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     工業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
工業移住者協会会長: 小山 昭朗さん

工業移住者協会会長: 小山 昭朗さん (2003/04/11)
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氏名小山 昭朗
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業工業移住者協会会長
生年月日1941年2月26日
出身地東京都
渡伯年月日1967年(さくら丸)


2000年10月

※どうしてブラジルに来られたんですか?

日本で一緒に働いていた先輩たちがブラジルに来てインターフォンの会社をおこしたんです。あの当時は非常に珍しく、ACコンセントに入れるとビルにつながるというものでした。それがあたって、私は機械屋だから機械屋がくれば便利だということで、毎週毎週手紙をもらって、それじゃーということになったんです。
日本では会社を経営していて、東京発動機のオートバイの部品作りをやっていたんですが、ちょうどあの当時あまり景気がよくなくて、東京発電機がつぶれ、それと同時にうちの会社もつぶれかかったんです。それで、会社をやめて、ブラジルに来たんです。

※ブラジルに来られたのは何歳くらいだったんですか?

 25歳のときに結婚して26歳のときに来ています。

※そのときはすでに東京に会社を持っていたんですか?

 持っていたというよりは叔父と一緒にやっていました。その叔父さんがお金も持っていたし、技術も持っていたからね。それを手伝う形だったけれど、そのおじさんというのは経営コンサルタントで、そっちの方が忙しくて、僕一人でやっていた感じでした。

※ブラジルに来られてどうでしたか

 最初はその工場を一緒にやるつもりで来たんですが、既につぶれていてね。いろいろ理由があったんですが、会社はうまくいっていたんだけど経理面でね、結局は会計士にだまされたようです。先輩も来たばっかりで言葉もよくできないし、ブラジルの事情もよく知らなかったんでしょう。そういうことが原因で会社がつぶれてしまったわけです。
 しょうがないから、たまたま工業移住者協会の会長をやっていた岡本さんの家で知り合った人の紹介で、当時日系の会社で大きかったモトラジオに入ってそこで7年働きました。工場長なんかをやったりしてね。それからドイツ系、アメリカ系の会社、外国系の会社の工場長としてあちこち働きました。
その後、アメリカ系の会社の子会社で働いているときに私の同僚のブラジル人と一緒にその会社を買い取って13年間やりました。
 会社は買い取ったときには約220人くらいだったんですが、8年目くらいに業界で一位になり、従業員が500人くらいになって中堅の会社にまでなりました。ここまで会社を伸ばせたことは、私のひとつの誇りです。
 とにかく30数年間、自動車の部品関係を日本にいるときからやってきたわけで、その方面にかけては一応いろんなことを知っています。

※いつ頃から工業移住者協会の会長をやり始めたんですか?

 25年前に工業移住者協会ができて、その当時発足の役員がいろんな年代から出てたわけです。副会長の小檜山さんが1年くらいでやめてしまって、私は岡本さんと懇意だったこともあり手伝ってくれということで、副会長になりました。岡本さんのもとで約10年副会長やって12年前に岡本さんが会長から退かれてそれからずっと会長をやっています。

※コロニアの中でも工業移住者協会というと異彩を放った協会と思うのですが。

 技術屋の集まりだからね、ちょっとものの考え方も違うし、割合に個性の強い人が多いからね。外から見ると少し変わった団体に見えるかもしれないけれど。まあ技術屋というのは融通がきかないしね。

※それだけにまとめていくのが難しかったと思うのですが。

 それは確かにありましたね。でもよその団体をみていると結構いろいろとね。
 我々の団体一番の特徴は、県人会と違って目立ちたいという人がそんなにいないことですね。みんな目立ちたくないタイプだから。会長とか理事のなり手がなかなかいないんですよ。そういうことから結局前会長の岡本体制が続いたし、私の場合も13年目を迎えます。私も誰かに交代してもらいたいですけど、結局やってくれる人がいないわけですよね。仕方がないからやっているようなものです。だからもめごとというのはないですね。

※会長をやられていて苦労したことはありますか?

 12年間、会長になって苦労したことは特別ないですけど、会員が会に入っていることに対してメリットを感じ、積極的に集まってくれるような活動を見つけることがやっぱり難しかったです。というのは工業移住者は経済的にも恵まれているわけですよ。農業で移住された方は地方に入って何年も下積みをされて、それから独立をして農場を経営されるわけでしょ。そういう過程がないからね。最初から高給とれるしね。ブラジルの社会では一般の工員と技術者との給料の差はものすごくありました。例えば、私が設計課長くらいのときに一般の作業員に比べると給料が40倍とかいう差がありました。逆にこういうふうに景気が悪くなって会社がリストラをはじめるとその対象になってしまう。つまり10人の工員をやめらせるより1人の課長クラスを切るとものすごい効果があるわけです。だからここ10年ブラジルの景気が悪くなって我々の仲間がかなり職を失って日本に出稼ぎにいってる人が非常に多いです。

※日本に出稼ぎにいかれている人が多いと聞きますが、今後工業移住者協会はどうなるのでしょうか?

 これははっきりしていることで、今工業移住者の平均年齢が58歳くらい。ということはサラリーマンをしていた会員の方々は定年退職しています。それぞれの会員が地方の役員をやったり、またはその指導者になって立派にやっているので工業移住者協会の価値は非常に薄くなっています。
 もう消滅していく団体なわけですから、なんかの形で残そうとすれば、我々が今やっている商工部会を発展的にコロニア、日系社会に広げて日系商工協会みたいなものを作っていくことです。そのために私は今年の後半からその活動をやっています。そういう形で工業移住者協会は残っていくと思っています。
 県人会と同じで我々も2世に受け継ごうとしたんですが、それはもう無理ですね。2世というのはやっぱりブラジル人だから個人主義の傾向が強くて意見もまとまらないし難しいです。また彼らに押し付けても仕方がないし、やってみたんだけどうまくいかないからね。これからは日系社会全体のひとつの新しい団体を作って日系企業をまとめていければと思います。
 今まで日系社会の歴史で企業がまとまってひとつの組織を作ったというのは過去ないんですよね。文化協会だとか、体育協会だとかそういうものはありますが、企業の協会はないわけです。もちろん進出企業の商工会議所はあります。そこに現地の企業は、おつきあい程度に入っているということで実質的にメリットのある会になっていないと思います。
 じっくり育てて、日系社会の商工業の人々がみんなお互いに利用しあっていけば、ろいろんな面でメリットが出てくると思います。これが私の今後のライフワークになるんじゃないかなと思っています。

※今のお仕事はどのようなことをされているのですか?

 13年間やった自動車部品の会社を共同経営者にのっとられたような形になって、それから商業の方、店と輸出入の仕事をやっています。本来ならばまだもの作りをやりたいという気持ちはありますが、このブラジルではもの作りをやるということは非常に大変です。

※どいう点がですか?

 特に税法や労働法の問題です。製造業にとって、税金も高いし、労働者が保護され過ぎているから、労働問題が非常に多いんです。ブラジルの労働法は世界で一番いいと言われていますが、それは前時代の、労働者が虐げられていた時代のもので、そういう時代にできた労働法であるから、非常に過保護で今に当てはまらないわけです。現在、企業はやることをきちっとやっているわけですから、あんなに細かいところまで労働者を保護する必要はないと思います。

※やっぱり今後ブラジルが伸びる要因としてはその辺ですか。

 そう。それは絶対的な問題ね。教育の問題と税法と労働法、これがよくならないとこの国はよくならないのではないかというのが私たちの持論ですね。これらがよくならないと工業は伸びていかないでしょう。

※現在の日本に対してどう思われますか。

 今の日本の社会は非常に恵まれて、経済的にも政治的にも安定していて、一般の国民は、文化と技術などを謳歌しています。しかし、それは日本の国の中だけで、ロシア、中国、朝鮮だとか周りに政治的に難しい国に囲まれていますから、何かあったときに非常に危険な環境にあるわけです。そういうことを日本人の一般国民はあんまり意識していないのではないかと思います。僕らは外にいて日本がそういう脅威にさらされるのではないかという心配をしますよね。日本人はもうちょっとものごとをシビアに考えるようにした方がいいと思います。例えば北朝鮮のミサイルの問題、日本の外交がちょっと低姿勢すぎるというか、もっと主張するべきだと思います。
 日本は莫大なお金をアジアに支援しているわけですからもっと胸を張ってどうどうと主張すべきだと私は思います。その辺では石原知事の今のやり方は拍手喝采したいですね。外交というのはデリケートな問題があるでしょうし強気ばっかりはできませんが、言わなければならないことはきちっとしなければいけないですね。

※ 日系コロニアについてどう思われますか

 昔から思っていることがひとつあるんです。なんでもかんでも日本におんぶにだっこというコロニアの態度、そういう態度を改めなくてはいけません。140万人もいる日系社会の3世4世のなかには経済的にも成功している人がたくさんいるわけです。学生寮や病院をつくるとか、公共施設を造るとき、その団体の会長さんが日本に行って頭を下げて援助をもらう、それはそれで結構なことなんだけど、しかしあまりにもそれをあてにし過ぎる、もっとコロニアが団結して自分たちのことを自分たちでお金を出し合ってやろうという、そういう独立した精神を持つべきではないかと思います。
 日系人の中には、お金もうけをした人がたくさんいるんだけど、その人たちは社会のために使わないで、家族だけに使う傾向があります。企業とは何なのかといえば、それは社会のひとつの組織なんです。そういう人は企業家としての認識が非常に薄いと思います。企業は儲けを必ず社会に還元しなくてはいけません。これは、経営者の最低限の条件です。日系人はそういう意識をもっている人が少ないですね。苦労してお金を稼いできたから、それを誰にもわたすまい、そういうことでは伸びていきません。社会のためにお金を使う、それは儲けるためのひとつの目的でもあると思います。きれいに儲けてきれいに使う、生意気なようなことだけど、そういうことを日系社会の経営者は考えるべきだと思います。

※ブラジルに来てよかったですか?

 僕自身は、ブラジルでいろんな経験したし、日本で得られないような会社の経営もできたし、来てよかったと思います。

※奥さんも一緒に来られたんですよね。

 言葉の問題もあるし、あの当時は何もなかったから、最初は泣いてくらしたけどね。
 一番女性にとって苦痛なのは、親戚家族がいないということと、社会環境が悪いということですね。うちの女房も2回ほどネックレスをひったくられたことがあります。だから女でありながら指輪もして歩けない、という社会に生きているとことが情けないというか嫌だというか、そんな危険な部分が本人も辛いみたいですね

※今後の展望は

 経済的な部分は、まだまだやってお金を儲けたいなという気持ちもあるけれど、ある程度経済的な部分は恵まれている方だと思うので、それよりも自分がこの世の中に生まれてきたという証拠を残したいですね。それをどういう形で残したらいいのか、というようなことを考えています。先ほど言った日系社会の商工協会みたいなものを実現できればと思います。
 50年後、100年後、その協会が大きくなって、工業移住者協会がイニシアチブをとってこうやって発展してきたんだよ、ということがどっかに残れば、それで満足なんではないかと思います。例えばそれが一行でも本のどこかに書かれれば、社会に何かしたということが残りますよね。そういうことができればいいな、と思っています。

※工業移住者協会は小山さんにとって何ですか

 最初は気乗りがしなかったけど、やっているうちに自分だけでなく社会にある程度奉仕できたんじゃないかと思います。そういう意味においては自分ひとりでボランティアをやるよりも社会的にお手伝いできたということで満足しております。

※ ご趣味は

 ゴルフとマージャン

※ 好きな言葉

 とくにないですね

※ 好きな食べもものは

 何でもすきです。フェジョアーダでもなんでも。


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