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     サービス業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
釣具屋経営: 小田 俊勝さん

釣具屋経営: 小田 俊勝さん (2003/04/11)
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氏名小田 俊勝
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業釣具屋経営
生年月日
出身地広島県
渡伯年月日1970年 ブラジル丸


2002年12月

※ ブラジルに来た理由は?

 最初からブラジルが好きだったんです。昔から、大陸が好きだったんで、ブラジル、カナダ、オーストラリア、そのうちのどっかにに行きたいと思っていました。

※ どういう移住の仕方で来られたんですか?

工業移住できました。私はアサヒペンタックスの修理、販売、そういうものを全部やってきましたから、簡単に来ることができました。技術があるのとないのとでは全然違いますからね。

※ 何歳頃から移住を考えたのですか?

移住までは考えなかったけど、外国に行きたいというのは16歳くらいから考えていました。なんにも技術がなかったからね、まず技術を身に付けなきゃいけないということで東京に出て、最終的にはアサヒペンタックスに入って技術を習得してでてきたんです。ブラジルに来てアサヒペンタックスはもうあったんで、そこで働いたりもしました。
日本にいる頃は、移住友の会というサークルで集まって勉強したり、講習会やりました。広島から、東京に出てきて、移住友の会の統一をやろうと思っていたんです。みんな移住しちゃうからできなかったけどね。

※ 最初ブラジルに来た印象は?

 ブラジルのことは、日本にいる頃から良く知っていたんです。だって、家族会連合会にもいたし、事業団にもいて友の会やっていたからね。ポルトガル語はやっていなかったんですが、知識があって、知人がいるという意味においては楽でした。でも、ベレンにあれほどビルがたっていることは知らなかったので驚きました。

※ どこに住んでいたんですか?

 リベルダーデ。リベルダーデから32年動いてないよ。
 最初はドイツ系のライカやローレックスなんかの会社に入っていたんです。でもあんまり給料はらわんかったから、早速ペンタックスにいきました。本当は最初カナダに移住して、そこのペンタックスに入る予定だったんですが、ダメになって、ペンタックスの方からパナマに行ってくれっていわれたんですが、だけど暑いからやめたんです。

※ その後いろんなお仕事をやられたんですよね?

写真関係の仕事は、ペンタックスからK・城島商会に移ったりして、4年くらいはサラリ-マンやったけど、その後は独立してカメラの修理と写真屋さんをやっていました。
その頃、たまたま、二世の知り合いがお店に来て、射撃をやらないかって言われて、その場で鉄砲を買いに行ったんです。それからずっと20何年射撃をやっています。射撃はオリンピック射撃でワールドカップにも行きました。最高は世界の42位。

※ やっぱりそこまでいくと紙一重なんですか?

 そうですね。みんな天才ばっかりだからね。国で勝って世界に出て行くというのはみんな同じよ、レベルは。それとあと運とかいろんなのが付くからね。でも、ブラジルなんかだと練習量が少ないから、難しい。アメリカとかドイツ、日本、ロシアでは6時間から8時間鉄砲を撃っているんだものね。弾も全部ただ、こっちは全部自分持ち、練習も全部自前だから、大変ですよ。それでも、世界大会に行けたというのは、運もあるよね。
始めたのは30歳からだったから遅かったんです。

※ やっぱり手の器用さなんかがあるんですか?

そういうんじゃなくて、天才的もんじゃないかね。できないもん、普通の人には。100人がやって絶対できる人はいないよ。1万人からそれ以上だろうね。だっていないんだもん。本当にできるんだったら、なんぼでも世界の人間が出ているでしょう。世界で集まっているのは、1種目、オリンピック射撃のライフル射撃だけでも180人しかいなんだもの。何億のなかの100何人しかいないんだよ。考えられないでしょ。だから何万人かに対して1人でるかでないかだよね。運もなければならないけど、それだけ練習もしなければならない、やっぱり天才的なものがないとできないということだよね。

※ 一日何発くらい撃っていたんですか?

1日1000発くらいかな。少ない方ですよ。多いときは1発1発2000発くらい撃つよね。

※ 射撃場も持っていましたよね。

 それは授業を教えたり仕事としてね。だから射撃で何千人というの人間を教えているよ。

※ ブラジル大会なんかはほとんど、総なめですか?

そうですね。負けないもん。自分で負けないと初めから思っているもん。やっぱり射撃が好きだよね。
ちょっと目の調子が悪いからって、最初2,3年やっていて辞めちゃったわけだ。3年目にサンパウロ州大会があるから行こう、って友達が誘ってくれて、クラブに行って大会に出たんです、3年間何もやっていなかったのが行って優勝しちゃったものね。それで、おれは天才じゃないかと思ったよ。だけども、次からやっぱりダメね、練習してないからがたっと下がった。で、壁にぶつかっちゃって、練習したよ。1に練習、2に練習、3に練習、ずっと練習よ。トレーニングで20キロのリックサックを担いで20キロくらい歩いたりしました。今もトレーニングをやっています。やっぱり精神統一が一番だ大事だよね。自分に対してどれだけ無になれるかっていうこと。だからどうやってやるか、ということはひとりひとり違うからいえないよね。
やっぱり大きな大会になると、みんな上がるでしょ、でも俺はあがらないんだよ。それだけ練習しているから。物凄い練習している。僕の性格上、やりはじめたら止まらないという性格なのよ。人間というものは自分の向いているものに一生懸命やるというか、練習というのは何やるにしても大事だよね。

※ 印象に残った大会は

 日本に行った時かな。1995年に日本で初めて世界大会が行われてブラジル代表として参加したんです。日本という国は、きれいだし、設備もいいし、なかなかいいと思いました。
ソウルの空港で鉄砲を出してくれなかったもんだから飛行機を乗り遅れちゃって、広島に行けなかったんです。広島の人は、はじめてくるブラジル代表をみんな待っていたわけです。しょうがないから、大阪に行ったんです。関係者は、僕がどこに行ったか、ということを着く10分前に調べて、大阪に着くということを知ったんです。それで、大阪税関、大阪府警、協会、農務省の人たちが待っていてくれたんです。降りたら、俺の名前が書いてあったんで、なんだろうと思っていると、どうぞこちらへ来てくださいということで、行ったら、みんな偉い人ばかりいるんだよね。それで税関検査して、広島まで警備をつけてくれました。本当、日本というのは凄いですよ。当時はオウムの件があったのでJRに乗れなくて、飛行機で広島に乗ったのですが、広島でみんな待っていてくれたんです。夜中の12時ですよ。いやー、さすが日本だと思ったね。警備から待遇まで凄いよ。それが一番の思い出だよね。成績はライフルが壊れてだめだったね。みんな応援してくれたんだけど失格になっちゃった。それからソウルの大会に出て、そこで42位になったんです。でも本当をいうと世界ランキングを取りたかった。それが取れたらオリンピックにいけたからね。

※ 今はどんなことをしているんですか?

今は釣りをやっているけど、リールやおもりを改良したり、やっぱり徹底的にやります。釣り道具屋やりながらお客さんがどっかに行きたいといえば連れていったりもしています。

※ 日本の若い人たちに何かメッセージは?

日本の人たちは日本のことに大してあまり知らない感じがするよね。外国というものを知らないし、日本国自体が安定しきったというか、平和すぎちゃって、もうどうしようもないくらい平和だから、自分個人として分からないことが多すぎる。今の日本人というのは、国というものを知らない、愛国心というものが無いですね。だって外国にでたら、どこの国に行ったって、愛国心が物凄く強いわけだ。だから紛争が起きるわけだけども。自分の国を大事にし、良く知らないとだめだと思うよ。それと同時に外国のことも良く知らないとだめだよ。外国をしらない、自分のことも知らない、何もわかんないと同じだよ。自分の国を愛することが大切だと思うよ。
若い日本人はいろんなことに甘くなりすぎると思う。考えないわけです、だから、甘えが生じて非行だとかそういうことが起きるのだと思う。それをしたのが親と思うよね。親の教育も悪いし、自分も悪いし、国も悪いよ。

※ ブラジルに来てよかったですか?
 
 ブラジルはいいとこだね。広いし、優雅だし、今ちょと治安が悪いけどね。

※ 今後は?

 このまま続けていきたいですね。ブラジルに来てからずっときたから、この調子で前向きに進んでいきたい。好きなことばかっりやっているからね。今、釣り道具屋やって釣りばっかりやって、週4日くらい海の上にいますよ。ブラジルだからこそですよね。


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