の中心的存在であったことなどから、ブラジル警察当局から目を付けられだした。
 戦前はミシン売りとして花城夫妻が世話し、戦後は警察官となっていたブラジル人がある日、「勝ち組」の疑いがあるとして清安さんを留置場に連行しようとしたことがあった。
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結婚当初の花城夫妻
 その際、淑子さんは「あなたに勇気があるのなら、私の首を切ってから連れて行きなさい」とブラジル人に対して一喝したところ、その警察官は何もせずに渋々帰っていったという。
 4人の子供たちが無事ブラジルに戻ってきた翌年の50年、花城家族は子供たちの更なる勉学のためにサンパウロへと出た。
 淑子さんはその後、県人会の婦人部活動に積極的に参加し、趣味の俳句や琉球民謡教室などは今でも続けている。
 生前の清安さんについて淑子さんは、「子供たちへの躾(しつけ)は厳しい人でしたが、いつもお洒落で、毎日ヒゲを剃ってネクタイをしてから朝食を食べ、ピクニックに行く時もネクタイを締めている人でした」と振り返る。
 家族の間では夫から「おい、おい」と呼ばれていたが、一度だけ「淑子」と名前で呼ばれたことがあった。今でも日記を付けているという淑子さんは、「その時のことが嬉しくて、日記に付けた覚えがありますよ」と話してくれた。
 「嫁さんたちが厳しいので、毎日のように体操をしています」と苦笑する淑子さん。「皆には、本当にお世話になっています」と家族に囲まれ、幸せそうな笑顔を浮べていた。(2008年3月 サンパウロ新聞掲載)
 
   


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