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     工業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
木工工場経営: 青山 翠さん

木工工場経営: 青山 翠さん (2003/04/11)
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氏名青山 翠(みどり)
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業木工工場経営
生年月日1934年
出身地静岡県
渡伯年月日1957年 ルイス号


2002年10月

※ どうしてブラジルに来られたんですか?

 はっきり言って、昭和30年の初め日本は、輸出産業が特に悪かったの。そういう関係で政府が奨励してブラジルに中小企業の進出が行われていたんです。私は東海ミシンに引っ張られて、ブラジルに2年の契約で行かないかっていうことで来たわけです。私は独り者だったけどね、技術者が全員でもって17人来ました。
 ところがブラジルは工業ではちょっと早かったわけね。1年ちょっとで会社が破産したんです。日本はまだ景気が悪かったから、ブラジルの方が金の価値もあるし、ここの方がずっと暮らしやすかったわけ。それでブラジルに残ったんです。

※ 17人中何人くらい残られたのですか?

大体半分残った。

※ ご両親とか帰って来いと言わなかったのですか?

 日本からは帰って来いといわれたけどね。やっぱね会社が潰れましたからって簡単に帰る気にならんもんね。そこが日本人なんだ。昔のね。プライドがあったね。
ブラジルに残って、日本で覚えたいろんな技術を利用していろんなことをやりました。小さいけど、木製品雑貨とかいろんな事業をやりました。でも、あんあまり上手くいかなかった。

※ 独立という形でやっていたんですか?

 ええ。最終的には、大量生産の工場よりも、こういう小さく、注文家具なんかを作る方が財政的に堅いわけ。それでこの道に入ったんです。この工場を始めたのが1973年。ここの前のドーノ(オーナー)が年寄りだったので、それを買い取ってつなげてやってきたんです。

※ もともと木工関係の技術者だったんですか?

そうです。ミシンテーブルの会社でもってこっちにきたわけですが、日本でも木製品雑貨の工場で働いていました。そういう関係で木材には縁があったんです。始めてみると、お客さんの注文を受けて自分でデザインしてひとつひとつ違うものを作るんですよね。面白いんですよ。それで、もう30年続けてきたわけ。

※ 工場の中を拝見していると、障子とか日本関係のものが多いですね。

 現在作っているのは日本間です。日本間もいろんなモデルを自分で勉強してね、合ったものを考案して作るわけ。はっきり言って日本ではすべて分業なんです。都会でしたら、ひとつの日本間を独りで全部作ることはないんです。ここではそれが無いわけ、独りで全部作る。デザインから全部。だから総合面では日本より上です。

※ 勉強はどういう風にされたんですか?

自分が好きでやっているんで、日本の本などからモデルを取るわけ。仕事のやり方なんかも本にもいろいろ出ているし、そういうことから自然に覚えてきたんです。

※ 何回か日本には帰られたんですか?

 帰ってません。帰りたくない。

※ どうしてですか?

こういう事、言うてはいけないんだけど、私がブラジルに来たのは一つは騙されてきたんですよ。国と会社と両方に。いざ会社が潰れたら投げ出される、そういう状態だったんです。だから、やはり、なんていうかこっちも意地がある。はっきりいって日本の方へ頭向けて寝たくない、足向けて寝てるっていうそういう気持ちです。それは普通の移民の人たちも同じ。甘い言葉に釣られてブラジルに随分たくさんの人が来ています。随分苦労しています。それと同じような状態。それよりも私らの方がちょっとひどかったと思う。というのは会社勤め、月給取り、で2年契約、そうすると、心構えが違うわけ。移民で来るとなると、場合によったら、一生ブラジルで暮らすという覚悟の上でくるでしょ、ところが私らは月給取りで2年したら帰りたきゃ、日本に帰れる。そうすると心構えもない。持って来た物も、身の回りの物しか持ってきていない。それでいざ困ったときは売る物もないでしょ。当時、普通の移民の人たちより私たちは苦労しました。一緒に来た17人のうち半分くらいは日本に家族をおいてきていました。その人たちは特にひどかったです。というのは、日本の家族に送金して、そのうえ、金を貯めて日本に帰ったわけ。なんの援助もなしに。タバコを好きな人はタバコもやめ、頭がもそもそになっても床屋にもいけない、そういう風にして金貯めて日本に帰ったんです。私は、独りものでまだよかったわけ。あの時代はまだブラジルも景気がよかったんです。日本の生活をみたら、今の日本とブラジルを反対にしたような状態だった。日本では、あの頃、月給が遅れたりひどい生活でした。というのは国全体が不景気だった。ところがブラジルでは物が安い、金は取れる、そういう状態では恵まれていたんですよ。

※ この工場を開いてから順調だったんですか?

ええ、順調にいきました。ただ、この工場を基盤にして外の方に手を伸ばして、30数人まで人を使ったことがあるんですよ。木工関係から、家の内装一般のようなことをやったんです。ところが、ちょうど軌道に乗りかけたころ、1978年、石油ショックにひっかかって、裸になってしまって、この工場だけ残ったんです。手を引きました。ブラジルの政情というのは落ち着かないでしょ。いつひっくり返るかわからない。大きいことやれば、危ない。だから、もう無理に金が儲けなくてもいいから確実な仕事でいうことでこの工場だけをやってきました。

※ お客さんというのはほとんど日系ですか?

日系人というのは、ブラジル全体でパーセントでいったら、ほとんどいないです。だから日系人だけを相手にしていたら、同業者との競争になるわけ、それで私は外人の方に力をいれています。和風だけでなく一切の家具、内装ですね。

※ こういうお仕事をブラジルでやっていて大変なところはどういう点ですか。

今のように大統領が変る、一変にドルが上がる、そうすると、材料から何から、一変に跳ね上がる。日本のように物価が落ち着いていないから、それが怖いですね。
ブラジルは労働法というものが、日本と違って労働者に有利になっているんです。ボーナスも有給休暇も義務。残業手当も大きい、日本とブラジルの労働事情は全然違います。

※ 今はブラジル自体大変な時代ですか、お仕事はどうですか?

30年間仕事が途切れたことはない。私の自慢なんです。まじめに仕事することね。高くふっかけて1回に儲けようとしなければいつでも仕事はあります。
材料もひとつひとつ木材問屋行って木を探してきています。やっぱり物を作るのが好きなんです。お金だけではない、好きでやるんです

※ 職人さんには一から教えていくんですか?

教えるのは得ではないんです。日本のように終身雇用制は少ないですから。もう、わずかの待遇の差でもって、どんどんよその場所に移る、そういう習慣なんです。うちでは教えていますが、それでもいつ出て行くか分からない、よそでもってちょっといいお金を言われれば、すぐでて行く。だから、ブラジルでは、よそから仕事のできる人間を引っこ抜くのがいいんです。自分が教えても、やっと仕事ができるようになったらよそに引っこ抜かれるんです。でも私はあまりしないです。というのは自分で教えたら、自分の思うように教えて使えるわけ。よそで覚えてきたものは使い難いです。
私も歳だからそろそろ辞めたいんだけど、後継ぎがおらんから。息子は、もう、こいう仕事はやりたくないんです。

※ 奥さんは?

日系三世です。まあ、仕方がないですね。結婚したらあわせなければならないわけです。というのは、これは誰でも同じだと思うんですが、日本から来た一世と、ここの二、三世と一緒になりますよね、でも相手は日本のことがわからん、こっちはブラジルのことが理解しきれん。それは何年たってもお互いのハンディキャップになるわけ。ね。難しいですよ。私の場合は、食べ物なんかは日本食だし、家の中でも日本語が使えます。でも子供らは一歩外にでたら、ブラジル語です。

※ 子供さんは何人いるんですか?

3人。もうすぐ下の子が大学を卒業します。ブラジルでも3人大学に出すというのは大変なことです。

※ 例えば、子供さんがブラジル人と結婚するのはどう思いますか?

やっぱり嬉しくないなー。私は一切、ブラジル人と結婚するな、なんてことは言わないけど、選んだら仕方がないです。それは本人に任せるしか仕方がないです。できたら日本人と結婚して欲しい。今、家の中では日本語だけで過ごしていますが、外人が入ったらそれはできないでしょ。今度はポルトガル語を使わなければならない。そうすると一切の生活が変わってくる。やっぱり嬉しくないね。

※ 躾は厳しくされたんですか?

厳しいね。というのは、日本人の顔しているから日本語が必要だというのじゃないですよ。ね、どこの世界でも同じだと思います。ひとつの外国語を知っているということが、その人間にどれだけのプラスになることか。今うちの息子も、ちっぽけな貿易会社にいるんだけど、日本語話すから随分役にたっているらしいんですよ。お年よりの日本人がいる所なんかいくと、日本語が話せるというだけでも、大事にしてもらえるわけ。そういう利点があります。

※ ブラジルに生活していて、一番困ったことはどういうことですか?

会社が潰れたことを別にすれば、家庭的には、日本人とブラジル人との感覚の差ですかね。例え、顔は日本人でもやはり完全な日本人にはなりきれないし、習慣的に合わないわけ。生活するうえで苦労しましたね。10年、20年たって初めてお互いが多少は理解するような感じですね。
現在は、特に、日本人が外人と結婚するのが増えちゃったけど、これは、日本人が外人に溶け込んだというわけではないんです。出稼ぎというものが出たでしょう。だから、ひとつには外人との利害関係。日本人と結婚すれば、日本にいけるでしょ、それが結婚する主な理由になっているんですよ。私はそう思う。
女がブラジル人の場合は苦労します。男がブラジル人の場合は大事にしてもらえます。そういう所があるんですね。

※ ブラジルに来て良かったことは?

ここで生活してよかったことは自由なことです。日本のように周りに束縛されることが少ないです。日本では周りに義理とか付き合いで縛られるわけ、ここでもありますが、その点は極わずか。そういう点はとてもいいと思うね。隣近所のことはあまりかまわない。日本ではうるさいもんね。それがないですよ。その点はいいと思うよね。

※ 日本の若い人に関して何かありますか?

ちょっと変りすぎた日本は。日本というものがなんか無くなっていくような気がする。本当の日本というものが消えていくような気持ちですね。というのは、例えば、この前のサッカーのワールドカップ、あんな髪の毛染めたのが、当たり前のような日本になちゃった。なんか分からないね。はっきり言えば我々の頭が古いのかも分からないけど、本当の日本の伝統というものが薄れてきている。僕はそう思う。例えば、私がここでもって日本間を作る、それがかえって日本的な日本間だったりする。今の日本での日本間は和洋折衷で、本当の伝統的な日本間というのは少なくなってきている。

※ ここにあるような、カンナなんかの道具は日本製ですか?

 ブラジルに来ている日本の道具はあまりいいものが来ていないんです。だから自分で作るわけ。ところがその方が日本のものより、ブラジルの材質にあったものが作れて使い易いです。

※ 今後日本に帰るご予定は?

 ワールドカップのときに日本に1、2ヵ月行こうかなって計画していたんです。ところが仕事の関係でいけなくなちゃったんです。

※ 今まで1回も帰ってないわけですよね。望郷の念というのはあまり感じませんか?
 
ありますね。でも今の日本行ったら自分が失望するんじゃないかな、って思う。思うというのは私らの頭にある日本というのは、日本を出たときのあの日本があるわけなんです。今の日本というのはあまりにも変りすぎているんです。そりゃ便利になっています。反面、浦島太郎と同じなんです。例えば富士山登るにも相当上まで車でいけるような時代でしょ。なんか味気ない感じがします。僕らの時代は杖をついて、とことこ登った時代。今はどこもかも舗装道路、なんか味気ないでしょ。

※ 今後の夢は?

 もう私も68、これといった夢もないよ。あとは自分の老後の生活を考えるだけ。まあ、後1年半くらいでこの工場もやめるつもりです。その後は、少しは仕事は続けていきたいけど、でも人を使う仕事はもうやりたくないね。後はきままにコツコツやりたいです。

※ ブラジルに来て良かったですか?

結果的には良かったと思う。というのは、いくら日本がいいと言っても、日本はせせこましいところで、私からいえば、何も無い国なんです。それを思ったら、ブラジルには資源があって、未来がある。だからここへ来てよかったと思う。


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