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     サービス業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
プロ専用感材販売: 小松 英彦さん

プロ専用感材販売: 小松 英彦さん (2003/04/11)
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氏名小松 英彦
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業プロ専用感材販売と輸入
生年月日1935年
出身地長崎県
渡伯年月日1959年


2001年6月

※中国に行かれていたそうですが?

 それはうちの親父が医者なもんで、ちょうど第二次世界大戦のときに中国に行って病院を建てたんです。そのときに私も行って、6つの時から10歳の時まで約4年間そこで住みました。ちょうど多感なときだったせいもあり、一番懐かしいのは中国でも生活です。日本が勝って占領しているわけですから当時いい生活していたわけです。しかもうちの親が医者で開業していましたからいろんな患者さんたちや、その当時の中国人の名士たちとつきあいがあったんでしょうね。そういう関係もあって贅沢だったし、個人的な付き合いも多かったりして、そういうのが印象に残っています。

※その後中国には行かれたんですか?

行ってません。親父が引き上げたのは戦後だったんです。私が長崎に帰って来たのはちょうど終戦の8月でした。10歳の頃、もう危ないぞということで一人で日本に帰されたんです。そこで知人の家に預けられたんです。うちの親父は4年ぐらいたって帰ってきたわけで、それまでみなしごみたいなもんですよ。はははは。

※やっぱり中国にいたことがブラジルに来たきっかけにもなったのですか?

それもあるでしょうね。帰って来たころは日本も苦しかった時期で食べ物も少なく、経済的にも復興していなかったんです。ちょうどうちの親父のお姉さんがパラナ州に居まして、ブラジルに一回行ってみないか、面白いんじゃないか、見て来い、その代わりすぐ帰って来い、ということで来たんです。

※もともとは医学部を出られているんですよね。

そうです。親父に帰ってきて続けないとダメだと言われましたけどね。うちの親父は日本に帰って開業していましたし、代代医者の家だからやんなきゃダメだということを言われていましたが、ここに来たとたんにのんびりしたのが好きになちゃいましてねそのままブラジルにいついちゃったようなものです。実は、帰るつもりで夏休みを利用してきていたんです。

※もったいないですね。医者はあの頃もお金持ちの代表だったんじゃないですか?
日本の場合は金持ちということはなかったですね。私の場合は勉強するのは、なんでんも仕方がないからしなきゃいけない、ということでやっていただけで、別に医者になるというつもりもそんなになかったですね。

※でも医者になるのをやめるときは惜しくなかったですか?

別にそんなことは何も考えなかったですよ。ははは。

※その辺がいつも小松さんって大陸的な方だと思います。あんまり執着心が感じられないように感じるんですが。

ええ、特に場所に関しては執着しないですよね。もっともサンパウロに長く住んでいると住めば都になちゃいました。家族もできできちゃってここで仕事するようになったから、いわゆるそういう環境ができちゃったわけです。一度環境ができると人間はおかしなもので、ある程度の年齢になると、もう出ない、それが普通じゃないでしょうか。

※ブラジルに来てからほとんど日本には帰られなかったのですか?

親父の方から来まして、「おまえ何をしているんだ」って言うんで、「仕事みつけて働いているからそれでいいじゃないか」と言うと、親父もあきらめて、「そりゃ何も医者になる必要はない、おまえの好きなことをやるのが一番いいことだからって」いうことでした。

※お父さんはどういう方だったんですか?

うちの親父は中国に活路を求めていくような人間でしたから、医者とかそういう職業にはこだわらない人でしたね。

※ブラジルに来たばかりのころはどういうお仕事をされていたのですか?

しばらくぶらぶらして旅行なんかをしていましたから、お金もなくなちゃって、うちのおばがカンバラというところで農業をやっていたわけです。そこに半年くらいいまして綿をとったり、草を刈ったりしましてました。でもいつまでもそういうことをしているわけもいきませんでしたから、サンパウロに出たんです。
現地の人でハッカだとか綿だとかを輸出している商社があったんです。つぶれちゃいましたが、そこで仕事を覚えて、これがブラジルでの初めての仕事でした。
その後、自分でやるようになったのがきっかけになって今でも自分でやるようになったわけです。その間に、もともと写真が好きでしたから、富士フィルムに入って6年間ちかく働きました。

※ブラジルで医者になろうとは思わなかったんですか?

うちの親父にもいわれましたが、考えてみたら向かないし、勉強もやりなおさなきゃだめだし、それから医者というのは勉強は面白いですが職業としては患者を相手に一生すごすわけです。私はそういうのは向いていないので、それだったらやめた方がいいということでやめました。金儲けをするんだったら、医者じゃなくてどうどうと商売人なったらいいんじゃないかという気もありましたから。
※  ここに来て良かったと思うのは自由になんでもできるということです、日本の場合、何かをしなけりゃいけないというような環境の中にいて抜け出すのが非常に難しかったですね。
その辺はあなたも同じじゃないですか? ははは。

※僕はいい意味においても悪い意味においても日本の社会から落ちこぼれたと思っています。もちろんそれは日本の社会が一番という意味でなくて。

それはいろんな意味において私もそう思います。私自身も日本側からみれば落ちこぼれたようなものです。

※やっぱり商売をやってよかったと思いますか?

思います。自分で好きに選んだわけじゃないんですが、やっている間に環境が変ってそれを利用しながら、商売を伸ばしてしこうと考えてやっていたらこういうふうになちゃった。でも多くの人がそうなんじゃないですか。
は写真関係でだんだん輸入の方を伸ばしています。ヨーロッパなどのメーカーの代理店の権利を持っているのですが、ブラジルにいい製品を輸入して写真業界をレベルアップしたいというのが理想なんです。ところが経済的にブラジルは波が多いので四苦八苦しています。それでもやっていて面白いと思います。

※ブラジルの写真家はどんな感じですか?

私の関係している人たちはほとんどが商業写真の人なんですが、ひらめきのある人が多いみたいですね。スタジオを持ってきちんとやっている人はいわゆる外国系の二世の人が多いわけです。そうするとしょっちゅう、欧米に行って帰ってきたりする人が多いんです。またもともとカメラマンになる前にヨーロッパに長くいたりした人が結構多いんです。だから一応、撮影の技術は結構持っていますよね。でも数からいうと非常にわずかです。

※ポルトガル語が非常に堪能ですよね。

サンパウロに来ると一人でしょ。リベルダージのペンソン街に住み込んで高校で勉強したんです。そういうことで日本語を話す機会がなかったからうまくなったんでしょうね。富士フィルムに居た頃はスペイン語圏にも出張にいかされて、支店やエージェントでスペイン語で説明したり、もうがむしゃらでしたね。だからスペイン語も少し話します。今も家内と話す以外はほとんどポルトガル語です。現在の輸入相手は全部英語ですから英語も必要で、週に2回英語の勉強に行っています。まあ面白くてやっているわけですが。

※私なんか未だに全然だめですから、やっぱり小松さんは語学の才能があるんですね。

10歳のとき中国行ったときは、日本語もカタコトだったんです。中国語ばかりやっていました。そういことも関係しているかもしれません。

※日本の若者に対してなにかありますか?

日本の若者がどうなのかあんまりニュースも聞かないし、若者とあんまり話す機会もないのですが、最近はもっと自由になって外に出てるから、個人的に自由に自分の道を開拓できるようになっているんじゃないですかね。

※日本を見ていてどう思います?

日本の人を見ているとやはり、自分は日本人だから、外はやはり外国なんだと思っている人が多いようですね。やはり島なんでしょうね。それは私がはみ出してしまっているからそう感じるのかもしれません。たとえば、日本から来た企業だと日本から駐在員がきたりしていわゆる日本の企業だというのが残っていますよね。欧米の企業だとブラジル人でも優秀な人だと経営陣に入れたりしています。最近は大分変ってきているようですが、まだ差があるように見えますね。

※今後はどういう事をやっていきたいですか?

今後はやっぱり今やっている仕事を充実させていきたいですね。規模を大きくしないで、もっと知識を深め、中身深めて、業界のレベルアップに寄与していきたいですね。

※ブラジルに来て手よかったですか?

当然ですね。ははは。今ブラジルはいろんな問題が多いですけど、全体的に見て非常に自然に恵まれています。また個人でつかめるチャンスも恵まれています。人種も何も関係なく個人個人の友達と自由に関係をもてる。それがいいですね。例えば卒業した学校や、会社なんか関係なしに深くつきあえる人が出てくるということは非常に楽しいことです。


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