医師: 津野 豪臣さん (2003/04/10)
| 氏名 | 津野 豪臣(つの たけとみ) | 住所 | サンパウロ州 サンパウロ市 | 職業 | 医師 | 生年月日 | 1935年3月4日 | 出身地 | サンパウロ州 サンパウロ市 | 渡伯年月日 | |
2000年8月
※2世ということですが日本語が上手ですね。まったく日本の日本人ですね。
ええ、まあ、日本語はいつも使う機会がありましたからね。
※ホームページを見せていただいたのですが、ユーモアがあって非常に面白かったです。読み書きまったく不自由ないのですね。
不自由がないどころか、書くのには四苦八苦ですよ。こうでもない、ああでもないと、無い知恵を絞ってね。あまり文才がないっていうか。 小学校時代にちょうど第二次世界大戦にぶつかって、すぐ日本語教育は禁止されたんです。それで親父が日本語教育の心配をしてサンパウロ市内の道場に預けられたんです。道場に一端入るとポルトガル語を使うことは許されませんでした。外では刑事が目を光らせていて、日本語をしゃべっただけで留置場に入れられる時代でした。 今考えると、この頃にバイリンガルの訓練を受けたわけです。ずいぶんと言葉の使い分けに苦労しました。
※こちらで生まれたほとんどの方は書く段階までなかなかいかないようですから凄いですね。ご両親の出身はどちらですか?
四国の高知です。うちの親父は文章などを書いたりするのが好きでした。日本との通信が今のように発達していませんでしたから高知新聞を親父はとってそれから記事を抜粋して高知便りというようなものを自費で出してみんなに配っていました。
※高知の方に行かれたことはあるのですすか?
1961年に国費留学生として訪日し、そのときに行きました。あの頃は日本へ行くにはまだ船便でしたから、船の上から見て、ああ日本人ばかりだなと感激したことを覚えています。
※何を勉強されたのですか
2年間東京大学で医学を勉強しました。
※エリートですね。 日本で試験をして入る人は確かにエリートですけど、こちらはたまたま文部省が東大にいれてくれたものですから、天下の秀才の中に鈍才が入って苦労しました。あの頃は日本一の名医と言われていた沖中先生のもとでお世話になりました。ギャップが大きかったですから先生方のやられるていることについていくのに努力しましたが、先生方に親切にしてもらい、とくに苦労したという印象はないですね。今から考えるといろんな意味で自分の一生において貴重な体験でした。
※どうしてまた医学の道に進まれたのですか?
昭和9年頃は移民の初期の頃ですから、移民した人々は、金もなし地位もなしというどん底の生活をしていたわけです。自分の子供達にはこんな苦労はさせたくないということで、なんとかして勉強させてブラジル社会に認められるような職種につかせたいと思っていました。だからあの当時勉強させてもらった2世の行く道はたいてい決まっていました。法科に行って弁護士になるか、工科に行ってエンジニアになるか、医科に行って医者になるか、その3つに集中していました。そういう1世たちの切実な願いがあったわけですね。
※若い頃は血気盛んな頃ですから、親に反対するということはなかったのですか
いや、当時の社会環境も家庭環境もそういうことはできる環境ではなかったですね。例えば私が留学から帰ってきたのは63年ですが、指導教官からもう1年延ばして東京オリンピックを見てから帰ればと進められました。今から考えると私がもう1年延期したいと言っても、うちの親父は許してくれなかっただろうし、私も願ってもみませんでした。そういうふうにあまりはずれたことがしにく時代でした。
※お父さんは厳しい方だったんですか? 厳しかったですね~。 高知県人ですからお酒はずいぶんのんでいました。私の分まで親父が全部飲んでしまったとみえて、私は酒は弱いですね。あの頃は東麒麟が全盛時代で、うちの裏には瓶がやまほど積んでありました。この瓶は藁で包んでありましたから、親父はこの藁を取っておいて、それで鰹を焼いてタタキをよく作っていました。
※今もお仕事は続けてらしゃるのですか?
ええ。5年くらいまでは、アクリマソンで4,5人で医院をやっていました。アクリマソン総合医療センターという名でコロニアではよく知られていました。ブラジルでは全部分業になっていますが、ここではすべて処理できましたから、駐在員の方々や日系人の方々には便利だったと思います。
※今は?
ありません。ずいぶん一生懸命やりましたが、今から考えると武士の商法をやって、あまり金儲けにはなりませんでしたね。 24時間診療するというのがうたい文句でしたから、当直医、門番を置かなければならないなど、また休みなくやっていましたから、そういう意味では大変でした。20年間ちゃんとした休暇をとったことがなかったですね。今は午前中だけ病院で勤務しています。やっと人並みの生活をしています。
※それは大変でしたね。ご家族の方は文句はいいませんでしたか?
家内は日本でお世話になった教授の秘書をしていましたから医者の生活というのはよく知っていましたからね。
※じゃあ、日本からさらってきたわけですか。
ええ、まあ、口の悪い先輩からもそう言われました。
※やっぱりその辺はブラジル人的なんですか?
ははは、いや、私は日本人的ですよ。当時、彼女はかわいくて、教室のマドンナ的な存在でした。
※よく奥さんのご両親は許してくれましたね。
家内の親父達も台湾に出ていたりして、一般の人ほど抵抗がなかったようです。日本で暮らしてもブラジルでも暮らしても同じだから、ブラジルで幸せにやりなさいと言って送り出してくれました。
※今の日本を見てどのように感じますか?
どうもたるんでるな~、って言う感じがしますね。政界にしても昔のような大人物がいないような気がしますし、学校の問題、例えば、いじめ、おどしなど妙な問題が一杯起こっていますし、それに対する関係者の対応、親の対応をみていてもどうもおかしいなというところがたくさんあります。日本という国は経済的に頂点に達してだんだんこれから崩壊の道をたどっているような気がします。もちろん、それは日本だけではないですが。
※日本に対する期待は?
小さくても、世界の技術大国としてしっかりやってもらいたいですね。日本人はどうも世界の大国に卑屈なような感じがするんです。あんだけ支援をしたりしているのになおかつ悪くたたかれていますから。
※今後のコロニアについてどう思われますか
後続移民はこないし、だんだん吸収されて消えていくでしょうね。日本語もしゃべれない人ばかりになっているし。ブラジルの日系人は山田長政になってはいけないとよくいわれますが、ブラジルに適したものは形が変わっても残るだろうと、寿司などの食文化は残っていきますよね。 日本移民が新しいブラジルの民族形成に参加したということを、はっきり歴史の中に残すことができるのは人文研だと思います。大事なものだと思います。 アリアンサで長い間役員をやっていて、以前はよく顔を出していたんですが、今はあまり顔を出さないようにしているんです。というのは若い、古い考えを持っていない人がどんどんやっていくべきだと思っていますから。
※子供さんの教育はどうですか
男の子2人と女の子の3人子供がいるんですが、長男は小学校に入るまで日本語ばかりで、ぜんぜんポルトガル語がわからなかったんです。そこで子供達と取り決めをして、私と話すときはポルトガル語で話すことにしたんです。ところが、学校に行って、友達も先生もポルトガル語だとあっという間にポルトガル語が強くなりました。 長男は日本に留学して医学を勉強しているうちに、日本が気に入ってこちらには帰ってこないようです。
※趣味はなんですか
奇術とユーモアです。
※手品ですか。
手品というと子供っぽいですが・・・。これは昔から好きでね。日本では奇術協会の会員にもなっていました。こちらでも協会に入って役員になったりして講習会にも参加したり、舞台にもたちました。昔はシクルクハットなんかを着てやっていましたが、最近は面倒くさくなって、もっぱら小人数にみせるものをやっています。
※尊敬する人は
身近な人では、コロニアで、タキヤギスケさんという牧師がいたんです。この人は本当に、宗教、神の道を実行した人だと思います。お金など、もちろんなかったですけどいつもニコニコしていていろんなことを教えてもらいました。
※好きな食べ物は? 日本では蒲焼です。ブラジルではフェジョアーダ、テールシチュー、シュラスコですかね。
※一番大切なものは?
家庭と健康ですね。家内と結婚して私の人生はうまくいったと思っています。
※嫌いなもの
影で策略するようなことはきらいですね。土佐のいごっそ的な性格が影響しているせいですかね。
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