ゲートボール専門店店主: 金澤 倫子さん (2003/04/11)
| 氏名 | 金澤 倫子 |
住所 | サンパウロ州 サンパウロ市 |
職業 | ゲートボール専門店店主 |
生年月日 | |
出身地 | 山口県 |
渡伯年月日 | 1958年渡伯 ルイス号 |
2001年3月
※ブラジルには何歳の頃こられたんですか?
20歳前です。
※その頃、ブラジルはどうでしたか?
日本から考えると遅れていましたから、寂しくて日本に帰りたかったです。
※農業で入られたんですか?
父は再渡航者だったんで、ポルトガル語がベラベラでした。来たときから商売していましたので農業で入った人に比べると楽でした。最初にオリーニョスという田舎町に入りました。突然ブラジルばかりの中に放り込まれましたからポルトガル語を覚えるのは誰よりも速かったではないかと思います。
※ご結婚される前まではどういうことをしていたんですか?
父が魚屋していたんで店の手伝いをしていました。
※ご主人とはどこでお知り合いになったんですか?
主人は、日本で専門学校を出て開発青年隊でこちらに来てテレビの修理工をしていました。うちにテレビの修繕にきまして、同郷ということで話が弾んで、何度も遊びに来るようになって知り合ったんです。主人はあの頃一人だったから、郷愁があったんではないでしょうか。
※その後は?
二人の子供を残して主人が亡くなったんです。それから「子供の園」で住み込みで保母をしながら、2人の子供を育てました。もう、辛惨を嘗め尽くした人生です。
主人が亡くなって4年後に再婚しました。私が31歳のときです。再婚した主人は67歳くらいでしたから、40歳くらい違っていました。すごく若々しい人でそんな年齢差があるなんてとても見えませんでしたし、感じられませんでした。今もやっている「久保商会」の仕事で87歳くらいまで、車を運転して一緒に全伯を回りました。
※そんな年齢差を越えてまでも惚れた原因はなんですか?
そうですね。最後はお百度踏まれて、再婚に踏み切ったんです。再婚なんか全然考えてなかったんですけど。でも結婚して幸せでした。私の人生の中で一番やさしい人だった。結婚してよかったです。こういったお店まで残してもらえましたし。
※ゲート・ボール用品を売るきっかけはなんだったんですか?
昔から人が集まると何か売りたいなと思っていたんです。
再婚した当初は車にいろんなものを積んで地方に行って売って歩いていたんです。そうしているうちに、ゲートボール用品がないかと行く所々で聞かれたんです。それで自然にゲートボール用品を売るようになったんです。運が良かったというんでしょうね。時代の波に乗ったわけです。ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアまで全南米で売っています。
そんなわけでゲートボール連合もなにもないときに久保商会が始まったんです。※そうするとゲートボールを広めたのは久保商会といってもいいぐらいですね。そうですね。だから連合創立15周年のときに感謝状をいただきました。
※ゲート・ボール用品を売る前はどうでしたか? 日本食品や日用雑貨品を地方で売っていました。二人とも商売が大好きで、あの頃は持って行くものは何でも良く売れました。 いつも二人で楽しい時代でした。山の山の中で車が止まって、押したり引いたりしたこともあって凄い苦労でしたが、今振り返ると良かった思います。
※大会で出張販売もするのですか?ブラジル・ゲートボール公認の第一号のお店ですから、今も一生懸命ゲートボールの大会に出店してがんばっています。今度はメキシコであるミニ世界大会にいきます。今までハワイ、中国、全部ゲートボールが縁で行きました。
大会になると朝の3時からコートにいます。遠いところになると、朝の1時から州道を走っています。
今は運転手がいますが、主人が生きているときは、主人が運転して、ブラジル中走っていました。車の中にいる時間が長いので、夫婦喧嘩はそこになるんです。喧嘩している間にスピードがどんどん上がっていって150キロくらいになるんです。86、87歳くらいの人の運転でしょ、怖かったですね。
一度6メートルくらい下にドンと落ちたことがあります。二人とも寝ちゃったんですね。落ちて初めて二人とも気がついた感じでした。何も怪我はしなかったんですが車はダメになりました。
25年間いろいろ苦労しました。だから今があるんです。
※ご自分でもゲートボールをやるんですか やっていたんですけど、今は売るだけです。審判の資格をブラジルで6番目にとりました。審判のお手伝いは地方に行ったとき時々やります。結構好きなんです。審判が上手だって新聞に載せていただいたこともあります。
※ 今後はどいうことをやっていきたいですか今後もずっと続けたいと思っています。でも、もうあたし一人なんで・・・。でもがんばります。
※ 子供さんはやらないんですか?上の息子は京都大学に行って、クボタ大阪本社の技師になりました。下の娘は食品技師で中国の方に市場を開発にいくことになっていますから。
※商売に関しては堅いですか。 ええ、もしものことがあっても品物を切らせなくてもよいように道具は日本の3社の会社から入れています。
主人もいなくなって一人ですから、石橋を叩いています。全部メーカー品でしっかりしたものしか置いていません。
※販売で苦労したことはないんですか?ないですね。とにかく商売が好きですから、みなさん、私のいうことはなんでも信じてくれてどんどん買ってくれます。
※ブラジルでは買ってもお金を払わないなどという話をよくききますが。25年やっていますがそんなことは一度もないです。どんな遠いところでも信用で送ります。もし、いらなかったら送り返してもらって結構ですと一筆いれています。皆さん、必ずお金は振り込んできてくれます。だから前面的に信用して送ります。
※今の日本についてどう思われますか? 5年くらい前に主人と一緒に日本にいったんです。そうすると、右も左もわからなくて、どこに行ったらいいかわからないんです。日本人の顔してて日本語が通じるから冷たいんでしょう。デパートどこですか?って聞いても、皆突き飛ばすようにして歩いてて全然教えてくれないし、今の日本って冷たいなと思いました。そんな目にあいましたから、もう一度行きたいとは思いません。
※ご主人はなんていわれました?日本に行ったのは主人も70年ぶりだったんですが、中国の方を一ヶ月くらいかけて回りましたので、疲がでて日本に着くとすぐ東京医大に入院したんです。お互いの故郷を回ってから帰ってくるつもりだったんですが、そのままブラジルに帰ってきました。
※ご主人は病気で亡くなられたのですか? 主人が亡くなって今年で5年です。90近くになって、ほとんどご飯を食べなくなったんです。別にどこが悪いというのではなかったんで、老衰です。最後の最後までゲートボールが好きで一緒に行っていました。ゲートボール連合がとことんお世話してくれまして凄い立派なお葬式をしてくれました。主人とは23年付き添いました。
※ブラジルについてどう思いますか 人間があたたくて、ブラジルっていいな、と思います。外国に行ってもすぐ帰りたくなります。私ブラジルが大好きです。
※今は子供さんも手を離れて悠悠自適な生活ですね。そうですね。楽しみながら働いています。
※趣味は?商売と読書です。松本清張が好きです。
※今の日本の若い人達を見ててどう思いますか?息子が大阪から奥さんを連れて来るみたいなんですけど、私、ブラジルの2世の女の子が欲しい。新聞なんか見ていると、日本の若い人達はいろんな問題を起こしているんですよね。だからブラジルの女の子の方がポカポカしててようなそんな感じがします。でも誰でも温かく迎えたいと思っています。