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     工業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
技術士: 中田 賢治さん

技術士: 中田 賢治さん (2003/04/11)
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氏名中田 賢治
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業技術士
生年月日1936年
出身地秋田県横手市
渡伯年月日


2002年4月

※ もともとはどういうことを勉強されたのですか?

 もともとは鉱山関係です。秋田大学鉱山学部をでまして、それで山に行こうと思って、北海道の三井鉱山に就職を決めていたんです。当時大学初任給が1万3千円なのね。その頃三井鉱山は1万9千円くれたの。金につられて決めちゃったんです。ところがちょうど北海道石炭鉱山でガス爆発で250人くらい生き埋めになったんです。昭和33年の10月のことです。私は一人息子なもんで事故にあったらやばいでしょ。それでうちのおっかさんが町の会社に行ってくれないかということになったんです。そのときには三井は内定していて実習も鉱山ばっかりやっていたんですけど、急遽、町の企業にきりかえたわけです。東京に本社のある新潟鉄工という会社です。結局、会社では、仕事は工作機械の設計でまったく違うことをやらされたんです。

※ 今やられている技術理論的なことはどこで勉強されたのですか?

私が工作機械技術部にいるとき、東京工業大学の隈部先生(助手)が学位論文を書くのに振動切削法を研究していたんです。これは世界で初めてのもので、先生は、これで学位をとったわけです。振動切削を工作機械に応用できないものか、ということで延べにして約5年間、私が東京工業大学に派遣されて研究しました。それが縁で研究生活に入ったわけです。会社からお金をもらいながら、朝から晩まで研究しました。そこで当時の大手企業の物作りのやり方と大学でのアカデミックな研究の仕方を覚えたわけです。
研究と機械の開発をやって3m500四角の断面で長さ10mの鉄の塊を巨大なカッター(直径75センチ)で削り、3面を同時に加工するプラノミラーという機械を日本ではじめて我々が作りました。当時日本は工作機の発展するときでしたからね、我々の考えたことはどんどん製品になりました。さっきの振動切削機械の開発は日本でも評判になり、振動タッピングマシーンと名づけて、アメリカをはじめ10各国で特許をとりました。

※ 今はどんな仕事をしているんですか?

経営には3大コストというのがあって、材料費、人件費、原価償却費(設備投資)、この3つなんです。設備費を必要最小限に出来るのは技術屋なんです。結局人づくりが大切だというのに気が付いた訳です。私は潰れた会社に行って再建に協力し、1977年にこの会社が借金を全部返して再建できたんで独立しました。大きい会社、小さい会社、研究生活などの今までの経験を生かしてやれるのは何かというと技術しかないんです。技術は単独ではありえないわけで、経営する手段としてあるわけです。そうなると技術コンサルタントなんです。それで1977年に埼玉県川口市に中田機械技術士事務所を開きました。

※ 技術士というのは一般的には馴染みのない職業に思うんですが?

技術士は唯一、国家(文部科学省/国家試験)が認めた技術の専門家資格で、今は約9000人の技術士会員がおります。もともと技術士になる人というのは大きな会社に勤めてひとつの歯車になってやるという人は少ないね。よくいえば独立自尊心が強い、悪く言えば、人との協調性にかけるんですね。
技術士というのはsoho(small office home office)なんです。ところが私はにぎやかな所が好きだし、寂しがりやだから、スタートすると同時に若くて、将来技術士をやりたい人間をみつけだして、弟子をつくり、2人の弟子とともに3人でやってきました。県の仕事、国の仕事、いろんな仕事を受けて、技術指導の仕事が始ったわけです。
当初の目的は初めから考えていますから、行くと必ず面白がってくれて「うちの社員を預かってくれ」なんていうことになって人を預かったりね。要するに、に物を作っていく仕事、開発する仕事、研究する仕事を教えるために私が預かったんです。海外からも韓国5人、スリランカ、中国北京、バングラデッシュ、マレーシアの各1人と合計10人きています。

※ どうしてブラジルに来られたんですか?

 海外の仕事は1980年代から韓国の中小企業振興公団などから仕事をもらっていました。その頃、預かった連中もいたし、海外の仕事というのはどんなに長くても1ヶ月しかいけなかったんです。それで、私の場合はショート・タームエキスパートつまり短期間の専門家として5年半(一回30日一年に二回)のJICA(国際協力事業団)契約でシンガポールに行った他、ロシア、東ヨーロッパ(6カ国)、インド、台湾、香港、マレーシアなどに行きました。
1990年にAOTS(海外技術者研修協会)で先生を月に5回くらいやっていました。台湾、中国、インド、ブラジル、アルゼンチンからも研修にきていて、彼らは1ヶ月くらい勉強して帰っていくわけです。サンパウロにも同窓会がありまして、ローコストオートメーションというテーマでリオとサンパウロでセミナーを頼まれたんです。そのときも3週間くらいで来たんですが、そのセミナーに来てすっかりブラジルが気に入ったんです。その理由がスッコ・デ・ラランジャ(オレンジジュース)がうまかったからです。ブラジルと縁ができちゃったわけです。
そのご、事務所も弟子に任せられるくらいに成長し、1993年にJICAの技術協力派遣員としてサンパウロに赴任しました。このJICAプロジェクトは2年計画で、テーマは、生産性向上でした。具体的には、サンパウロ大学の中にあるIPT(技術研究所)を拠点にして、先ず、2回のセミナーを行なって、たくさんの候補企業の中からモデル企業を30社選びました。その中にはイグアスコーヒーもあるし、アッシェという薬のメーカーもあります。これらのモデル企業を技術指導するブラジル人の個人コンサルタントを公募して23人選び、IPTの職員3名を加えた26人に基本的には5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)というのを覚えてもらい、研修教育を行いました。いわば、生産性向上のための人作りです。現場をとことん見て回って、どのように改善指導するか現状把握をし、徹底的に教育しました。

※ 終わった後はブラジルに残ったわけですか?

2年間終わった後、サンパウロ州道路公団から「今帰られては困る」と支援延長の要請が出たのですが日本側が延長を認めなかったんです。そこで、ブラジル科学技術省が動いて、この年に成立した新しい法律を適用して、私に永住ビザを出すことになったんです。ですから私のビザは「研究技術者招聘ルート」という珍しいルートで取ったわけです。
結局、永住ビザがとれて給料がもらえることになり96年の春から再びブラジルで働くことになったんです。

※ 現在はどのようなことをしているんですか?

日系企業も含めてコンサルを求められる機会が増えたんで、サンパウロでNAKAT Kaizen&Consulting を興しました。今、大手土建業者、日系食品会社、電機メーカ、自動車部品メーカ等と契約して、新製品の開発や生産現場の改善をやっています。

※ すべてポルトガルや英語でこの調子で話されるんですか?

いやいや、私は、外国語を喋らない技術士として有名なんです。だから今でもポルトガル語が少ししか話せないんです。だから必要なときには通訳をつけます。

※ ブラジルでお仕事されていて大変なことはどんなことですか?

いいことというのが伝わらないのがブラジルです。契約書をいくら作っても契約どおりいかなし、作らなければ、いろいろ問題もおきるし、めんどくさい国なんです。
日本産業社会の高い生産性は、雇用の促進、労使協議、成果の公平分配という三本柱に支えられていたといえますが、ブラジルにはこれと全く逆の状況が有るんです。ブラジルでこの生産性だけでもやろうとしても物凄い問題がある。なぜかというと、ことごとくそれに反するからです。ストライキはやるし、成果の公正分配なんてやったことないし、その点は世界でも下の方ですよ。だって日本だと労働者と社長の給料は何十倍、何百倍なんてことにはなりませんよね。ところがブラジルの場合は上の10%と下の10%の収入の割り算をすると今でも40倍くらいありますよ。ブラジルは今まで経験がないから、労使協議なんてないし、すぐ会社はクビをきるし、片方はすぐストライキなんてやるし古典的な労使関係ですよ。少しは変ってきていますが・・・

※ 長い海外生活で困ったことはないのですか?

1977年代から海外指導が始っているんですが、幸いなことに僕は一切時差ぼけがないんです。だから日本に行ったその日にすぐ行動しているしね。
僕は、ホテル暮らしになるとだいたいパンとコーヒーなんです。だからもともとあんまり米を食べないんで、食べ物の面はどこに行っても大丈夫です。
僕は酒を1滴も飲まないから、なんの楽しみがあるかというと果物が大好きなわけ。さっきもいったけど、スッコ・デラランジャが気にいちゃってね。

※ 何か若い方にいいたいこととかありますか?

いつも思うんだけど、目的がはっきりしないんだよね。やっぱり何をするにしても、何が目的なのか、はっきりしないとだめだよね。もうちょっと将来何をしたいのか、もっと具体的にいえば、何をもって社会に貢献するかということですね。それを若い連中はあんまりはっきりしないね。

※ 現在の気持ちとしては永住というつもりですか?

 もちろん。
10年くらい徹底的に働いてあとはブラジルとかヨーロッパを見て回りたいですね。ブラジルに基盤を置きながら日本や海外で仕事をしていきたいと思っています。そういう意味で日本や海外で稼いでブラジルで暮らして行こうと考えています。
具体的には、経営のコストを下げたり、新製品の開発をしたりする場合に、会社に役に立つような、製品、設備開発をやれる若い人のエンジニアの養成をブラジル、日本、アジアを含めてやっていきたいですね。

中田賢治さんのホームページ:
http://www.nakatakenji.net/


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