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     サービス業関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
旅行会社勤務: 高橋 新さん

旅行会社勤務: 高橋 新さん (2003/04/11)
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氏名高橋 新
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業サクラ観光 オペレーション課部長
生年月日1945年1月15日
出身地サンパウロ州 サンパウロ市
渡伯年月日


2003年1月

※ 日本語が非常にお上手ですが、どういうふうに勉強されたのですか?

家の中では日本語しか話してはいけない、といわれていたんです。ですから、初めてブラジル学校に行ったときは、ほとんどポルトガル語が分からないような状況でした。隣近所もみんなつきあいが日本人だったので、いつも日本語で話していましたし、自分自身も日本語が好きだったので日本語は高校までこちらの学校で勉強しました。

※ ご自分としては日本人の感覚の方が強いですか?ブラジル人の感覚の方が強いですか?

自分の中ではより日本人の感覚が強いと思います。考えもちょっと日本人的な考え方ですね。やはり日本航空に18年いたんで、日本人の付き合いも長かったですし、両親も日本の日本人ですから、教育も日本人的に教育されたんでね。

※ 大学ではどういうことを勉強していたんですか?

一時学生時代に留学していたんですけど、帰ってきて、大学では化学を勉強していました。今までずっとやってきた仕事は旅行会社ばかりでしから全然関係ないんです。だからなんのために化学を勉強したかわかりませんね。最初に仕事についたのはオランダの船会社に入ったんです。あしかけ5年いたんですが、船客部がなくなって、バリグ航空に入りました。日系人のエージェントさんと付き合い始めたのはその当時くらいからです。バリグは1968年から1980年までいて、日本航空にはいりました。
 
※ 当時航空会社で働いていて困ったことなんかはありませんでしたか?

 あの当時はあんまりコンピュータも入っていませんでしたし、僕の仕事は飛行場だったんで、お客さんの接待のようなパブリケーションの仕事をしていたんです。困ったとうことは、飛行場は毎日仕事がちがうんです。同じ勤務でもね。例えば、毎日話す人が違うし、飛行機の時間が遅れたり、フライトがキャンセルになったり、事故があったり、そういう大変さはあります。
バリグの職員は、日本航空の職員とは大きな違いがありますよね、日本航空の職員は必ず規則を守って、あまりフレキシブルじゃないですけど、バリグの職員はその点あんまり気しにしないし、全然仕事のやり方が違いますしね。どっちがいいか悪いかいえませんが、お互いにいいとこと悪いところがありますよね。ただ、日本人はもうすこし、フレキシブルな方がいいかなと思います。

※ 日本航空ではどういうことをやっていたんですか
 
ありとあらゆることをやりました。最初にブラジルのマーケットをもっと開発するためにセールスにはいったんです。航空会社の仕事は全部やりました。それで、またバリグにもどったんです。両方あわせてこの業界34年ですね。
時代がどんどん変ってくると、新しいことが増えてきますしね。やっぱりいろんな面で進化があります。
例えば、世界一周のキップの発券にしても今は、コンピュータになっていますから問題はありませんが、昔は計算機とマイレッジの値段表みたいなものがあって、運賃をだすわけです。だから距離的な部分で値段を出すわけです。以前、世界一周の場合は、どこまで絞ったら有効に安い運賃ができるかという、その工夫が大変だったんです。だから航空会社の競争がひとつのメリットだったんです。いかに安い運賃をだせるかとうことでね。お互いに航空会社が協定を持っていたんです。例えば、世界一周の場合、いろんな航空会社を入れた場合、受けてくれない航空会社もあるわけですよ。送金の問題なんかもありますし。今はクロバリゼーションで世界中の航空会社が協定を結ぶようになったでしょう。スターアリアンサとか、そういう関係で便利になりました。だから最近は発券に関しては問題がなくなりました。10年前までは大変でした。

※ 航空業界で仕事をしてて、面白かったことは?

やっぱり自分でこの仕事が好きなんですね。航空会社の仕事は昔からよく言われたんですが、航空会社はカシアッサ(ブラジリアン焼酎)だって言われたんです。というのは、一度やるとやめられない、ということなんです。今は、そういうこともなくなりましたが、昔は、みんなこの業界に憧れていたんです。世界各国に旅行できるとか、給料がいいとかね。

※ 逆に大変だったことは?

嫌だって思ったことはなかったですね。でも特に飛行場は大変です。当時、勤務時間が、午前と午後の2回しか分かれてなかったんです。特に飛行場で問題が発生したら、家に帰れないということがしばしばありましたよ。そういうのはやっぱり、ちょっと大変ですよね。例えば、霧やなんかで、空港が使えなくて、他の空港を使う場合、すぐに行って用意したりね
当時、フランスでバリグ機の事故があったんです。ちょうど帰ろうと思っていたら、ラジオ局から電話があって、フランスで事故があったらしいが本当かっていうんですよね。コントロール室に連絡してもその情報は入ってなくて、その3分後に入ったんです。だから、当時はラジオの方の情報の方が速かったんですね。原因はトイレのタバコだったんです。そういう事故が発生すると絶対同じような事故が発生しないようにしているんです。あれ以来トイレは世界中で禁煙になりました。

※ 日本には何回かいかれたことはあるんですか?

 日本航空の時代に年に3,4回いってた時期もありました。初めて日本にいったのは1970年で大阪で万博が行われていたんです。初めての出張だったんですね。日本は素晴らしい国だという印象はあったんですが、想像以上でしたね。
 困ったことは、住所ですね。初めての場所だから行き先がわからないでしょ、日本語でいうと、からかっていると思われたのか教えてくれないんです。特に東京は番地をいってもわからないでしょ。例えば、どこそこに行きたいといっても地下鉄で出口をひとつ間違えたらもう分からなくなるという感じですから。1回本当に分からなくて、4人に聞いたんです。でも教えてくれなくて、最後は頭に来て、英語で言ったんです。そしたら連れて行ってくれましたよ。だから必ず外国から来たといわないと、教えてくれないですよ。でも、外国人には凄く親切ですよね。まあわかりますが。外人と行くと彼には良くしてくれますが、僕は全然相手にされないとか。
 日本のエージェントのガイドの人に言われたんですが、外人さんは日本に対してお客さんで、丁寧に扱わなければならない、あんたたち、2世、3世は日本人だから後回しだっていわれましたね。うーんなるほどだなと自分でも納得しました。

※ その頃、サンパウロから日本まではどうやっていったんですか

70年代は、サンパウロ、リマ、ロサンゼルス、アンカラ、東京、ボーイング707で34時間でした。

※ 日本の日本人と仕事をしていて仕事しづらいなと思ったことはありますか?

バリグ時代に4回くらい、日本航空からこないかとという誘いがあったんです。バリグでは、日本人をよく応対していたんです。だから日本人とはあんまり仕事したいと思わなかったんです。どうも堅苦しく感じていましたから、4回目にどうせ受けるわけないと思って高い給料をふっかけたんです。それがokと言われたんです。でも、行って仕事をしてよかったと思いました。というのは日本の組織はしっかりしてますよね。日本が今のように伸びたことを理由をしみじみ感じました。だから食べず嫌いだったんです。日本の会社や組織の経営は凄く勉強になりました。

※ 日本の若者を見ていて感じたりすることはありますか?

 僕はちょっと寂しいと感じるのは、日本人が日本人らしくなくなってきたということです。今の日本の日本人より、こちら日系一世の人の方がはるかに、日本人らしいと思います。世界中に、先祖の日本人が撒いてくれた日本人の信用と信頼が凄い宝だと思うんです。でも、若い人たちにはだんだん少なくなっているような気がします。日本人として、先祖が誇れるような種をもう少し撒いていって欲しいですね。

※ やっぱりお子さんは厳しく育てられているんですか?

 いや、人にいうけど、本当のブラジル式で甘いなと思います。ははは。自分でも反省していますが。

※ 今後は?

 現在は海外からの観光客の受け入れの応対をしています。まだ思うようになっていないのでこれからもっともっとがんばってブラジルにくる客を増やしていきたいと思っています。


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